『津軽の野づら』(深田久弥 新潮文庫)
以前から少し気になっていた。青森市に八年間も住んだので、その風土や言葉は故郷のそれのように思い出せる。表紙の紹介には『浪漫性の濃い健康さに満ちあふれ、津軽の風土色ゆたかな地方主義文学の傑作である』と記され、興味をそそらないわけにはいかなかった。
しかし読んでみて、濃厚な津軽弁と女性視点に違和感を覚えた。あの独特なイントネーションを耳に蘇らせられる私には、この文体のリアルさがわかる。だから当初は著者を津軽出身の作家と信じて疑わなかった。
だが、この男には想像もつかぬような視点、展開は何か。と、思い至って、つい私は読み切らぬうちに著者の名をネットで検索し、そこで北畠八穂の存在を知ったのである。
もうこうなると素直には読めぬ。迸るような津軽弁が続くかと思えば、教訓じみた感慨が付加されていて、ああ、もらった原稿に添削するみたいにして注釈を入れていったのだろうかと勘ぐってしまった。
太宰の『斜陽』も日記の提供を受けて成ったものと聞く。そういう共同、結晶は、ひとつの帰結でもあろうと私は思う。
本書においては、離縁さえなければ、もしかしたら永遠に二人の合作に関する事情は表に出なかったかもしれないのだ。

以前から少し気になっていた。青森市に八年間も住んだので、その風土や言葉は故郷のそれのように思い出せる。表紙の紹介には『浪漫性の濃い健康さに満ちあふれ、津軽の風土色ゆたかな地方主義文学の傑作である』と記され、興味をそそらないわけにはいかなかった。
しかし読んでみて、濃厚な津軽弁と女性視点に違和感を覚えた。あの独特なイントネーションを耳に蘇らせられる私には、この文体のリアルさがわかる。だから当初は著者を津軽出身の作家と信じて疑わなかった。
だが、この男には想像もつかぬような視点、展開は何か。と、思い至って、つい私は読み切らぬうちに著者の名をネットで検索し、そこで北畠八穂の存在を知ったのである。
もうこうなると素直には読めぬ。迸るような津軽弁が続くかと思えば、教訓じみた感慨が付加されていて、ああ、もらった原稿に添削するみたいにして注釈を入れていったのだろうかと勘ぐってしまった。
太宰の『斜陽』も日記の提供を受けて成ったものと聞く。そういう共同、結晶は、ひとつの帰結でもあろうと私は思う。
本書においては、離縁さえなければ、もしかしたら永遠に二人の合作に関する事情は表に出なかったかもしれないのだ。
