その昔、私が新入社員として、ある企業のちょっと過酷な営業の仕事をしていたころ、お客さんや取引先に、ずいぶん厳しいことを言われて、契約を断られ続けたことがありました。当時、そうした厳しい対応をされて思ったことは、自分は自分が思っていたような人間ではなく、いま他人が評価している自分が、もしかしたら本当の自分なのかもしれないということでした。
私たちは、自分の性格や人間性のようなものに対して、一定のイメージを持っているかもしれませんが、他の人は、それとは全然違うイメージを持って、自分に接している可能性があります。ですから、自分というのは、自分が思っているような自分であるというよりも、他人が思っている自分のようなものなのかもしれないということを、頭の片隅に置いておくと、仕事も人間関係もスムーズに行くことがあるように思います。
実は、このことは、国同士の外交にも当てはまるように思います。たとえば、小泉前総理は、自身の靖国参拝を「心の問題」として、一つの個人的な信念としてとらえていたのですが、結果的にこの行動は、アジアの近隣国に多大な不快感を与え、同盟国アメリカの一部世論にも顰蹙を買うなど、ネガティブな"外交政策"として作用するようになり、最終的に日本の国益を損ないました。
ここで靖国参拝の是非を論じることはしませんが、ここでのポイントは、小泉さんの行動は、小泉さん自身の主観や、物事の善悪・正誤といったことを超えて、近隣国の政府と国民に多大な不快感を与え、またそれだけでなく、この問題を一種の外交上の取引材料にされてしまい、結果的に日本の国益を損傷したということです。
このように、外交の世界では、自国の行動が、その国の主観や、物事の善悪・正誤を超えて、他国や国際社会に予想外の影響を及ぼすことがあり、その結果責任が政府に降り注ぐことがあります。そして、このようなことは、別に外交の世界に限った話ではなく、私たちの身近な人間関係においても、似たようなことがあることは、私たちの多くが体験しているところではないかと思います。つまり、自分の意図や、物事の善悪・正誤を超えて、自分の行動がまったく違う形で他人に伝わり、その結果責任が自分に降り注ぐことがあるということです。
私たちは、こうしたことに対して、ときに腹立たしささえ覚えることもありますが、同時に腹を立てても仕方がないことも知っています。なぜなら、自分のAという行動を、他者がBと解釈したからといって、その人を捕まえて脳外科手術を施し、それをAと認識し直させることはできないからです。
誤解が生じた場合、それを解く努力をすることも大事なのですが、相手や状況によっては、誤解がまったく解けない場合もあります。ですから、そうしたどうにもならない「誤解」が生じてしまった場合、私たちが唯一できることは、相手が「誤解」した事実を受け入れて、それを計算に入れた次の一手を打つことだけです。こうした状況下では、あらゆる議論は無益だからです。
おそらく、私たちの多くは、こうしたことをいつの間にかどこかで学習し、一種の処世術のようなものとして無意識のうちに人間関係の中で実践しているのではないかと思います。しかし、小泉さんという人は、他の分野では一定の貢献をしましたが、こうした対外関係のイロハをまったく理解しようとしない人でした。
安倍さんが、今日から中国と韓国に行きます(報道)。両国政府とも、日本と関係修復を図りたいと願っていますが、両国とも、安倍さんに対し、安倍さんが自分で思っているのとは違うイメージを持っているかもしれません。しかし、安倍さんは、そのことに対して子どものように反論するのではなく、そのことを計算に入れた大人の外交を展開してほしいと思います。 //
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