平成うきよの覚え書き

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坂本竜馬、吉田松陰の実像は?

2010年02月15日 | Weblog
 坂本竜馬や吉田松陰がどのような人物で有ったか私はそれほど知識が無い。竜馬に関しては土佐を脱藩して維新の大事業に奔走している最中に、何者かによって暗殺された人物であり、剣の道にも秀でていたが、その合理的精神から絶えず短筒(今の拳銃)を持ち歩いていた等というものだ。又会社組織なるものをわが国で最初に作ったとか、新婚旅行にこれまたわが国で始めて行ったとか言う断片的なものである。これらの雑多な竜馬に関する知識が正確で史実であるか考えた事も無い。又これらはテレビ、映画、小説、その他雑多な読書によるものである。
 吉田松陰についても同様である。松陰は『松下村塾』なるものを開き多くの勤皇の志士を育て、安政の大獄で処刑されたが、明治維新の精神的支柱となった。子供のころの雑誌にあった、松下村塾の学び舎を作るにあたり、皆で壁を塗ったりして完成させた、というような逸話はよく覚えている。又『青年老いやすく 学成り難し 一寸の光陰・・」というような漢詩も松陰の作で有っただろうか。
 
 史実はさておき、竜馬・松陰が歴史上の偉人であり、多くの人の尊敬する偉人の(あるいは人気がある歴史的人物)一覧表に入っているのは間違い有るまい。

 二人の思想性がどのようなもので有ったか全く知らないが、少なくとも・頭脳明晰、冷静にして沈着・大胆な人物で有ったのではないかとかんがえている。

 NHKの大河ドラマのお二人は余りにも軽い。黒船に遭遇した二人の驚きようは如何だ。あのような漫画的なものであったのだろうか。恐怖と感動をない交ぜにしたような、動作は少なくとも胆力があり、明晰な頭脳の持ち主のものではないと思われるが如何でしょう。

 お二人ともに志半ばに、余りにも若く獄死・暗殺されたことから判官贔屓もあって多くの支持者が居るのかもしれない。
 松陰について不遜を承知で考えている事を書けば、当時禁止されていた密航を企てて失敗したのであるから、自業自得という事だ。何故それほどまでに外国に行きたいと思ったのであるか。外国に行き文物を摂取しないとわが国は外国に滅ぼされてしまうという危機感からの行動なのであろうか。若しそうであれば立派だとは思うが、かなり思い上がって自意識過剰、自己を客観的に見られぬ浅い人物で有ったと思う。当時20数歳やむを得ぬことかも知れぬが、神格化は大きな誤りだと思うのである。若き天才的数学者とか音楽家というような人物は想像できるが、社会的・思想的・学問的分野における若き人物というのは私の理解を超える。

 松下村塾の顰に倣い小松下氏が創設した『松下政経熟』から政治家になった、前横浜市長中田、石原を尊敬しているという神奈川県知事のことを考える時、『何々塾』なるもののいかがわしさを思うのである。
竜馬については[wikipedia]によれば以下の記述がある。
 坂本 龍馬(さかもと りょうま)、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、日本の武士(土佐藩郷士)、明治維新に影響を与えた政治家、グラバー商会(ジャーディン・マセソンの日本代理販売店)代理人として武器輸入に関わった実業家。

土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事績についてはさまざまな論議がある。



 昨日の竜馬は、一家総出で桂浜に集まり、竜馬が外国名を次々と叫び概略の地理上の位置を叫ぶというもので有った。知識と想像が錯綜して狂気に囚われているようで実に滑稽で不気味でさえ有った。
 こんなばかげた場面は決して無かったであろうし、NHK製作関係者(笑い)のお粗末な想像力の賜物、(大笑い)あるいは国民総白痴化の片棒を担ぐ陰謀、と思うのは私だけか?

 そういえば『安政の大獄』という日本史上有名な事件は、単なる幕府の弾圧・悪事というように学校で習ったように思うが左に有らず、という歴史的見方も有る。

 以下ブログ『心に青雲」からの転載させていただきます。

 安政の大獄の真相

 教科書に書かれている歴史ほどあてにならないものはない。
 教育は国家100年の大計にしたがって、子弟に文化遺産の修得をなさしめるものであるが、それと“直接に”時の権力がその支配意志貫徹のために庶民をいかに洗脳するかを主眼とする。だからわが国の歴史を教える場合、それはわが国の文化遺産がいかなる過程を経て現在に至っているかを、未来建設のために、歴史上の事実のみならず政治や文化などの変遷の論理構造をも学ばせるものという建前は把持しつつも、その実、歴史の中身は権力にとって都合の良いものになり、不都合な隠したい事実は隠蔽される。
 したがって、教科書に書かれている歴史は、権力側が子弟に恣意的に理解させたいものになっているのであって、真実は必ずしも提示されない。教科書を決定する文部官僚も権力の下僕ならば、“権威筋”たる大学教授も権力によって飼われている奉公人である。大学教授は建前では専門家となってはいるが、権力の意向に逆らうような異説にはまずもって賛同しない。それががっちりと“象牙の塔”のなかで徒弟制度的に継承されてきている。このシステム自体は、明治維新で日本が欧米列強=ユダヤ金権力に屈し、彼らの教育と支配システムを導入せざるを得なかった(進んで導入したが)結果である。国家にとっての文化・学問の正統性は、権力がお墨付きを与えた大学機構が担うことになっている。この場合の権力とは、日本の場合はとくにアメリカ=ユダヤ金権力の属国であるから、日本政府とか、日本の黒幕としての存在とかが決めているのではなくて、あくまで究極的にはユダヤの指示である。
 全部がウソとは言わないけれど…。
 では具体的に見てみよう。
 安政の大獄は、幕府大老の井伊直弼が、尊王攘夷派を大弾圧したとされる事件である。幕府は、アメリカの砲艦外交に屈して、日米通商条約を締結した(1858年 安政5年)。ここまでは事実である。さてそこから先、教科書ではどういう記述になっているか。自虐史観の代表、清水書院の「新しい社会 歴史」(平成4年版)を見る。
 「幕府が外国の要求に譲歩してばかりいるのを見て、大名や武士・公家らの間に、日本は危機に直面しているという考えが強まった。こうした考えを持つ人びとは、尊王攘夷を主張し、朝廷をよりどころとして、もっと強い態度を幕府にとらせようとし、幕府が朝廷の許可を得ないで条約を結んだと非難した。直弼は、反対派の大名や公家を処罰し、橋本左内や吉田松陰らをとらえて処刑した。これを安政の大獄という。しかし、この弾圧は、幕府に対する反感をいっそう強めることとなり、1860年(万延元年)、直弼は、江戸城の桜田門外で、水戸藩などの浪士たちにおそわれて殺された。」
 自虐史観ではないはずの扶桑社の「新しい歴史教科書」も同じような記述である。学校でこう教わっているのだから、ほとんどの人がこの記述で違和感は持たないであろう。ところが真実はそうではない。
 八切止夫の『野史辞典』(日本シェル出版 昭和55年)をひもといてみると、
 「征夷の勅命さえ賜れば、征夷大将軍になれるものと考え、水戸斉昭が京屋敷の鵜飼幸吉に献銀させ入手した密勅事件。つまり次々と各大名が公家に出入りの商人に銀を贈って、勅を賜っているのに驚き、井伊大老が贈路側と贈賄した双方を捕え、ついでに過激派の者も一緒に治安維持のためにと逮捕した疑獄事件。
 故に、当時京都所司代に調べられ投獄されたのは、公卿屋敷出入りの髪結いや呉服店ばかりである。
 さて、薩長も勅を銀で入手していたゆえ、疑獄ではまずいから、明治になって弾圧事件とした。それに贈位と一時金ほしさに、水戸人もみな協力してしまい、美談化したからに他ならないのが真相。」
 転載以上
 以下明日以降に続く・・・
 
 

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