barayuka雑記

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残り少ない水

2024-07-12 14:30:40 | 詩のようなもの
残り少ない水ですべてのことを把握することが出来ない。感受性を目一杯使って、相手の話をきいている。そういうことをして無理して対処することで、命を削ってるかもしれない。そのギリギリの感じで生きてることが怖くて、そのことを書いてみることにした。

カウンセリングに行った。初めて行くカウンセリングルーム。私の話はわかりやすい、と言ってもらえた。今でもそんなふうに言ってくれる人がいるんだ、と少しホッとした。でも私自身はいっぱいいっぱいに気を張って話してしまうのを知っている。目の前にいる人にそれをうまく伝えることはなかなか難しい。反射的に話してしまうより、留めることのほうが必要なのだ、とどこかで思ってる。私は話さないことで自分を守ってきた、ということを伝えることができた。それは私が慣れているやり方で、私はそうすることで自分を守ってきた。改めてとてもしっくりくることだった。

聴くことによって情報をストックしている。私にとってそれが戦略だった。話しすぎてしまうととても傷つくのだ。自分の内側に刃が向かってしまうように、痛みを感じてしまう。自分を危険にさらしてしまうと感じるからだ。

「頭に入ってこない?」ときかれた。頭だった耳だったか。先日デスノートのアニメを見たと話して、それ以外、普段はドラマも映画も集中して見ることが出来ないと話した時。過去に繋がっているものはみることが出来る、と自分で説明しながら、そういうことを言葉に出来たのが奇跡的なように思えた。映画もドラマも集中してみることができない。みることが出来ないということは、正常なら見て楽しむことが出来るということだ。出来ることと出来ないことは表裏一体だ。出来なくなったということは出来る自分がいたということだ。

カウンセラーさんの話をききながら、カウンセラーさんが着ている緑色のカーディガンをぼんやり眺めていた。綺麗な緑色だ。丸首のカーディガンは私はあまり着ないやつだ。デイケアで出会ったヒソヒソと声を潜めてお喋りをしてた女性利用者がお揃いのように丸首のカーディガンを着ていたのを思い出した。あれは既婚者の女性がよく着てるもののような気がする。私は何を着ていくか迷った挙げ句、半袖のブラウスを着ていった。久しぶりに単体で着てみるとエアコンの効いた電車内でも室内でもちょっと体が冷える感じがした。少しだけ肉が付きすぎた体は隠せる気がした。

耳に入っていない、というなら、カウンセラーさんの言ったことも、耳に入りづらくなってるのかもしれない。それから、表情が強張ってる、とあまり思ってなかったことを言われた。改めて鏡で見てみたら表情が半分なくなってるように思えた。自分の持っている感情の水溜りが思ってるように、表情には反映されていないのだ。少しショックだった。
私はどうやって残り少なくなった水を取り戻したらいいんだろう。この水を使い切ったら、私は意識がなくなって消えてしまうんじゃないかと思った。

カウンセリングのお金を払って、帰りに寄ろうと思っていたスターバックスに立ち寄った。スタバに行く理由は慣れているからだ。カウンセリングをやっていたところはカフェになっていてカレーが美味しそうだったけど、初めて行く場所でカウンセリングを受けてカレーを食べて帰るほどのコミュニケーション力はなかった。少し後ろめたさを感じながら出てきた。スタバの2階でお茶を飲みながらぼんやりとさっきのカウンセリングを振り返った。表情のことを言われたのを思い出し、カメラを使って自分の顔に触れながら表情を確認してみたりした。少し落ち着いてきて、ブログに書いてみることにしてアプリを立ち上げた。記事を書いていたらお客さんが増えてきて、ざわざわした気配に少し癒されるのを感じた。勉強をしている人やパソコンを使っている人は、自分にとって同じ空間にいて落ち着く人たちだ。少しだけ気力が回復したきがした。

残り少ない水ですべてのことを把握することが出来ない。でも少ない水がギリギリ察知しようとする、人間のありよう。少しだけ知っている。人は人を都合よく利用したり見捨てたり騙したりするのだ。少しだけそういう可能性を感じつつ、あまりにもかすかにしか感知できない。騙されてても傷つくことすら出来ないなんてことになるかもしれない。気付けない自分というのに私は傷つくのだと思った。騙されることより、騙されてしまうことに。私は把握していたいのだと思った。だけど水が明らかに足りない。だけど私は生きようとする。








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