barayuka雑記

時々立ち寄る場所

家に帰ってきた・・・ところでダラダラとひとりごと

2024-08-18 21:09:37 | 詩のようなもの
第九のレッスンが終わって家に帰ってきた。
帰る途中に感じたことを色々文章にしたりしながら帰ってきたけど、帰ってくるととても偏ったことを書いているなぁと思った。ただ、なんとなくそういう風にでも言葉にせずにおられない気がその時はしてしまうのだ。大げさだと言われそうだけど、自分の存在が消えてしまいそうに頼りないから、見えない敵に抵抗したり戦ったりしてしまう。実際にそういう人はいるかもしれないのだけど、わざわざ出かけて行ってしまうのだから自分が迂闊な気もする。

会場にいるときはとにかくとても楽しい。教わることがとても楽しくて、その時その時言われたことを受け止めて歌うのが楽しい。話をきいているだけで楽しい。でも、終わるとなぜか突然、疑心暗鬼の時間がはじまってしまう。これは何の時もそうで、素直に信じてしまった自分を直後に責めてしまうのだ。きっと私はあの団体と運命共同体なわけではないからだと思う。いつかどこかに去ってしまうような人間に本気で愛情を注いだりするわけにもいかないんだろう。帰ってきてみればそういうことがわかるのに、その場にいるといちいち振り回されてしまう。

人間は弱いから、私たちは集団だから、自分が思っているよりお互いに影響を受ける。子供のころは受け身でいてもいいし、怒られたりしないし、素直であることはむしろ賞賛される態度だったりする。そうして多くのことを学んだ過去の経験を同じように享受したくても、それだけでは済まないようなものがあるらしい。お金を払っているから客なのか、それだけではない責任や条件が求められるのか、どうなんだろう。
きっと、人によって、その集まりに求めるものが違うんだろう。音楽というのは簡単ではないなんて、私ごときが言うつもりはない。自分なりにまじめに取り組んで楽しめればいいし、その深度が人によって違ってもそれは仕方ないと思ってる。どっちにしろ、影響は受けずにいられないから。専門教育を受けたことが楽しむ心を摘み取ってしまうんだったら、私はそれは本末転倒だと思ってしまう、まじめにやることでさえ、誰かのプライドを満たすためにするのではないというか、そういうことをしたいならそういう場所にいけばいいのではと思ってしまう。私の個人的な考えでは、公募で参加者を募ってやることはそれとはまったく違う意義があると思う。開かれたチャンスならどんな人でも挑むことは自由だ。自分のやりたいことがあるなら他人に憎しみを向けている暇なんてあるだろうか。

私の考えが間違っているなら、私がその場から去るべきかもしれない。
自分のことでいっぱいいっぱいだと他の人のことなんて知る前にみんな自分より充実していたり恵まれてるように見えてしまうから、なんとなくわからない人間に対して敵視してしまうのかもしれない。私ごときに嫉妬する要素なんて全くないと思うし、むしろお前ごときが、という思いなのだろう。だとしても、私にも私の言い分があったりする。音楽の質について勝ち負けを決めたいというなら、そういう人こそ何か謙虚さを欠いてうぬぼれているのではと思ってしまう。私ごときだからこそそう思ってしまう。

許可したのは私ではない。それなら、私を当選させてくれた人に言ってほしい。私は自分の居場所を得られることが当たり前だなんて思っていないので、誰かに嫉妬してても、それをむき出しにしたり決してしたくないと思うけど。

純粋に音楽を、といっても、崇高なものであるべきと思っているわけではない。集まればどこかで縄張り争いみたいになってしまう、そういう感じは、人間としての嫌な部分だなと思う。そんなことする必要なかったんだ、というふうになれればいいなと思っているのだ。敵じゃないですよアピールをしたところで、そういう行動がかえって胡散臭く思えてしまうこともあるような気もする。人間は難しい。

上手に悪口を言えるのがうらやましいとか、思わぬ方向に学んでしまって、隠した嫌味を言ってくる人もときどきいる気がする。もともとの性格として皮肉っぽいなら全然いいのだけど、そういう人が結構やっかいだなと思う。皮肉っぽい人はなにも人に勝ちたいわけではないと思うのだ。皮肉っぽくなってしまうということは、本人にとっては割とじりじりと自身を抉りながらでもそうしてしまうようなところがあって、その原動力は自分が持ち続けたい信念や理想のためだったりする。決して勝ちたいからじゃない。浅はかな真似なんてムカついてしまう。

気が付いたらこんな年齢で、みんな結婚して子供がいて・・・当たり前のように、ほぼ既婚者ばかりの参加者なのは、歌詞の意味などを知ると当然のような気がするのだけど、明示されない境界を黙って受け入れないといけないのが人間なんだったら、もうあんなように新鮮に見えていた世界を見ることはにどと叶わないんだろうか。何もしらないふりをして、いつも初対面のように人に会っていたい。きっとでもあの場にいる人たちはそんな風に思わないんだろう。

歳をとりたくないなんて言わない。でも、ずっと新鮮な気持ちで学べるようでありたいと思ってしまう。
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BはBlindのB

2024-08-18 18:59:58 | 詩のようなもの
テレビ界の人が一般人を騙して持ち上げるための言葉というのがあるらしい。
これを言っとけば笑って機嫌よくしてくれる、みたいな。お客さん商売には確かに、そういう決まったプレースのようなものがあるよね。よく質問されることとか、いつもぶつかる問題への対処法とか。

私は時々馬鹿にされるけど、いつも初めてあったような気持ちで接する、みたいなのをやってしまう。そういうのを保つのが私は大事だと思ってて、でも、わかる人にしかわからないことを言いたいんだって。まぁ、安心したいんだよな。

決まり切ったネタ。そのうち、CはチャイナのCとか、言われるのかもしれない。
FはFlügelのF、そういう話を去年もきいたけど。

人間は、賢くならないほうがいいよな。
ロクなことを考えないから。
悪口の言い方ばかり進化させていくなんて、それって退化してるんじゃないのか。

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大海の一滴の独り言

2024-08-18 17:55:02 | 詩のようなもの
全部がわかるわけじゃないの

むしろ殆どのことはわからなくて、ただ音楽のように流れている。日常に流れる音に紛れ込む、普通の音。きいていたり、きいていなかったり、きこえてきたりする。私達は人間と言っても動物の種のうちの一つに過ぎないから、隣の人が何を言ってるかが気になってしまう。

ぼんやりと聴いてる雑音の中にきこえてくるものがあって、ある日突然そういうことを口走ってしまう。でも普段は黙ってるよ。私達は集団だから。
クーラーをつけた部屋で、眠たくなって、絨毯に寝転んで眠ってしまって、次の日に目醒めたらもう忘れている。日常から離れない生き方が一番大事だと思っている。
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楽しい時間と正しいナントカ

2024-08-18 16:51:59 | 詩のようなもの
第2回目の第九のレッスンの後に書いている。
とても楽しいレッスン。でも私には刻まれたトラウマがあり、そのことを思ってしまう。

素直に感想を言えないのは、みはられているような気がしてしまうから。その気配は楽しむ気持ちを台無しにさせてしまう。共有された秘密には特別に許された特権意識を感じてしまう。
人は人の気持ちがわからないのは当たり前で、わからないからこそ立ち止まったり、謙虚になったりすることが出来ると思っている。わからなさこそが人の知性や思考の精度をどんどん高めさせてくれるのだ。私たちは自らの無力さを知り、天に敬意を払い、わからない中で差し出されたものがどんなものであるかで相手を知ることができる。人間は小さいから自分に自信がないのが当たり前。だから人とともに生きようとする。

わからないということは手抜きをしないことだ。そのプロセスをきちんと通ることを待つ姿勢でもある。プロセスを通過したからこそ、その気持を理解することができる。結果だけを求めるならプロセスは置き去りにされてしまう。最大限に学ぶことが喜びであるならば、わからなさを持つことを当たり前に許容して、そのあるがままであることを尊重しないといけない。でもそれは、必ずしもその存在を無視することとは違うのだと思っている。私たち誰もが小さきものだから。


話を聴くことが何よりも楽しく、何故か言葉が耳に飛び込んでくる。その意味が自分の中に届いてくるのを感じる。音楽って魔法なのか、みたいなことを何度も思っている。それは遠くから目の前に飛んできたり、離れているのにこちらに向かって何かを訴えてきたりする。時代を超えてメッセージを投げかけてきたり、そばにいるように思わせる、それって何なんだろう。私にはよくあることだけど(As is often case with me)、フィギュアスケートのファンだったり、ベートーヴェンについて書いたロマン・ロランに共感できる気がすることがある。難しい用語は使わない。

たけど、トラウマが蘇る。あの人達は、きっとそうしないと生きていけない可愛そうな人なのだ、みたいなことを言いたくなってしまう。もしそうなら、私は言葉を閉ざしてしまわないといけなくなるだろう。私は永遠に水が湧き出る井戸ではないのだ。水を奪われることは私にとって命を失うことだと思う。たくさんお金をかけてきたから、というのがその理由であるのならそれは言い訳だと思う。そんなこともわからなくなったのならもはや人間とは呼べない何かなのだろう。

私は月を待つ。言葉を失ってたど微笑むだけの日々を送るようになるのかもしれない。

私は井戸ではない。私は教科書ではない。 
私は正しいナントカではない。
ポエムは個人のブログで、仕事はそれとは別に誠実に行わないといけない。自分に傲ってはいけない。

仕事に自分など不必要だ。独り言は日記の世界だから出来ることだ。河合隼雄の言う中空構造はそういう状態を指していると勝手に思っている。

私たちは神の容れ物であるが、私たちは神ではない。

私たちはその意思を忠実に再現させる容れ物であるために、いつも自分のあり方に注意を払わないといけない。


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必要性と月

2024-08-18 13:31:41 | 詩のようなもの
書くことが目的になってはいけない。それは私にとっては自分を生かすための必要性があってすることだから。健康のために死ぬみたいなことになってはいけない。

そういえば最近何気ないところで月をよく見ている。買い物に行った時)たまたま目に入る看板など。風月、名月、満月、鼓月、などである。
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