goo blogがサービス終了してしまうそうだ。blogを始めたきっかけは姉がアカウントを作ってくれたgoo blogで、同じブログをずっと続けてきたわけではないけど、それ以来ずっとgoo blogを使ってきた。正直、寂しさを感じる。維持する方も手間がかかるし、変化の早い時代だし、代わりになるものなんていくらでもあると言えばあるのかもしれないけど、ずっと使ってきた人は他にもいるだろうし。
私ははじめはblogなんて全然乗り気ではなかった。SNS全般、たまたま姉にアカウントを作ってもらっただけで、他にmixiなんかもそうだけど、自分が積極的な気持ちで始めたものではなく、自分が書いたものに縛られてしまわないように自分なりに制約を設けながらやっていたりした。SNSは自分が思っていたよりもその後ずっと社会に広がってキラキラしたインフルエンサーのような人も現れるようになったけど、私は早い時点で自分が良いところばかりを見せて、演じるような生き方は無理だと思ったので、アカウントを作ってくれた姉に背いてこっそりと自分の本音を書くようなblogを自分で開設して書いたりもしてきた。もはやblogもSNSも、一部の人だけが使っているような愚痴吐き場ではなくなり、コンテンツとして成り立つようなものを書いている人も多く、でも私は誰かに何かを伝えたり出来るほど偉くもないし悟りも得てもいないと思ったので、あまり誰かに向けて何かを発信するというようなものは書けないでいた。それでよかったとも思う。
私は社会なんてずっと長いこと同じような形を保ってるのだと思っていた。少しずつの変化はしていっても、基本的には同じような営みをずっと繰り返してきたんだと思っていて、新しいことなんてそうそうなく、大体落とし所なんて決まってるもんなんだろうと思っていた。だから、新しい発見など書けないし、そういう「当たり前」のようなところに人生が収まるように生きてきたつもりだった。それなのに、自分が思ってようには全然なってなくて、当たり前のものをほとんど得ていない。下手すれば精神的には歳すらとってない気がする。まともに社会参加も出来てなくて、結果的にblogや twitterなどのプラットフォームに長くとどまっている。電車であるなら早く発車しろよというところだ。
少しずつは変化もしている。社会も、自分が知らないところでは変化しているところもあれば変わらないところ、淡々としているところもきっとあって、何が社会なのかわからない。戦争が起こるかもとか地震が起こるかもとか言われていても、SIZUYAでサンドイッチを頼み、お茶を飲みながら本を広げてついでにblogを書き込んだりしている。ある人が、変化は外からやってくるなんて言ってたけど、変化が外から侵入してくる人はある種恵まれた人なのではと私は思う。動かなければ何も得られないというのが自分の常だった。だから、受け身で何かを得られたり、惰性で生きることを少しだけ意識的に受け入れてるところがある。行動で解決してきた人は受け身で何かを得る機会をちょっと損しがちになってしまう。そしてやっぱり、機会が少なかった人には、それを獲得するための誰かの見守りや手助けが必要なのだと私は思う。私はそれを得ることが難しかった。
blogは一応データをダウンロードして、どこかに引越しするかはまだ未定でいる。