barayuka雑記

時々立ち寄る場所

宇宙的なこと

2024-07-21 18:50:04 | 詩のようなもの
ちょっと不思議な話でもあるのだけど、自分が「これは宇宙的だな」と思うようなことが時々ある。宇宙は、イメージとしては色々と共有されている共通のイメージがあるけど、何かを宇宙的だな、と思う時って、あまりその根拠がわからない。宇宙と関連していそうな知識を私がもっているわけでもない。宇宙と関連してそうな知識と言えば、自分のイメージでは物理学とか、重力とか、時間と空間とか、相対性理論とか、真空とか・・・。ただ、わからないけど、私が宇宙的だと思ったことは例えば、猫の話がある。

これは以前にも何度もSNSに書いていることだけど、何かを失った代わりに家に猫が来たのでは、と思ったことがある。家で飼っていた猫が初めて家にきたとき、喪失感でいっぱいだったときだったので、自分の中にすとんと代わりに与えられた、みたいな感覚があった。何かを失って、代わりに何かを与えられた、というのはなんとなく宇宙っぽい。普段から猫が飼いたいな、と思っていたわけでもない。もともと家には猫がいたのだけど、その猫との出会いが自分にとってなにか運命的なものと感じられた時、その出会いは宇宙が与えてくれたもののように思えた。

それと似た感覚で、郵便物に宇宙的なものを感じることがある。これは実際には、その郵便物が来るきっかけてになったものって、過去に自分がつくったものだったりする。何かを申し込んだとか、何かを買ったとか、どこかに登録したとか、そういうきっかけがだいぶ後になってから抜群のタイミングで自分にチャンスをくれたりすることがある。ハガキならそのハガキが、自分の意識と繋がっていて、ある日いきなり目の前にあらわれたとき、なぜかそのハガキがどこかからワープしてきたみたいに感じることがある。それはいつもタイミングに驚かされるからなのだけど、それは星の動きみたいなのと繋がっているような感じもするし、引き寄せのように感じたりもする。たまたまなのかもしれないけど、今ここに生きていて別の空間からたよりがやってくるとき、自分の知らないところで知らない間に動いている別の世界を感じることでもあると思う。

フィギュアスケートを観てるとき、このプログラムは宇宙的だな、と感じることがある。曲のもつイメージとか世界観とか、スケーターが氷上に描く大きなカーブとか、天に伸びる手とか天上を見上げる仕草とか、ペアスピンとか、あんまりそれがなぜ宇宙か、というのはわからない。ただ、自分には理解しえない何かの仕組みが働いていると思う時、その大きさや太刀打ちの出来なさやゆだねるしかないものを感じるとき、それを宇宙的だと思っているのかもしれない。

宇宙的なものは、また、サインだったりする。何かを焦っているとき、自分を見失っているとき、自分がつかまるべき今ここを教えてくれるものだったりする。それはリズムの源流だ。

SNSを見ているとき、距離感がわからなくなるのは、文字を見ていて、この別の空間があることを忘れているからだと思う。
Twitter(X)でスペースという機能があるのも、同じような意味があるのかな、と思った。





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気をつけること

2024-07-14 15:52:13 | 詩のようなもの
ブログを書くのに、記事を書くために記事を書かないように気をつける。生活をして、何かをして、何か感じた時に記事にする。、その順番を忘れないようにしたい。

今日は、というか、今日も調子が悪い。言葉がうまく話せなくなってる。無理せずに、でも今日は家の掃除を少しでも進めたい。
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農家の親

2024-07-14 06:20:45 | 詩のようなもの
引きこもりになってしまってるのに、引きこもりであることをどこかで認めたくなくて、ずっと家の中で抵抗していた。好きでこんな風になったわけじゃない、という思いがあった。
昔、両親は共働きだったので、家には誰もいないのが基本だった。両親が働きに出ているときは、外にいる両親が自分の向かうべきモデルの役割を果たしていて、その時のほうが目標はずっと持ちやすかったと思う。モデルがいたから、なんとか社会に出ていけていた。だから、両親が定年してから頑張り方がわからなくなったところがある。
家は農家なので、両親は定年退職してもやっぱり働いている。はじめはそのことが結構つらかった。私はずっと社会的なアイデンティティをえることが困難で、ずっともがいているようなところがあるのに、両親は定年したところでやっぱり働く場があるのか、みたいに思えて、そのときはじめて、退職したら少しは自分のことを見てほしい、みたいな思いがあるのに気が付いた。それは結局叶わない思いなのだけど、そもそも持っていることに気づいてなかった。
親はずっと立派な人だ。どちらも公務員をしていて、社会のために生きている。退職しても農業をしてて、米を作ってるから、社会全体に貢献している、みたいに見える。どうやっても立派な親であることが時々すごく辛く感じる。比較すると、私って何をやってるんだと思ってしまうから。でも、社会からみたら立派な親なのに、私自身はほぼほぼ放任で、助けてほしいときに助けてくれなかったという思いがある。
母は他人に命令したりされることが嫌なタイプなので、私もそうだと覆ってる。言われたことをするなんて嫌やろ?みたいに思ってるみたいだけど、私は言われたことをするのは全然嫌じゃないし、そのほうがラクなのにと思ってる。なので、助けを求めるといつも思いがすれ違ってしまう。それがずっと辛くて、退職してから何度もそのことでぶつかった。ぶつかってもあまり理解には至らなかったようだ。
家が農家をしているから、なんとなくそれを手伝わないといけないという思いがありつつ、なんとなく親の人生に振り回されるみたいになるのが嫌だった。手伝いをする、ということになると、自分のやりたいことやすべきことを後回しにしないといけなくなるというか、なし崩しに向こうの都合でしか動けなくなりそうだった。だから手伝いたくなかった。家にいるのに家のことをしないなんて、すごく自分勝手かもしれないのに、私自身の人生はいつまでたっても始まらない気がして、ずっと抵抗していた。親がえらいから、誰にも理解されないようにも思っていた。自分を優先するより、自己犠牲を求められるように思っていた。だから自分のことが話せなかった。どこかでずっと恥のような気持ちも感じていたし、自分を責めていて、とても苦しかった。
農家なんかに生まれなくない、と思ってみても、都市伝説とか陰謀論では食糧危機が来るとか、災害がくるとか言われてて、そういうのをきくと、農家である家から離れることなんてできない気がした。
手伝うことにしても、実は農家は普段からそんなにやることがあるわけじゃない。あるといえばあるのだが。自立したいと思っていた私は基本的にどこか両親に背を向けているところがあって、でもそうはいっても両親も歳をとっていってるから、それを見て見ぬ振りもできないとも思う。結局両親の年齢のことも考えて、私は私の意思でそういうところも気を付けないといけないと思ったし、少しくらいは手伝わないといけないと思った。はじめからそう思ってはいても、受け入れるのは結構難しかった。
両親はなんだかんだ思想が強く横のつながりがある世代、団塊の世代なので、自分に落ち度があるとそういうことをどこかで共有されてるような気がする。弱ってくる年齢だと思っていたらやっぱり油断できないというか、結局強い世代で、傷つけられたりする。私はなぜかやたらこの世代に縁があり、合う人会う人みんな団塊の世代だったことがある。さすが人数の多い世代だし、みんな個性が強いのでなんとなく雰囲気でわかるようになってしまった。
親となんとか関係を保ちつつ、役に立てる人だと認めてもらわないといけない。ほっとけばいいみたいには私は出来る立場ではない。結局振り回されている。
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残り少ない水

2024-07-12 14:30:40 | 詩のようなもの
残り少ない水ですべてのことを把握することが出来ない。感受性を目一杯使って、相手の話をきいている。そういうことをして無理して対処することで、命を削ってるかもしれない。そのギリギリの感じで生きてることが怖くて、そのことを書いてみることにした。

カウンセリングに行った。初めて行くカウンセリングルーム。私の話はわかりやすい、と言ってもらえた。今でもそんなふうに言ってくれる人がいるんだ、と少しホッとした。でも私自身はいっぱいいっぱいに気を張って話してしまうのを知っている。目の前にいる人にそれをうまく伝えることはなかなか難しい。反射的に話してしまうより、留めることのほうが必要なのだ、とどこかで思ってる。私は話さないことで自分を守ってきた、ということを伝えることができた。それは私が慣れているやり方で、私はそうすることで自分を守ってきた。改めてとてもしっくりくることだった。

聴くことによって情報をストックしている。私にとってそれが戦略だった。話しすぎてしまうととても傷つくのだ。自分の内側に刃が向かってしまうように、痛みを感じてしまう。自分を危険にさらしてしまうと感じるからだ。

「頭に入ってこない?」ときかれた。頭だった耳だったか。先日デスノートのアニメを見たと話して、それ以外、普段はドラマも映画も集中して見ることが出来ないと話した時。過去に繋がっているものはみることが出来る、と自分で説明しながら、そういうことを言葉に出来たのが奇跡的なように思えた。映画もドラマも集中してみることができない。みることが出来ないということは、正常なら見て楽しむことが出来るということだ。出来ることと出来ないことは表裏一体だ。出来なくなったということは出来る自分がいたということだ。

カウンセラーさんの話をききながら、カウンセラーさんが着ている緑色のカーディガンをぼんやり眺めていた。綺麗な緑色だ。丸首のカーディガンは私はあまり着ないやつだ。デイケアで出会ったヒソヒソと声を潜めてお喋りをしてた女性利用者がお揃いのように丸首のカーディガンを着ていたのを思い出した。あれは既婚者の女性がよく着てるもののような気がする。私は何を着ていくか迷った挙げ句、半袖のブラウスを着ていった。久しぶりに単体で着てみるとエアコンの効いた電車内でも室内でもちょっと体が冷える感じがした。少しだけ肉が付きすぎた体は隠せる気がした。

耳に入っていない、というなら、カウンセラーさんの言ったことも、耳に入りづらくなってるのかもしれない。それから、表情が強張ってる、とあまり思ってなかったことを言われた。改めて鏡で見てみたら表情が半分なくなってるように思えた。自分の持っている感情の水溜りが思ってるように、表情には反映されていないのだ。少しショックだった。
私はどうやって残り少なくなった水を取り戻したらいいんだろう。この水を使い切ったら、私は意識がなくなって消えてしまうんじゃないかと思った。

カウンセリングのお金を払って、帰りに寄ろうと思っていたスターバックスに立ち寄った。スタバに行く理由は慣れているからだ。カウンセリングをやっていたところはカフェになっていてカレーが美味しそうだったけど、初めて行く場所でカウンセリングを受けてカレーを食べて帰るほどのコミュニケーション力はなかった。少し後ろめたさを感じながら出てきた。スタバの2階でお茶を飲みながらぼんやりとさっきのカウンセリングを振り返った。表情のことを言われたのを思い出し、カメラを使って自分の顔に触れながら表情を確認してみたりした。少し落ち着いてきて、ブログに書いてみることにしてアプリを立ち上げた。記事を書いていたらお客さんが増えてきて、ざわざわした気配に少し癒されるのを感じた。勉強をしている人やパソコンを使っている人は、自分にとって同じ空間にいて落ち着く人たちだ。少しだけ気力が回復したきがした。

残り少ない水ですべてのことを把握することが出来ない。でも少ない水がギリギリ察知しようとする、人間のありよう。少しだけ知っている。人は人を都合よく利用したり見捨てたり騙したりするのだ。少しだけそういう可能性を感じつつ、あまりにもかすかにしか感知できない。騙されてても傷つくことすら出来ないなんてことになるかもしれない。気付けない自分というのに私は傷つくのだと思った。騙されることより、騙されてしまうことに。私は把握していたいのだと思った。だけど水が明らかに足りない。だけど私は生きようとする。








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何度目かわからない悪口。

2024-07-07 13:11:58 | 詩のようなもの
色んなことがわかってきた気がする。でも、それについて、あえて言及したり指摘したりするべきなのかがわからない。
私は世の中は信用によって成り立っているのだと思っていた。だから、きちんと礼儀や規範を守ってどんな人ともうまくやらないといけないというのが社会人として当然求められるものだと思って生きてきた。そういったものは常識として認められてきたものなのだと思っていたし、あえてそれを破る必要性なんてどこにも感じなかった。
すべての常識は明文化なんてされてない。不文律という言葉は私にとってはあまりなじみのある言葉ではなかったけど、別の形で同じことを信じていた。でもそれは人によってかなり認識に違いがある。わかりやすい形として、ルールを守ることが全ての人にとっての安全を守ることに繋がっているから必要だということはそう苦労せずわかることだと思う。そう思いたい。プライバシーを侵害しない、人の嫌がることをしない、そういったことがないと安心して生きていけないのだから、疑うことではないと思う。

でも、そういったことをつまらないと公言する人が結構いることもわかった。
競争したり、出し抜いたり、力を誇示したり、そういうことをして勝ち抜いてこそ、生きる意味を感じられるみたいな人もいるらしい。そういう人にとって、他人の弱みを握ることは蜜の味だったりするらしい。遠くから見てる分には面白いと思えても、大概の人はそんなことされたくないのではないだろうかと思う。それでもその人たちがそれを選んでいるなら、憎まれても仕方ない。憎まれっ子世に憚るというし。でも、端的に下品だし、私はものすごく傷ついてしまったので、それを許せなくてすごく辛い。

人を大事にしないから、傷つくことを平気で言うから、被害者ぶるわりに他人を犠牲にすることをいとわない姿勢だから、私は「東京の人」を徐々に嫌いになっていった。はじめはものすごく取るに足らない小さなことだった。でも、ほんの小さなことすら謝ったりすることが出来ず、一切の非を認めることをしようとしない彼らを、好きになれる理由がないように思うようになった。それなのに彼らは自分たちの作り出すコンテンツが一番だと思っている。あまりにも傲慢だと思う。

思いやりとか優しさとか、きっと私が憎むに至ってしまった人にとってどうでもいいことなんだと思う。私は他人への期待がやめられない人なのかもしれないけど、あえてそこまでする必要がどこにあるのかわからない。他人を蹴落としてでも輝きたいなんて思ったことがない。そんなことをしてしまったら、私はきっと自分を誇ることなんてできないだろうと思う。そう思う自分でありたい。

そこまでひどく言わなくてもいいのにとか、空気が読めないとか、しらけるとか、そんな風に思う人もいるかもしれない。そう思うならどうかもうほっといてほしい。私は何もお願いしていません。自分がどうありたいかは自分で決めたいと思う。全ての理由を言葉にすることはできないけど、できないのはしたくないからじゃなくてできないからだ。身体的な限界は自分にとって体の痛みとして感じてしまう。そういう苦労をしながら無理して許したりなんてしなくてもいいのだと思った。ひとりでそう決めた。私のことは私しか守れないから。

東京の人は、メディアの人は、酷いことをする、としか思えない。私はそれが誰かもわからないから「東京の人」ということしかできない。彼らは独善的で、理不尽で、他者に敬意をはらうことができない。相手が嫌がってることなんてどうでもいいみたいだ。テロリストみたいな人たちだと思う。

大事なことなのに、エネルギーを奪われて、徐々に言葉に出来なくなったというのもある。要するに病気になってるのに。でも彼らのことだから因果関係は定かじゃないから自分たちは悪くないというのかもしれない。お前らのせいだよ間違いなく。そして、原因が特定できない症状がたくさんでていても、医者がそれを無視している。無能。無能はお前らが言われるべきことじゃないのか。専門家は自己保身しかしない。自己保身しかしないのに自分たちが一番優れてるみたいな顔をしている。知性なんてないだろ。怠慢だろ。

自分自身、寛容でありたいとずっと思ってきたのに、最近はそれをすることが自分の苦しめるだけのことになってる。向こうからしたら勝手に自己犠牲してるということにしかならないんだと思うから、それなら私も自分にとって都合よく選択するだけだ。遅すぎたことを悔やんでしまう。もっと早くに絶望するべきだった。

発信者は自分で哲学をえてほしい。自分の配信の答え合わせを視聴者に都合よく求める発信者って、ただ相手を利用してるだ。勝手に出しゃばって、全ての面倒は視聴者に押し付けるような配信者なんて必要ない。見たくない。その人にとって利益になるかどうかはそれはその人が決めることだというのは当然だし、コメントしろというからしてもコメントすると不機嫌になったりして罪悪感を煽ったりしてコントロールするなら、コメントなんてしないほうがいいと思う。それは私ははじめからわかっていたことだったのに、期待したかった。それをもうやめようと思う。迎合して当たり障りのないことをいうしかないのなら私がコメントする意味なんて何もない。

何度も何度も犠牲にされている気がする。発信者が視聴者を選ばざると得ないことは必然なのかもしれないけど。私だって好きで今のような自分であるわけじゃないし、私だって自分が生きるため選択をしないといけない。

東京なんて嫌いだ。人でなし。自己中。お騒がせ。すぐ騒ぐし、不幸ぶっても他人の苦しみに同じように興味を持ったりもしなくて、結局承認係としてしかまわりのことをみてない。私はお前らのお母さんじゃない。
ゴミ箱みたいなポジションに疲れた。




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