私は詩人が嫌いだ。私はすべての詩人を知ってるわけじゃないし、詩がどのように出来ているものだとか、どんなものなのかとか、何も知らないと思う。だから私が嫌いな詩人は全ての詩人ではないだろう。本棚にぎっしりつまった文庫本と、それをきちんと読み込んできたであろう文体がどんなに美しくても、そこにどんなに積み重ねを感じようと、私はその人にとって、おもしろおかしく生きてきた人生をつまみ食いされ、なにもかもわかったかのように詩におきかえられたとき、それは暴力だと思った。彼は笑いながら、可笑しそうにそうしていた。そんな風にされることにこちらが痛みを感じてるなんて、全く想像もしていないように。かつては詩が人の言葉にならない苦しみを代弁してきたはずだ、と思う。それはどんなにつたなくても、言葉にされる意味があって、それを慈しんだり、大切に思うものが詩だったのだと思う。力がなかったり、弱い立場に立たされたり、それでも生きようとする人の微かな声だったり、叫びだったりを、共にそこに立ち、同じ気持ちで言葉にしていたのではなかったのか。だけど私が見たのは、自分に酔いながら、他人の人生を勝手にドラマに仕立て上げ、自分の能力に酔う堕落した詩人気取りに、私には見えた。本棚にきちんと並べられた文庫本は美しいコレクションで、知識も言葉も、十分にお金をかけて得られたものなんだろうと思った。その陶酔した世界は、現実を生きてきた自分の人生なんて、何も表していないのに、自分だけの陶酔のレンズで勝手に私の人生を雑に引用し、何の言葉も持っていない私をどこかで嘲笑っているのだと思った。なんて醜悪なんだろうと思った。
その人が予想してもないことをしてやりたくて、直接その気持ちをそのままぶつけてやった。まさか私がそんな形で反撃してくるなんて思ってもいなかったように、相手は言葉を噤んだ。ように見えた。しばらくしてもそのことを振り返っているところが見えたので、効いていたのだと思った。私は美しい言葉では彼には勝てなかったから、暴力のような言葉で殴った。このなめ腐った若者に、一太刀でも返してやれたことは、よかったと思う。
詩人は人を殺している。その無知さで。その無邪気さで。その浅い思慮で。知識も言葉の武器も何一つ持たずに生きることが尊いとは言わないけど、ただ、なくても生きなければいけなくて、少ない言葉を自分がどんなに大切に守り抜いてきたかなんて、この人にはわからないだろうと思った。私はそのことについて、そのことを伝える義務があったのだと思う。