barayuka雑記

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詩人の殺人

2024-05-09 14:50:40 | テーマ投稿
私は詩人が嫌いだ。私はすべての詩人を知ってるわけじゃないし、詩がどのように出来ているものだとか、どんなものなのかとか、何も知らないと思う。だから私が嫌いな詩人は全ての詩人ではないだろう。本棚にぎっしりつまった文庫本と、それをきちんと読み込んできたであろう文体がどんなに美しくても、そこにどんなに積み重ねを感じようと、私はその人にとって、おもしろおかしく生きてきた人生をつまみ食いされ、なにもかもわかったかのように詩におきかえられたとき、それは暴力だと思った。彼は笑いながら、可笑しそうにそうしていた。そんな風にされることにこちらが痛みを感じてるなんて、全く想像もしていないように。かつては詩が人の言葉にならない苦しみを代弁してきたはずだ、と思う。それはどんなにつたなくても、言葉にされる意味があって、それを慈しんだり、大切に思うものが詩だったのだと思う。力がなかったり、弱い立場に立たされたり、それでも生きようとする人の微かな声だったり、叫びだったりを、共にそこに立ち、同じ気持ちで言葉にしていたのではなかったのか。だけど私が見たのは、自分に酔いながら、他人の人生を勝手にドラマに仕立て上げ、自分の能力に酔う堕落した詩人気取りに、私には見えた。本棚にきちんと並べられた文庫本は美しいコレクションで、知識も言葉も、十分にお金をかけて得られたものなんだろうと思った。その陶酔した世界は、現実を生きてきた自分の人生なんて、何も表していないのに、自分だけの陶酔のレンズで勝手に私の人生を雑に引用し、何の言葉も持っていない私をどこかで嘲笑っているのだと思った。なんて醜悪なんだろうと思った。

その人が予想してもないことをしてやりたくて、直接その気持ちをそのままぶつけてやった。まさか私がそんな形で反撃してくるなんて思ってもいなかったように、相手は言葉を噤んだ。ように見えた。しばらくしてもそのことを振り返っているところが見えたので、効いていたのだと思った。私は美しい言葉では彼には勝てなかったから、暴力のような言葉で殴った。このなめ腐った若者に、一太刀でも返してやれたことは、よかったと思う。

詩人は人を殺している。その無知さで。その無邪気さで。その浅い思慮で。知識も言葉の武器も何一つ持たずに生きることが尊いとは言わないけど、ただ、なくても生きなければいけなくて、少ない言葉を自分がどんなに大切に守り抜いてきたかなんて、この人にはわからないだろうと思った。私はそのことについて、そのことを伝える義務があったのだと思う。
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2024/05/01 記述人格と子供人格

2024-05-02 06:56:00 | テーマ投稿
言葉にできないことばかり。自分が自分でなくなる恐怖みたいなのを感じてるかもしれない。曖昧な言い方しかできないほど、自分の自我は脆く危ういものに感じる。私が自我だとか自分だと思っていたものは、それに注目していたらそこに気を取られて別人格のようになってしまう。私を一つのまとまりとして持たせているものはなんだろう。

普通なら、他者の存在との間に自分というものは持たれるんじゃないかという気がする。身近な人だけでなく、知らない人も含めてそこに人がいることを意識すればそこに自分って感じられているものかもしれないけど、もっと無意識にぼんやり、気がつけば起こっているかもしれない。

SNSやインターネットの世界にいると、そこにも人の存在を感じる。中には深くその人の気配や息遣いや思慮を感じることもある。錯覚かもしれないと思いつつ、確かめたい気持ちに囚われるけど、よほど気をつけなければ、境界線を踏み越えられたり、もっと別の根本的な過ちに巻き込まれたりするのではないかと思った。自分の人生に対して不意に誰かの介入を受けるのは怖いことだと思う。

私は昨日本屋に行って買った本をすぐ読もうとしてた時、どちらかというとかなり無防備な状態だった。本屋で手に取ったその本は「記述」の本だと思った。中身を見てそう思ってしばらく読んでみて、読んでみたいと思った。そのような文章に触れたときに背中にある結び目のようになっている部分が反応していて、そこにいる自分がそれをもっと確かなものにするために対話をはじめたがるのだと思う。それを眺める自分がいた。

それにしてももう一人の私はヘラヘラしていて、表向きは全く別人格だっただろう。記述と対話する人格は、実際に一つの人格として扱うべきなのかもしれないが、疲れると知らないうちにどこかに行ってしまう。微かなその気配を感じ取っていたもう一人の子供が本を読むことを進めようとした。スターバックスでカモミールティーを注文して席をとってしばらく本に集中していたら、記述の人格は微かにその意味を感じたりながら読むことが出来た。子供人格は記述の人格のしたいことをわかっているからそこにいようとする。でも買ったばかりの本にうっかりお茶を盛大にこぼしてしまった。

隣に座っていた人が笑顔で声をかけてきて、カウンターに拭くものをとりにいってくれた。知らない人なのに当たり前のように、気前よく手伝ってくれた。カウンターのお姉さんも笑顔で心配してくれた。
ほんとすみません、と繰り返しながら溢れたお茶を拭いた。お茶は開かれたページのかなり広い範囲に溢れていたが、あまり色のないカモミールティーだったことは幸いだった。

私は手伝ってくれた好意的な人の優しさに感動していたけど、心のどこかでは何か異変を感じていた。本当は異変ともはっきり認識できてないほど微かなものだったけど、私が異変を感じたのは、「微かにしか異変が感じられない」ことについてだった。警戒心がなさすぎることに警戒心を感じ、その私は親切な人に深く入り込ませないようにさせたのだと思う。その私はお腹のあたりにいる。やはりバラバラに働いてしまっているのだ。それを確認したのは、今この文章を書きはじめてからやっとそう感じられたことで、朝起きた時は自分が自分であることが酷く曖昧に感じられ、言葉にすることも出来なかった。もっと怖かったのは、怖ささえうまく感じられなかったことだ。そこに私は「感じるべき感情が感じられていない」異変をまた感じて、それをblogに書いてみることをかろうじて思い出せた。そして文章を書きはじめて、少し安心するところがあったので、書いてよかった。

隣にいた人は、私のことを知っている人なのだろうか、というのは何となくその場にいた時から感じていた。でもかろうじて、「初対面の人との間に相応しい距離感」をとるために、お腹の私は努めたのだと思う。しばらく読んでそろそろ帰ろうとしたとき、お腹の私は隣の人とカウンターの人に挨拶することをそつなく選択し、実行した。実行したのは子供人格である。お腹人格に言わせると「やれやれ」と言ったところだ。子供人格は人にすぐ懐こうとしてしまう危うい人格だ。

「べき」という考えが、子供人格を無防備にしてしまう。そこで働いている「べき」は「こうされたかった」でもある。それは過去に叶えられなかったものの残骸かもしれない。

「私」はこれをまとめた。安心して、少し眠ろうと思う。



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