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barayuka雑記

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何度目かわからない悪口。

2024-07-07 13:11:58 | 詩のようなもの
色んなことがわかってきた気がする。でも、それについて、あえて言及したり指摘したりするべきなのかがわからない。
私は世の中は信用によって成り立っているのだと思っていた。だから、きちんと礼儀や規範を守ってどんな人ともうまくやらないといけないというのが社会人として当然求められるものだと思って生きてきた。そういったものは常識として認められてきたものなのだと思っていたし、あえてそれを破る必要性なんてどこにも感じなかった。
すべての常識は明文化なんてされてない。不文律という言葉は私にとってはあまりなじみのある言葉ではなかったけど、別の形で同じことを信じていた。でもそれは人によってかなり認識に違いがある。わかりやすい形として、ルールを守ることが全ての人にとっての安全を守ることに繋がっているから必要だということはそう苦労せずわかることだと思う。そう思いたい。プライバシーを侵害しない、人の嫌がることをしない、そういったことがないと安心して生きていけないのだから、疑うことではないと思う。

でも、そういったことをつまらないと公言する人が結構いることもわかった。
競争したり、出し抜いたり、力を誇示したり、そういうことをして勝ち抜いてこそ、生きる意味を感じられるみたいな人もいるらしい。そういう人にとって、他人の弱みを握ることは蜜の味だったりするらしい。遠くから見てる分には面白いと思えても、大概の人はそんなことされたくないのではないだろうかと思う。それでもその人たちがそれを選んでいるなら、憎まれても仕方ない。憎まれっ子世に憚るというし。でも、端的に下品だし、私はものすごく傷ついてしまったので、それを許せなくてすごく辛い。

人を大事にしないから、傷つくことを平気で言うから、被害者ぶるわりに他人を犠牲にすることをいとわない姿勢だから、私は「東京の人」を徐々に嫌いになっていった。はじめはものすごく取るに足らない小さなことだった。でも、ほんの小さなことすら謝ったりすることが出来ず、一切の非を認めることをしようとしない彼らを、好きになれる理由がないように思うようになった。それなのに彼らは自分たちの作り出すコンテンツが一番だと思っている。あまりにも傲慢だと思う。

思いやりとか優しさとか、きっと私が憎むに至ってしまった人にとってどうでもいいことなんだと思う。私は他人への期待がやめられない人なのかもしれないけど、あえてそこまでする必要がどこにあるのかわからない。他人を蹴落としてでも輝きたいなんて思ったことがない。そんなことをしてしまったら、私はきっと自分を誇ることなんてできないだろうと思う。そう思う自分でありたい。

そこまでひどく言わなくてもいいのにとか、空気が読めないとか、しらけるとか、そんな風に思う人もいるかもしれない。そう思うならどうかもうほっといてほしい。私は何もお願いしていません。自分がどうありたいかは自分で決めたいと思う。全ての理由を言葉にすることはできないけど、できないのはしたくないからじゃなくてできないからだ。身体的な限界は自分にとって体の痛みとして感じてしまう。そういう苦労をしながら無理して許したりなんてしなくてもいいのだと思った。ひとりでそう決めた。私のことは私しか守れないから。

東京の人は、メディアの人は、酷いことをする、としか思えない。私はそれが誰かもわからないから「東京の人」ということしかできない。彼らは独善的で、理不尽で、他者に敬意をはらうことができない。相手が嫌がってることなんてどうでもいいみたいだ。テロリストみたいな人たちだと思う。

大事なことなのに、エネルギーを奪われて、徐々に言葉に出来なくなったというのもある。要するに病気になってるのに。でも彼らのことだから因果関係は定かじゃないから自分たちは悪くないというのかもしれない。お前らのせいだよ間違いなく。そして、原因が特定できない症状がたくさんでていても、医者がそれを無視している。無能。無能はお前らが言われるべきことじゃないのか。専門家は自己保身しかしない。自己保身しかしないのに自分たちが一番優れてるみたいな顔をしている。知性なんてないだろ。怠慢だろ。

自分自身、寛容でありたいとずっと思ってきたのに、最近はそれをすることが自分の苦しめるだけのことになってる。向こうからしたら勝手に自己犠牲してるということにしかならないんだと思うから、それなら私も自分にとって都合よく選択するだけだ。遅すぎたことを悔やんでしまう。もっと早くに絶望するべきだった。

発信者は自分で哲学をえてほしい。自分の配信の答え合わせを視聴者に都合よく求める発信者って、ただ相手を利用してるだ。勝手に出しゃばって、全ての面倒は視聴者に押し付けるような配信者なんて必要ない。見たくない。その人にとって利益になるかどうかはそれはその人が決めることだというのは当然だし、コメントしろというからしてもコメントすると不機嫌になったりして罪悪感を煽ったりしてコントロールするなら、コメントなんてしないほうがいいと思う。それは私ははじめからわかっていたことだったのに、期待したかった。それをもうやめようと思う。迎合して当たり障りのないことをいうしかないのなら私がコメントする意味なんて何もない。

何度も何度も犠牲にされている気がする。発信者が視聴者を選ばざると得ないことは必然なのかもしれないけど。私だって好きで今のような自分であるわけじゃないし、私だって自分が生きるため選択をしないといけない。

東京なんて嫌いだ。人でなし。自己中。お騒がせ。すぐ騒ぐし、不幸ぶっても他人の苦しみに同じように興味を持ったりもしなくて、結局承認係としてしかまわりのことをみてない。私はお前らのお母さんじゃない。
ゴミ箱みたいなポジションに疲れた。





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