トーキング・マイノリティ

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マリー・アントワネットの子供たち その二

2015-10-17 20:40:08 | 読書/欧米史

その一の続き
『ヴェルサイユ宮廷の女性たち』終章は、「王太子の惨死」という見出しで完結されている。ここから死に至るまでのルイ・シャルルの末路を引用したい。

ここで哀れをとどめたのは、ルイ17世になるはずだった王太子である。彼が靴匠シモンにそそのかされ、近親相姦なるものについて、母親と叔母を告発したことは前述した。シモンはロベスピエールを尊敬するジャコバン過激派の急進分子だが、性格は野卑残忍だった。間断なく、この不幸な少年を虐待し、とくに王族のプライドを消去しようと欲して、貧民のボロ服をきせ、赤の自由帽をかぶらせ、ブランデーを常飲させ、いやしい歌を習わせた。
 ある時は、少年に「私の母は売笑婦だ」といわせようとしたが、従わぬので、打つ蹴るの乱暴をした。また、少年が床にひざまずいて祈るのを見て、懲らしめに、寒夜なのに頭から冷水を浴びせ、服もベッドもビショビショにぬれているのに、そのまま寝ろと命令し、少年が逡巡すると散々に打ちのめした。少年は涙を流しつつ、無言で堪えた。

 それに、何か気いらぬと、シモンは断食で罰するのだった。ついに、王太子は衰弱して、叱られても打たれても、沈黙を守り、少しも動かなくなった。それなのに、小牢に移して幽閉し、1日1回、ドアの隙間から少量の食べ物と水を差し入れるにとどめた。しかも、看守は毎夜いくたびとなく睡眠中の彼を呼び起こした。
 シモンはテルミドール後に処刑されたが待遇は改善されず、服も着かえず、大小便もそのまま放置する状態だったから、独房は異臭に満ち、王太子は顔色死人の如く、手足は腫れ、背は曲がり、頭は吹き出物におおわれ、蛆がはい出すに至った。

 それでも、国民公会は王太子に治療をほどこさぬので、少年は重病になってしまった。姉のテレーズ王女は看護を許してもらいたいと嘆願したが拒否された。かくて、王太子は1795年6月8日、ボロぎれのように死んだ。

 上記だけでも胸糞が悪くなるが、wikiにはさらに詳しい監禁生活と虐待が載っている。母から引き離される前から既に待遇は悪化していたようで、次の一文がある。
―1793年5月初めに高熱と脇腹の痛みを訴えたルイ17世のため、マリー・アントワネットは診察を要求したが、何度も拒否され続けた。その後、診察が行われ、熱は下がったが腹痛は治まらなかった。以後、ルイ17世は体調を崩したままとなる…

 環境の激変で体調を崩したのは想像に難くないし、タンプル塔に幽閉されるまでの8年間は王子として暮らしていたため、その落差はさぞ耐え難かったろう。ルイ・シャルルの惨死については、ベルばらの原作同然のツヴァイクの伝記「マリー・アントワネット」には何故か描かれていない。
 少年が兵士たちにまじって意味も分からぬまま革命歌を歌うようになったことは載っており、「子供は早く、早すぎるほど早く新しい環境に馴染み、楽しい明け暮れに、自分が誰の子で誰の血を引き、何という名前なのか忘れてしまっていた」とある。ちなみに私の読んだツヴァイクの「マリー・アントワネット」は、関楠生訳の河出書房新社の単行本で、昭和50(1975)年12月初版のもの。

 ベルばらファンの女性の中にはネットでルイ17世の虐待死を知り、ショックを受けた人も居るようだ。ベルばらを見たことのない男性でも、このような出来事に感情が動かない人は至って少ないはず。
 そして不可解なのは、ベルばら原作者・池田理代子氏がルイ17世の惨死について言及したのを、少なくとも私は見たことがない。池田氏は『フランス革命の女たち』(とんぼの本、新潮社)を執筆しているが、この本の初版は1985年。本には姉マリー・テレーズが「流転の王女」として取り上げられている。しかしルイ・シャルルへの虐待はもちろん、マリー・テレーズが弟の看護を嘆願したことへの記述はなかった。
その三に続く

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2 コメント

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Re:王太子の死 (mugi)
2018-02-19 21:50:10
>さき氏、

 仰る通りです。訂正しましたが、早朝のご指摘をありがとうございます。
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王太子の死 (さき)
2018-02-19 07:34:16
1795年ですよね。
1975年となってます。
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