アフガンで武装勢力に拉致、拉致されたフリージャーナリストの常岡浩介氏(41)が、今月4日、約5ヶ月ぶりに解放された。氏は関西空港内で記者団の取材に応じており、7日付の河北新報の第一面と社会面にその記事が載っていた。以下、社会面の記事を全文を紹介したい。
-犯人については「(反武装勢力の)タリバンではない。腐敗した軍閥だ」と指摘。「現地の民間人が血まみれで両手両足を縛られて置かれているのを見た。処刑されたようだ。彼ら(武装勢力)が簡単に住民を殺害する人たちだと分かり、次は自分の番だと覚悟した」と死と隣り合わせの体験も語った。
6日夜には、国内線で東京・羽田空港に到着。再び報道陣に囲まれた。カブールの日本大使館によると、常岡さんは北部クンドゥス州でタリバンの取材を終え、州内を移動中の4月1日武装勢力に襲われ、拉致された。武装勢力は常岡さんを連れて北部を転々と移動。常岡さんは大使館関係者に対し「手荒な扱いは受けなかった。食事はナンとお茶が多かったが、時々肉なども食べていた」と話したという。
仙谷由人官房長官は6日午前の記者会見で、常岡さんの解放について「日本政府が身代金払った事実はない」と述べた。政府はイスラム教徒の常岡さんを拘束する理由はないとして、武装勢力に無条件での解放を要求していた。常岡さんは長崎県出身で東京在住。
常岡浩介さんは6日夜、共同通信との単独インタビューで、約5ヵ月間に及ぶ監禁と解放時の模様を詳しく語り、4日の解放前日に犯人側から「解放が決まったぞ」と突然伝えられたことを明らかにした。身代金の支払いはなかったとの見方を改めて示した。犯人の1人が3日、監禁場所に駆け込んできて「明日バザールで服を買ってやる」等とも伝えてきたという。しかし常岡さんは4日に首都カブールのアフガン大統領府に到着するまで「解放は信じられなかった」と話した。
犯人側に対しては、同じイスラム教徒である自分を金目的で拉致したことに「腹が立っていた」と振り返った。犯人グループの1人が「日本政府に百万ドル(約8,400万円)を要求した」というが、解放の理由について、常岡さんは犯人グループにとって「自分が負担になったのではないか」と推測した。
河北新報には載らなかったが、6日付の日本経済新聞の社会面には、次のような記事が掲載されている。
-アフガニスタン北部クンドゥス州の反政府武装組織タリバン地元司令官は5日、常岡浩介さん(41)をタリバンが拉致したと認めた。アフガン・イスラム通信が伝えた。タリバン指導部の報道官はこれまで、関与を一貫して否定していた。カブールの日本大使館によると、常岡さんは5日夜、帰国の途に就いた。地元司令官は拉致の理由について、アフガン当局が拘束しているタリバンメンバー数人を釈放させるためだったと説明。
アフガン当局に釈放の用意がないと理解したタリバンは①常岡さんがイスラム教徒である②断食月が終わりイスラム教徒にとって宗教上極めて重要な祝祭が近い―ことから、常岡さんの釈放を決めたと述べた。
ネット検索したら、Togetterへの常岡氏の直接書込みもヒット、氏は自分を拉致した武装グループがタリバンではないことを繰り返し述べている。そこから一部抜粋したい。
-いくつかのメディアで、「タリバンが誘拐」と、出ているのをみました。犯人はタリバンではありません。クンドゥズのラティブ司令官とタハールのワリーという、現地の腐敗した軍閥集団です。彼らはタリバンになりすまして日本政府をゆすっていました。「アフガン当局がタリバンと断定」してるので、日本メディアもそのまま書いてるケースが多いみたいです。軍閥ラティブはカルザイの顧問サバアウン大臣の、ヒズビ・イスラミ内の部下に当たり、カブールに事務所も持って、政府の人間として堂々と暮らしている人物なので、アフガン当局は事実を発表するはずはないと思います。
上級司令官たちは腐敗しきっていましたが、末端の兵士や支配地域の一般の人たちはまともな人たちでした。処刑されなかったのは、上級司令官が処刑の理由をつくれなかったことと、部下たちからの批判が強まったからだと思います。ぼくを拘束していた部隊は、4月中はタハール州とクンドゥズ州でタリバンと交戦を繰り返していました。オマル師の命令系統に入っていない「ローカルタリバン」は存在しますが、タリバンを敵視して殺し合うタリバンはいません。彼らはタリバンではない…
その②に続く
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-犯人については「(反武装勢力の)タリバンではない。腐敗した軍閥だ」と指摘。「現地の民間人が血まみれで両手両足を縛られて置かれているのを見た。処刑されたようだ。彼ら(武装勢力)が簡単に住民を殺害する人たちだと分かり、次は自分の番だと覚悟した」と死と隣り合わせの体験も語った。
6日夜には、国内線で東京・羽田空港に到着。再び報道陣に囲まれた。カブールの日本大使館によると、常岡さんは北部クンドゥス州でタリバンの取材を終え、州内を移動中の4月1日武装勢力に襲われ、拉致された。武装勢力は常岡さんを連れて北部を転々と移動。常岡さんは大使館関係者に対し「手荒な扱いは受けなかった。食事はナンとお茶が多かったが、時々肉なども食べていた」と話したという。
仙谷由人官房長官は6日午前の記者会見で、常岡さんの解放について「日本政府が身代金払った事実はない」と述べた。政府はイスラム教徒の常岡さんを拘束する理由はないとして、武装勢力に無条件での解放を要求していた。常岡さんは長崎県出身で東京在住。
常岡浩介さんは6日夜、共同通信との単独インタビューで、約5ヵ月間に及ぶ監禁と解放時の模様を詳しく語り、4日の解放前日に犯人側から「解放が決まったぞ」と突然伝えられたことを明らかにした。身代金の支払いはなかったとの見方を改めて示した。犯人の1人が3日、監禁場所に駆け込んできて「明日バザールで服を買ってやる」等とも伝えてきたという。しかし常岡さんは4日に首都カブールのアフガン大統領府に到着するまで「解放は信じられなかった」と話した。
犯人側に対しては、同じイスラム教徒である自分を金目的で拉致したことに「腹が立っていた」と振り返った。犯人グループの1人が「日本政府に百万ドル(約8,400万円)を要求した」というが、解放の理由について、常岡さんは犯人グループにとって「自分が負担になったのではないか」と推測した。
河北新報には載らなかったが、6日付の日本経済新聞の社会面には、次のような記事が掲載されている。
-アフガニスタン北部クンドゥス州の反政府武装組織タリバン地元司令官は5日、常岡浩介さん(41)をタリバンが拉致したと認めた。アフガン・イスラム通信が伝えた。タリバン指導部の報道官はこれまで、関与を一貫して否定していた。カブールの日本大使館によると、常岡さんは5日夜、帰国の途に就いた。地元司令官は拉致の理由について、アフガン当局が拘束しているタリバンメンバー数人を釈放させるためだったと説明。
アフガン当局に釈放の用意がないと理解したタリバンは①常岡さんがイスラム教徒である②断食月が終わりイスラム教徒にとって宗教上極めて重要な祝祭が近い―ことから、常岡さんの釈放を決めたと述べた。
ネット検索したら、Togetterへの常岡氏の直接書込みもヒット、氏は自分を拉致した武装グループがタリバンではないことを繰り返し述べている。そこから一部抜粋したい。
-いくつかのメディアで、「タリバンが誘拐」と、出ているのをみました。犯人はタリバンではありません。クンドゥズのラティブ司令官とタハールのワリーという、現地の腐敗した軍閥集団です。彼らはタリバンになりすまして日本政府をゆすっていました。「アフガン当局がタリバンと断定」してるので、日本メディアもそのまま書いてるケースが多いみたいです。軍閥ラティブはカルザイの顧問サバアウン大臣の、ヒズビ・イスラミ内の部下に当たり、カブールに事務所も持って、政府の人間として堂々と暮らしている人物なので、アフガン当局は事実を発表するはずはないと思います。
上級司令官たちは腐敗しきっていましたが、末端の兵士や支配地域の一般の人たちはまともな人たちでした。処刑されなかったのは、上級司令官が処刑の理由をつくれなかったことと、部下たちからの批判が強まったからだと思います。ぼくを拘束していた部隊は、4月中はタハール州とクンドゥズ州でタリバンと交戦を繰り返していました。オマル師の命令系統に入っていない「ローカルタリバン」は存在しますが、タリバンを敵視して殺し合うタリバンはいません。彼らはタリバンではない…
その②に続く
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アフガンの話はややこしそうですね。
ところで、これと関係なく、以前mugiさんが、知らないと言っていたカラカチャーニという少数民族に関する記事がNovinite.com紙に写真付きで掲載されているので、お知らせします:http://www.novinite.com/view_news.php?id=120037
風貌から見て、ジプシーと言われたら小生もジプシーと信じてしまいそうです。
仰る通りアフガン情勢は複雑であり、異国人が現地を取材しても、容易に理解できるところではなさそうですね。
さて、カラカチャーニについての興味深い情報をありがとうございました。私はジプシーを実際に見たことがないため、彼らの風貌の特徴も知りませんが、カラカチャーニの人々と似ているのでしょうか?華やかな民族衣装も、パキスタン辺境に住むカラーシュ族(Kalash、カラーシャとも)に似ている。何とも不思議ですね。
1.ジプシー的風貌
この記事の写真で見る限り、典型的なジプシー風の容貌が数名いる気がする。
そもそも、Sliven市は、ブル国内でもジプシー系市民の比率が高く、更にはカラカチャーニの人数も多い街です。だから、混血の可能性もある。
もう一つ考えられるのは、山岳地帯で羊を飼っていた頃のカラカチャーニ(半定住生活、夏と冬は別の拠点、今でもそういう生活者もいるはず)集団と、同じく遊牧に近い形での羊飼いの仕事をブル人から請け負っていたジプシー達と、山岳地帯などの放牧地で接触し、相互に婚姻関係を結んだりした、という可能性もあるかも。或いは、ヴラフと称していた人々(これらの一部は、実はルーマニアから19世紀に南下してきたジプシー達。ヴラフは、元来山岳遊牧生活者で、カラカチャーニと似た生活形態)との混血で、ジプシーの血が入ったとかいう可能性も考え得る。
2.民族衣装
バルカン半島の民族衣装は、どこかで小生も書いた気がするけど、例えばフンザとか、チベット、或いは雲南省の少数民族達の民族衣装と、極めてよく似たものをよく目にします。
もちろん、トルコの民族衣装、ギリシャの民族衣装も、或いはハンガリーの民族衣装、ロシアの民族衣装とも似ている気がします。
男性は白いシャツの上にチョッキを着て、ズボンは膝のあたりが少し広がった形状、女性は白いシャツにチョッキ、下はスカートですが、腰には銀製のベルトバックル(丸みを帯びた形状のが二つ対になっている)がついています。男子は頭に帽子、女性は頭に金貨の紐飾り(またはスカーフ)・・・。チョッキも、ズボンも、スカートも結構刺繍で華やかな飾りが付いていたりする。
これらの衣装は、もしかすると古代ギリシャの衣装が、マケドニア軍とともに、すなわちアレクサンダーの東征とともに、アフガニスタン、パキスタン、ヒマラヤなどへ伝えられ、今日までアジアでもそういう衣装が残ったと想像すると、ロマンチックです。
でも、本当にそうなのか?、或いはむしろ、中東地方、地中海地方にあった服装が、イスラム教徒(イラン人とか、トルコ人とか)によって、各地に散らばり、似た服装が残っているのか?(バルカン半島も、オスマン時代には、トルコ系からの文化が多く入ったでしょうから)。やはり、衣服のデザインに詳しい人が、専門的に調べないと分からないですね。ともかく、小生には、アジアの少数民族地帯の衣装が、バルカン風に見えてしまうのです。
ジプシーは同民族同士で結婚するというイメージがありますが、時には混血する可能性もあるのですか。ジプシー間でも容貌が微妙に違うようだし。
東欧から西欧に不法入国したジプシーに、フランス政府が強制送還を発動しましたね。イタリアもそれに倣うようで、欧州の国も不法入国問題を抱えている。それに反対する人権活動家も当然いますが、彼ら自身はジプシーに身銭を切って援助などしない。
民族衣装に関しては私もまったくの素人ですが、大陸間では諸民族のそれも影響を受け、似てくるのでしょうか?私の場合、バルカンの少数民族地帯の衣装がアジア風に見えました。
正式の婚姻関係は、自民族同士としても、早熟なジプシーのことですから、「性的関係」は、かなり若い頃に、山の中で羊を見守る中で、ジプシーの男子とカラカチャーニの女子が仲良くなって、ついついできちゃって身ごもる、などということは、半遊牧社会では多かったのではないでしょうか?
カラカチャーニ、ヴラフ、ジプシー、3つの違う民族とはいえ、同じような半遊牧民としての生活形態で、結構山の中で仲良くやっていた、と言う風に小生は想像します。もちろん、夏の牧地を巡っての争いという場合もあり得るけど、どうやらバルカン半島の山岳遊牧民達は、相互に交流が多く、仲がよかったらしいです。お互いの言葉も、かなり理解し合えたそうですし、混血もあると聞いています。
正式に婚姻しなくとも、血が混じることは、ブル人とブル人、或いは他の民族との間でもよくあったことだし(不倫、愛人関係など)。小生の先輩で戦前のブルガリアを知る日本人は、夫が長期に旅に出た時に、その知り合いの夫人から、夜のお誘いがあったとか!(日本人としては、とても友人の奥さんとの不倫は出来なかった由)。
不倫は、スラヴ人の間では、結構普通のことでもあるようで、ましてやジプシーですから・・・?。もっとも、そういう不倫が増えたのは、社会主義時代になってからだ、と言う説もあるので、昔のジプシーがどの程度不倫に弱かったのか、小生には断言できない。確かに、ジプシー社会は、外部の人とは正式の婚姻はしないらしいのですが・・・。
「半遊牧社会」とは初めて知った言葉ですが、これが中東の砂漠の純遊牧社会なら、少年少女がついできちゃうということは考えられないでしょう。成る程、山の中では可能ですね。バルカンの山岳遊牧民と中東の砂漠遊牧民とは違います。それでもベドウィンの若い娘は定住民よりも積極的だと書いた人物もいるし、時に大胆な行動をするとか。もちろん、未婚の娘が奔放な振る舞いは許されず、「名誉の殺人」も行われます。
スラヴ人の間では不倫は結構普通のことだったのでしょうか??昔見た小説に登場するロシア人が、「我が国の性的モラルはそれほど厳格ではない」との台詞がありました。作者は英国人ですが、アングロサクソンから見たら、性的には喧しくなかった?
ジプシーの性的モラルは不明ですが、大らかと思われているようで、意外に女性には貞淑が求められいると書いたフランス人もいました。もっとも、「不倫は文化」と放言する日本人もいたから、その点日本人もモラルは怪しい。
30年も前のことですが、ジプシー文化にはまっていろいろ調べていた時期がありました。
そのとき読んだ本には、ジプシーは捨て子や孤児に弱くて、生活がどんなに貧しくても我が子として育ててしまう風習があると書かれていました。
非ジプシーは、それを知った上で、私生児をジプシーの野営地に捨てることが珍しくないと。
「ああ、そういう話があるから、ジプシーに育てられたプリンスとかプリンセスといった設定がときどき少女マンガに出てくるのか」と納得したのを覚えています。
そうして育った子は、マンガのように本当の両親と出会うこともなく、完全なジプシー仲間として一生を送ることがほとんどだそうです。
そのため混血が進みやすいとのことでした。
もっとも、このヨーロッパの話がアフガン周辺に当てはまるかどうかわかりませんけれども。
ジプシーの性的モラルだけを混血の要因とするのは、早計かつ失礼かもですよ。
私はジプシー文化に全く浅学ですが、ジプシーは異民族の捨て子や孤児を我が子として育てる風習があったとは知りませんでした。そういえば、昔読んだ少女マンガ「花のフィレンツェ」(森川久美著)に、ジプシーに育てられた娘が登場していたのを思い出しました。メディチ家権力者の娘だったという設定だったような。
ジプシーの混血の背景に、そんな事情もあるとは想像もしていませんでした。彼らの風習も不思議ですね。
小生は、捨て子、孤児を「育てる」という話で、ピンと来るところがあります。それは、アイルランドのように、必ずしもジプシーに対し暖かくない社会でも、赤ん坊を抱えたジプシー女性が、寒い気温の下、赤ん坊を抱えて、十分暖かい衣服もなく、必死に生きようとしてダブリンの繁華街で物乞いしている場合には、人々も見て見ぬふりを出来ず(キリスト教徒として、そのまま見捨てておれない)、お金を帽子の中に入れていくと言うこと。
更には、マケドニアで、小生の借りていたアパートに来たジプシー女性も、赤ん坊を抱えて、「食べ物が買えないの」と物乞いに来ました。小生も放っておけず、パン、米などを差し出しました。
その後アイルランド人などから聞いた話では、乞食をする際の一番の小道具が、「赤ん坊」であり、ジプシー社会では、もしかすると、赤ん坊の頃が一番勤勉度が高い時期だ・・・。つまり、誰かが赤ん坊を産むと、母親役の女性達が数名、一日それこそ14時間ほど、交代で赤ん坊を抱えて、乞食するのだそうです。つまり、赤ん坊は、金のなる小道具ですから、捨て子であれ、ジプシー社会では大歓迎なのでしょう。
ぞっとするような話で、申し訳ないけど。
小生が、なぜマケドニアで、食べ物という「現物」で施しをしたかというと、その頃の小生の知識では、ジプシー社会では、「親方」が一日の売り上げを全て集めて、各人の働きぶりを評価し、分け前を分配する、と聞いていたから。すなわち、ジプシー社会では、乞食して得た金とか物も、「親方」の裁量で、分配されるモノ。そのままは、自分の懐には入らない。
一番不味いのは、現金で、これは組織の男達の「酒代」となる。他方、食物などの「現物」は、すぐに配分される!だから、女性、母親などのためには、食料品が一番役立つ施し、と言う風に考えていました。今でも、そう信じてはいます。
なお、寒風吹きすさぶダブリンの街角で、赤ん坊を胸に抱き、冷たい地面に直に座って、施しを前に置いた帽子に入れてもらっているジプシー女性の哀れな姿は、今でも記憶に残ります。でも、あの寒い中での乞食は、30分、或いは1時間毎に交代しないと、本人はもちろん、赤ん坊の生命という意味でも、危ないから、必ず交代制だったと追います。もっとも赤ん坊は、暖かい毛糸などでしっかりくるまれていますし、女性の胸の中で暖かいはずですが。
ともかく、ジプシーの場合、ブルガリアでは、以前紹介したように、「出産ビジネス」(イタリア、ギリシャの子供のない夫婦の需要に応じて、妊娠7--8ヶ月のジプシー女性が、これらの国に出かけて、現地出産して、子供を置いて変える・・・つまり赤ん坊の「養子」を手配するマフィア・ビジネスが盛んであるように、我々の想像以上に凄いことまで「隙間産業」として行っています。
赤ん坊をビジネスに利用する、と言う感覚は、赤ん坊を胸に抱いて乞食する、そのためには、捨て子を歓迎する・・・更には今では、出産ビジネスまで定番化している・・・ということで、実はそう奇抜な発想ではありません。ジプシー社会では、普通に連想が行くことです。