その①の続き『カーブースの書』となっているが、これは著者の祖父の名であり、カイ・カーウースこそが作者名である。この書は元来「教訓の書」「忠言の書」として知られたが、現代は『カーブースの書』になっている。命名の由来は不明だが、祖父名にちなんだか、著者名カーウースがアラビア語化してカーブースになったと言われている。著者カイ・カーウースはカスピ海南岸地域タバリスターン及びグルガーンを支配した地方王朝ズィ . . . 本文を読む
十年以上前、『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(新潮文庫)という本がベストセラーになった。アメリカ人ビジネスマンが息子に様々な人生指南を書いたものであり、人種、文化は異なっても父性愛に共感された方も多かっただろう。息子に対し、教訓の書を書いた人物は11世紀のペルシア(イラン)にもおり、『カーブースの書』と呼ばれている。著者は国王だが、息子への愛情は現代庶民と殆ど変わらず、その処世術は現 . . . 本文を読む
その①、その②の続き ペルシア皇帝ヤズデギルド3世(在位632-651)はオリエントの富を集積したクテシフォンの都とメソポタミア平原を捨て、イラン高原に逃れる。その間アラブ・イスラム軍はアケメネス朝以来の街道に沿って進撃、642年夏、ついに2万のイスラム軍がザグロス山脈を越え、イラン高原西部の中心ハマダーンに迫った。元々住民の多くがセム系だったメソポタミアと異なり、ペルシア本国への侵攻である。衰え . . . 本文を読む
その①の続き 日本語としても既に定着した英語にパラダイスがある。この言葉の語源はパリダイサというサーサーン朝ペルシアの公用語だったパフラ ヴィー語で
ある。ペルシア帝国皇帝は壁で囲まれた広大な庭園を持ち、その中で皇帝たちは放し飼いの獅子や野猪の狩をしたという。この庭園こそがパリダイサなのだ。ペ
ルシア皇帝にとっての狩りとは、王侯の暇つぶしの余暇ばかりでなく、自らの肉体的体力を狩猟を通し軍人貴族 . . . 本文を読む
先月、『ゾロアスター教の興亡』(青木健(たかし)著、刀水書房)という本を読了した。著者の青木氏は昭和47(1972)年生れの若き学者であり、専攻はゾロアスター教と
イラン・イスラム思想。ゾロアスター教に関心のある方なら題名だけでも惹き付けられる本だが、実に充実した内容で、期待した以上に満足させられた。厖大な
史料文献を徹底読破したのみならず、現地調査も踏まえ思考、推測、結論を下すのは、真の学 . . . 本文を読む
『アラブが見たアラビアのロレンス』という本がある。著者はスレイマン・ムーサ氏、題名どおり「アラビアのロレンス」へのアラブ側からの詳細な検証が主題となっている。この本を見て、西欧の識者とはロレンスの賛美者、批判者共にアラブの観点を殆ど黙殺しがちだったのが知れる。'60年代初めまで西欧の研究者は誰も、アラブ世界を実際に訪れて疑問の解明を試みる作業をしなかった程なのだ。 ロレンスに関し、当然ながらムーサ . . . 本文を読む
ユダヤ教から発生しながら、キリスト教とイスラム教との大きな違いは前者が異端審問や魔女狩りを盛んに行っていたのに対し、後者はそれがあまり見られなかったことだ。同じセム族一神教でありながら、何故異端に対する姿勢が異なったのだろう?イギリス人イスラム学者バーナード・ルイスはイスラム世界における異端の扱いをこう書いている。 -おそらくキリスト教徒の異端という概念に一番ちかいムスリムの言葉は、「ビドア」( . . . 本文を読む
その①の続き ローマによる間接的支配、または従属国とする政策は古くから行われ、ペトラ(現ヨルダン)やパルミラ(現シリア)などはその典型的な隊商国家である。ローマ人はアラビア本土を軍事支配するより、平時には交易を、戦時には戦略的必要性から、これらの隊商都市や沙漠の辺境国と同盟することにしたのだ。 こうしたローマの政策が緩衝地帯にある君侯国を繁栄させた。ペルシア側も殆ど同じような政策を取っていたようで . . . 本文を読む
古代の帝国であるローマとペルシア(パルティア、サーサーン朝)は互いの覇権をかけ、例外的な一時期を除き果てしなく戦争を繰り返した。これが最終的に両国とも弱体、滅亡を招くことになるが、戦争の主な争点はやはり領土問題がある。キリスト教とゾロアスター教といったイデオロギーも背景にあるが、軍事のみならず経済をめぐる争いもあった。交易ルートの確保である。 シルクロードと聞けば、歴史のロマンに思いを馳せるのが . . . 本文を読む
その①の続き まだ英ソが協同統治していた第二次大戦中の1942年から翌年にかけ、イラン国内の多くの地域で深刻な飢饉が発生した。さらに連合諸国が戦費調達のため乱発した貨幣でひどいインフレに陥り、輸入停止で消費物資が極度に欠乏、社会不安が増大した。 そこで国王モハンマド・レザーは、それまで殆どイランに介入していなかったアメリカに援助を求めることにする。43年アメリカが援助物質の護衛も兼ね、2万8千人規 . . . 本文を読む