そのⅠ、そのⅡ、そのⅢの続き 第1回十字軍に参加した諸侯の中で、特に際立っていたのがボエモン1世とその甥タンクレード。『十字軍物語』ではボエモンド、タンクレディとなっているが、これはイタリア語読みだろうか?塩野七生氏ははじめにボエモン1世を、プーリア公ボエモンド・ディ・アルタヴィッラと紹介しており、以降は著者の表記に従いたい。ボエモンドの父はシチリア島にノルマン朝を建てた人物。ボエモンドは出身や領 . . . 本文を読む
そのⅠ、そのⅡの続き これまで十字軍と言えば、食い詰め者やゴロツキ同然の騎士が豊かな東方に亘り、悪逆非道を行ったというイメージが流布していたが、実際は民衆も多く参加しており、民衆十字軍もあった。率いたのこそ隠者ピエールと呼ばれる司祭だったが、彼の呼びかけに多くの貧民が加わっている。イスラム側の記録にも「美しく高慢な女たち」(娼婦を指す)もやってきて、キリスト教の騎士たちを堕落させたことが見える。 . . . 本文を読む
そのⅠの続き『十字軍物語』で、年代記作家の遺した記録を参照して塩野七生氏は、ウルバヌス2世の後半の説教を以下のように描いている。 -イスラム教徒は地中海にまで勢力を拡大し、お前たちの兄弟を攻撃し、殺し、拉致しては奴隷にし、教会を破壊し、破壊しなかったところはモスクに変えている。彼らの暴行を、これ以上許すべきではない。今こそ彼らに対し、立ち上がる時が来たのだ。そして、一段と声を張り上げて続けた。 何 . . . 本文を読む
暫くぶりに塩野七生氏の書き下ろし長編を読了。氏の新作こそ『十字軍物語』(新潮社)、シリーズ第1巻目であり、古代ローマの次に取り組んだのが十字軍とは全くの予想外だった。この著書では第1回十字軍が描かれている。これまで私は中東の立場から十字軍関連書を読んだことがあっても、欧州側からの本は初めてのような気がする。中東の史観に影響されていたのは確かであり、欧州側から書かれた十字軍物語は興味深かった。 第 . . . 本文を読む
その①の続き 18世紀後半、イギリス人は多方面で新しい関心を示した。自国や欧州各地の自然や遺跡の美しさが発見されたのもこの時期であり、ギボンなどが有名な例で、彼はローマの遺跡を見た時の感動から大著『ローマ帝国衰亡史』を書こうと決意したのだった。これまで問題にされなかった動物虐待や子供の虐待が、人間として放置できないこととして批判されることになり、恵まれない子供たちのための博愛事業が始められた。犯罪 . . . 本文を読む
19世紀の国際秩序の基本構造を定めたウィーン会議(1814-15年)関係の文書に、奴隷貿易の廃絶を謳った宣言がある。リアリズム外交の特徴があるウィーン会議の中では、いささか異色のものだが、これはイギリスの主張による宣言であり、その後イギリスは会議外交において、この主張を繰り返し、奴隷貿易の禁止を実現化していくことになる。 このエピソードこそ、イギリス政治の重要なポイントを示唆するものと見る人もい . . . 本文を読む
その①、その②、その③、その④の続き 歴史は厳密な法則に従うので、人間性や社会は進化するとの理論を説いた近代人のマルクスと、現実主義を重視したルネサンスの思想家マキアヴェッリは正反対だった。元来ユダヤ人でラビの家系のマルクスにユダヤ教の中の黙示思想やメシア待望論、神秘主義が深く根ざしているのは当然であり、これらの源泉は結局は迷信でもある。 共産主義について考察したブログ記事「明恵上人4」は興味深い . . . 本文を読む
その①、その②、その③の続き 外交官としての経験に加え、マキアヴェッリの思索の中心になったのが古代ローマ史、特にリウィウス著『ローマ史』に強い影響を受けたらしい。彼は『君主論』『戦術論』等の政治や軍事の他に優れた歴史書、喜劇、悲劇、戯曲を書いており、稀代の文豪でもあった。歴史を深く学んだのはマルクスも同じだが、「人間は何時の時代も変わりない」がマキアヴェッリの下した結論であり、立脚点そのものが違っ . . . 本文を読む
その①、その②の続き マキャヴェリズムのご本尊ゆえ、マキアヴェッリはさぞ世渡りに長け、出世頭だったと思いきや、意外に公的なキャリアは振るわなかった。冷や飯食いでは決してなく、29歳の若さでフィレンツェ共和国の第二書記局長になるものの、それ以上は昇れなかった。自分の考えをそのまま口にする彼の性格は、官庁では受けが悪かったのだろうか。 フィレンツェ書記長というのは同時に外交官でもあり、マキアヴェッリは . . . 本文を読む
その①の続き 16世紀前半、スイスに近いフランスのオータン司教区で、穀物を食い荒らす鼠に困り果てた農民達が検察官を動かし、裁判所に鼠を告訴した。裁判所は鼠に通告し、裁判所に出頭を命じる。当然だが、鼠たちは公判を欠席、そのため欠席裁判で敗訴する。しかし、この時鼠側の訴訟代理人となった弁護士バルテルミー・ド・シャサネは、後にパリ最高法院の評定官やエクス・アン・プロヴァンス最高法院の院長になった高名な法 . . . 本文を読む