ALPHA TALK by Ω-トライアスリート

病気がちな’たかぼん’の何気ない日常(備忘録)

めぐりあう時間たち→女性の本来持っている幸せになる資格

2008年03月21日 | 映画
この映画を紹介してくれたのは、ブロークバック・マウンテン(→URL)や、マズロ
ー(→URL)、などで登場した僕の友人です。この映画もまたもやすごいインプレッ
ションを僕に与えてくれることになりました。

まずはこの映画、普通1回みた程度では、ほとんどの人は直感として「いい映画だ
な~」とか「美しくて悲しい映画だな~」とか「わかんないな~」とか思っても、
その心理とかまではたどり着けないほど、重層的で複雑に作ってある。監督自身
が、「見るたびに違う場所に感動する」と言ってるくらいだから。

実は僕もまだ1回しか見てません。しかも「ダロウェイ夫人」を読んでいない。そ
れどころかヴァージニア・ウルフを読んだことない。読もうとして短編集を5年く
らい前にかってはるのですが。なのでここで述べるのは、「非常に直感的な僕自身
の特異的な感じかた」、という前提でお読みください。
あらすじについては、公式のHPを参考にしてください。→URL

まずは、自分なりの登場人物紹介
ヴァージニア(ニコール・キッドマン):実在のイギリスの作家。詳細はウィキっ
てください(→URL)。映画の中では、お姉さんとの近親相姦的なレズビアン関係が
ほのめかされている。実在の、ヴァージニア・ウルフとヴァネッサ・ベル姉妹は、
その時代としてはありえない、同性愛の容認&実践者だったらしい。かのアダム・
スミスもそのメンバーだった急進的自由主義者集団、ブルームズベリー・グループ
(→URL)にいた。

ローラ(ジュリアン・ムーア):この人が、実はこの映画の道化回し。つまり、実
在の作家のヴァージニアと彼女が書いた「ダロウェイ夫人」の主人公であるクラリ
ッサをつなぐ、架空の人物として描かれている。ローラの息子のリチャードが、映
画の中のクラリッサの恋人、リチャードとなる。「ローラとリチャード」が、「ヴ
ァージニア」と「クラリッサ」をつないでいる形式となっている。
このローラの人物描写が、僕にとっては、一番この映画の中で理解しづらい。それ
は彼女が家族=リチャードを捨てる動機が、映画の中ではわかりやすくは描かれて
いないから。でも僕の理解では、彼女は普通の主婦にもなれたものを、たまたま
「ダロウェイ夫人」を読んだり、病気になった友人の女性と思わずキスしたりした
ことで、「女性の本来持っている幸せになる資格」、に気づいちゃったんだと思
う。この、「女性の本来持っている幸せになる資格」、が今回の僕のメインテー
マ。このメインテーマは、多分、この映画の監督が思ってることとも、ヴァージニ
ア・ウルフが思っていたこととも違うのかもしれない。それについては僕にも何も
わからない。ローラにもレズビアンの影が描かれている。

クラリッサ(メリル・ストリープ):ローラの捨てた息子、リチャード(詩人&作
家)の元恋人&編集者。ヴァージニアの著作の「ダロウェイ夫人」の主人公でもあ
り、映画と小説の二重の意味を持った存在として描かれている。リチャードに捨て
られたあとは、同性の彼女と同居している。

リチャード:ローラが捨てた息子&クラリッサの元恋人。母親から捨てられたのが
原因で女性および人間不信であり、クラリッサを捨てたあとは同性愛に走り、エイ
ズ患者となっている。

この映画では、3人の女性を中心に、同性愛、異性愛、母子愛が描かれていると思
う。この3つの愛には、ブロークバック・マウンテンで述べた、ヴァタイユ的な
「禁止とその侵犯」もあるのだけど、ちょっとそれと性格をことにしている点があ
る。それは、ブルームズベリー・グループに属していた、ヴァージニア・ウルフと
ヴァネッサ・ベル姉妹が、同性愛を容認していたから。だから彼女たちにとっては
それは「禁止」ではなかった。なので「侵犯」の甘美さもない。単純に人間の愛の
一種として描かれている。その点はブロークバック・マウンテンと大きく違う。

では、ヴァージニア・ウルフやヴァネッサ・ベル、そしてこの映画から導けるテー
マとは何か。それが「女性の本来持っている幸せになる資格」なのだ。人間ははじ
めは女性として生まれてくる。性染色体は、女性がXX、男性がXYなのだけど、
Yには生存に必須な遺伝子はない。そりゃ当然で、そんなもんがあったら女性は死
んじゃうもんね。で、Xには単純に女性を男性に変化させる「イグニッション・キ
ー」があるだけ。それが機能しなければ、人はみな女性になるのだ。「男性は消耗
品」と言われるが、確かにそういう側面は強くあって、彼らは女性という生殖装置
をめぐって争いあう精子にすぎないとも考えることができる。なので、女性という
ものはその本来的な資質として、「独立」している。男性は女性なしにはありえな
いけど、女性は、もし精子というごくちっぽけな細胞さえ天から与えられれば男性
なしでも種族を繁栄させていけるのだ。だから彼女たちは、本来的な意味で、「男
性の存在とは独立で生きたい」という欲求を持っているとも考えることができる。

ここで述べていることは非常に抽象的、そして観念的なことなのであるけれども、
ローラの行動を考える上でとてもヒントになる。彼女は映画の中で、典型的な優し
い夫と息子に囲まれた生活を、「あの生活は私にとっては死だった。あの家を出て
初めて私は本来的な意味で生きることができた」と言っている。そう、女性は
「男」に左右されて生きる生活が本来的に嫌な生き物なのかもしれないのだ。

誤解しないで欲しいのは、それが「正しい」と言っているのではない。進化学的に
そういう欲求が女性には隠されている部分があるといっているのだ。しかしなが
ら、人は現実的には男性と女性がいないと繁殖できないし、家族としての二つの性
は、「全体最適」にとってかかせない存在。だからローラの息子のリチャードは
人間不信になっちゃったんだから。そしてそれはクラリッサも不幸にした。

僕は女性が大好きだし、僕の中には非常に女性的な部分もある。だから、究極的に
は僕にも「独立」欲求があるのかもしれない。でも、僕は人が好き。一人でいるの
は耐えられない。誰かとおしゃべししてないと死んじゃう、『ホモサピエンス・
シャベクリ-ナ』でもある。だから、ずっと大勢の人と一緒にいたいです。

タカダワタル的

2008年02月29日 | 映画
ここ数日、身の回りのホントに身近な人々に心底がっくりきてしまった自分が
いて、かなり凹み気味。小役人的発想(→URL)をする人がこんなにいるの
かと思うと、どうしようもない気分になった。
しかもその人々、とても自信をもっていばってる。「社会人として私は自立して
立派でしょ」と思ってるのだろうね~。「国家の品格」や「女性の品格」が
あんなに売れて、著者がもてはやされる今の日本ではしかたないですかね。

どうして一般社会に、調和・協調・全体の幸せのために働こうとする人々がこん
なにいないのでしょうかね~。福祉の世界にはそういった人々がごまんといるの
に一方でその人たちは経済的には恵まれない。前者は、勝ってるように見えて
心、魂をほかの人(組織)に支配されている、後者は経済的には弱者かもしれ
ないけど、心や魂は自分でコントロールしてる。一勝一敗なのかもしれません。

そんなへこんだ自分を励ましてくれたのが、「タカダワタル的」。高田渡は徹底
して、現代社会を最下辺から眺めている完璧な下から目線。いつも酔っ払って、
吉祥寺のお店に通い、フラフラしながら街の人や犬や子どもたちとふれあい、
風刺の効いたユルユルの詩を歌い。その生活をずっと変えない。でも、悪酔い
はしない。いつも静かに、ゆったりと生きている。そこがただの酔っ払い
サラリーマンとは違う。

彼は現代において、「聖者の行進」をしてるんだね。

人間、マジめに働きすぎると疲れるし、ろくでもないこと考えるし、ろくなこと
しないよ。たまには僕みたいになりなよ。静かに飲んで、何も考えずに飲んで、
ユルユル動物みたいに生きてみる時間を持ってみなよ。

ちょっとすっきりして、また前に進む気力がわきました。ありがとう。
タナダユキさん(監督)。そして高田渡さん。

愛を乞うひと

2008年02月07日 | 映画
僕にとっては、とても身につまされた、そしていい映画になった。
見てない方、解説は→URLに。ここでは解説にない僕なりの解釈を。

まず、残酷なはなしから。なぜあの暴力母親(原田美枝子二役)は、長女だけ殴っ
てなぐって、長男(異父弟)は殴らないのか。この質問に答えられれば、この映画
はぜんぶわかる。それは、母は長男を愛してないから。そう、彼女はあの殴る長女
を愛してるんであって、長男を愛してない。愛されて育たなかった長男は、大人に
なって刑務所にいる。殴られて育った長女は、母親(旦那には先立たれてるが)に
なっている。映画で長女に母親が、お前の父に強姦されてお前できたんだよってい
うシーンがあるが、たぶんそれは、長男の父親のことなのだろう。

じゃなぜ、母親は長女を殴るのでしょう。それは、この長女の父親(中井貴一)だ
けが、彼女がこの世の中で唯一愛した(信頼した)人だから。愛する人がなぜその
人の子ども(自分の子どもでもある)を殴る?そこが人間の不思議なとこだよね。

実は僕も、程度はぜんぜん対したことはないけど、同じような経験をしたことがあ
るから、感じることを。僕の母は、成人する前に両親をなくし、その後、24歳で
結婚したつれあいに、2年後に死なれてしまう。おそらくはPTSD状態で僕(一人っ
子)を育てていたんだと思う。その精神の不安定な状態を、ある意味純粋な子ども
に投射し、無理に共有しようとしてたんだと思う。僕のことを知ってる人は信じら
れないと思うけど、僕は中学生になるくらいまで、母にさからったり文句をいった
ことはない。というより、怖くてできなかった。

僕の母は、なにがそうさせるのか知らないけど、非常にちいさなことで、僕をよく
しかった。小学生の低学年のとき、靴を並べないといっては冬の寒空に2時間くら
い締め出されたこともある。また、なにかが原因か覚えてないけど、よく、まっく
らな部屋で反省させられたこともある。小学生のときは、暗さは恐怖で、たまらな
かった記憶がある。直接的な暴力でないけど、そういった形で。

おそらく、無意識のうちに、愛する子供に、自分の不安定な精神をわかってもらお
うという心が、理不尽なしつけや暴力になるのではないだろうか。

この映画は、暴力は悲惨であるけど、愛の映画だ。

でも、この映画がテーマにするような愛が、もっと悲惨な形で現実になったり
することも、世の中にはあるのかもしれません。

朝ジョグ:6km

アン・リー、ヒース・レジャー;ブロークバックマウンテンその後

2008年01月26日 | 映画
以前に、ブロークバックマウンテンの記事を書きましたが、ここ数日のうちに、
その関係者についてのいくつかの報道がありました(→過去記事URL)。

まずは喜ばしいほうから。
アン・リーの最新作、「ラスト、コーション」(→URL)が日本で公開されます。
副題が「あなたはタブーを目撃する」となっていますんで、きっとブロークバック
マウンテンから引き続き、性的な問題の「禁止とその侵犯」を描いてるのかもし
れません。僕の頭では、バタイユによってすでに理解済みの問題ですので、
面白いことがわかってて、安心して見れます。安心して見れる監督は好きです。

そして悲しいほう
イニス役のヒース・レジャーが死んでしまいました。薬物による変死と報道され
ていましたが、おそらく発作的な自殺ではないでしょうか。ブロークバック
マウンテンで非常に注目され、遺作がザ・「バットマン、ダーク・ナイト」の
ジョーカー役だった。
年上の女性に依存傾向があり、ブロークバックマウンテンで共演した女性と
結婚、子どもをつくったあと、離婚していた。また、睡眠薬依存状態にも
なっていたらしい。
感情の起伏が激しい人が、ブロークバックマウンテンのような、人間の根源に
かかわる映画に出てしまうと、その後、いろんな問題を露呈してしまうのかも
しれない。今のアメリカは、ある意味、なんでもOKの世の中であり、「禁止」
なんて言葉がゴミ箱に捨てられてしまっている。そんな中で、強い精神を持って
ないと、いろんな方面への人間本来は禁止のものへとひきつけれらてしまい、
「侵犯」の意識なく踏み込んでしまうんでしょう。まあ、日本もほぼ同じ状況に
ありますが。

最近、佐世保で乱射事件がありましたね。あれについても、バタイユ的な視点を
もつと、なぜ日本でああいう事件がおこるのか、説明できる。あまりに暗いし、
つらいことなんで、それについてはまた筆を改めたいと思います。


明日は、新宿ハーフ。一応の目標タイムは、1時間45分ってことにしときます。
かなり厳し目の目標ですが。

女性の恋愛2タイプ:「電車男」と「7月24日通りのクリスマス」

2008年01月06日 | 映画

昨日のイチローの話を読んだかたも、もうひとつの朝ごはんのエピソードと、最後の
次につながる文章をつけ加えたんで、もう一度読んでみてください。

さて今日は、日曜日にふさわしく、のんびりした恋愛の話でもしましょう。
中谷美紀にはまってる話をしてましたが、実は彼女が主演の「電車男」と「7月24日
通りのクリスマス」、監督が村上正典で一緒でした。この二つの映画、内容は絶賛
するようなものではないですが、女性の2つの恋愛のタイプが見れて、面白い。

今日の話は、女性にとっては、ちょっとグサっとくる直球もあるんで、そのつもりで。

「えッ、電車男って秋葉オタクがエルメス(お嬢様)に恋する話じゃないの?」と思わ
れるでしょうが、映画では、真逆で、エルメスが電車男にどう惚れるかって話に
なってる。
「7月24日通りのクリスマス」はわかりやすくて、サユリ(中谷美紀)が奥田さん
(大沢たかお)にどう惚れるかって話。

まあ、みなさんこの二つの映画、まず二本とも見ようとする人いないでしょうから、
ネタバレしてもいいっすよね。順番に説明していきます。

①「7月24日通りのクリスマス」(amazon URL
こっちは典型。サユリが先輩の奥田さんに憧れて、まあ、白馬の王子様を待つ?
って感じでしょうか。映画では、サユリの精神遍歴が語られて、王子様の紆余曲折
もあり、多少重層的になってますが、ようは女性が男性に憧れを持ってを好きに
なるという、女性の恋愛の典型なのかも。現実もこちらのパターンが90%くらい
占めてそう?極端な話、ヤクザに惚れる女だってこっちかも。好きな男性に支配
されたい願望ですよね。

②「電車男」(amazon URL
こちらはよく見ないとわからないつくりになってる上に、実際の社会でも、あんまし
実例が少なそう。エルメスが電車男に助けられて、そのあと別れるシーンに全て
が凝縮されてる。去っていく電車男の後姿ををエルメスが見てるんだけど、彼が
恐怖の後遺症で、フラっとするシーンがある。それを見たエルメスは、「あっ、この
人、ホントに優しい人なんだ」と直感的に悟っちゃうだよね。その後は、エルメスが
その優しさに惚れて、実は彼女主導で電車男をその気にさせてく。
これは、いやな言い方をすれば、「あっ、この男は私を裏切らないし、操れそう」
と思うんでしょう。こちらは現実には10%くらいしかないでしょうね。

①のタイプの恋愛の場合、女性は男性にどんなひどいことされてもついてっちゃうし
あるいみ完全受身のM状態。②のタイプは、相手をたてたりしながらも実は裏で
は女性が男性を操っているどちらかというと支配するS状態?

実際の恋愛は、両方のミックスが多いので、個別のケースにはお答えできません。

それでは、女性は①と②、どちらが幸せになれるのか?おそらくそれは、時代と
ともに変遷があるでしょうが、現代ではそれの答えも実は「ハイコンセプト」の中に
書いてある。そこは説明しません。なぜかといって、それぞれの関係性で見解の
違いもあるでしょうし、個別の議論になってしまうので。みなさんで考えてみて。

それともうひとつ、超マニアックな話を。①では二人で歩くとき、男性(大沢たかお)
の左手側に中谷美紀が、②では電車男の右手側に中谷美紀がいます。歩くとき
に女性がどちらに立つかはとても重要な意味があります。右脳と左脳の関係で。
お読みのみなさんはどちらのタイプですか?
ちなみに僕は②です(女性の左手側に僕)。昨日のブログと関係すると、TVで
確認できたとこでは、イチローと弓子さんも②でした(URL)。

で、この二つに出てこないのが、両方自立タイプ。これは、お互いがオタク系の
ように、趣味とかが完全に一致しないと、あまりうまくいかないのかも。もしくは
両方にすごい才能がある場合とか。よく、女性雑誌とかで「理想の夫婦像」
とかって描かれてるけど。対等ってのは理想的でいて一番難しいんだと想いますよ、
実際は。


7月24日のクリスマス

2007年11月26日 | 映画
やばいです。中谷美紀にはまりすぎ?「7月24日のクリスマス」。繰り返し見てます。出身が長崎ってこともあり(実はぜんぜん長崎市からは100kmくらいはなれてますが)、知ってるとこがいっぱい。

まず、本田サユリみたいな女性、すっごく周りにいる。今の時代、恋愛を計算でなくまっすぐ向かう女性、ほんとうまくいかないんだよね~今の男性には。なんでかって、男性は実は受身だから。積極的に好きになってもらわないと動けない男が多いってこと、女は知らない。そうでない男はハラスメンターが多い。いい男女ほど、関係性がうまくいかない。言葉をしゃべる人間、しかも自由な時代の特徴だよね。勝手に相手のことをいろいろ考えちゃうんですよね~。

恋愛は無限ループにはまりがち。なんでかって人間は恋愛のときすごく自分を出しにくいから。人間とほかの動物が違う点は「隠す」ってこと。発情期がわからない動物って人間だけなんだよね。隠すことが美徳だって教えられたりするから。でも、隠すと何も伝わらない。それがまじめな人の恋愛の無限ループ。無限ループには1mmも意味がない。思ってることは伝えなきゃ。人間以外の動物は片方が相手にあるいみ挑む。口説くんじゃなくて挑む。でも人間は口説かなきゃいけない。それって無理な相談なんだよね。だって人間は隠す生き物だから、好きでも隠したりするからね。男女関係は口説くんじゃなくて挑まないと何の前進もない。

この物語では、最後にサユリは挑む。それがハッピーエンドにつながるけど、現実はそういかないこと多い。まあ、それはそれですが。

で、中谷美紀、オランダ坂を走るシーンが最高。いいフォーム。そしてこけるシーンが最高!彼女にはつらい顔がホント似合う。っていうか僕が好きなだけ?

で、彼女が背伸びをしてのキスシーン。大沢たかおになりたい自分が怖い。変態ですね~。でもでも、すごくいいですよ~

「自虐の詩」、mamiちゃんによると中谷美紀の不幸度満点らしいてです。みにいかなきゃ!

嫌われ松子の一生

2007年11月15日 | 映画
借りたDVD、パッチギ2についで2本目。下妻物語の監督で、中谷美紀ということで、期待半分、悲惨な話でつまらなそう半分で見てみました。うーん、これがなかなかすごい!いい意味で期待を裏切られました。下妻物語はB級の度合いが強い作品でしたが、こっちは映像など同じテイストなのに、完全にA級。いくつかの場面で印象的なシーンがあるんですが、見てない人もいるでしょうから言いません。といいつつひとつだけいうと、刑務所から出てきた彼氏に松子が会いに行くシーン。ここは「えっ!」という展開。それと殺されるシーンも。ばらしすぎ?

この文章を書きながら、漢字変換してて気づいたのは、松子はホントは「待つ子」だったんですね。映画、見てもらえば、言ってる意味わかってもらえると思います。

’ブロークバック・マウンテン’ を見る

2007年10月27日 | 映画
仲のいい友人二人からずっとすすめられていた映画をやっとみました。友人との話の中で、「究極の恋愛はきっとゲイだよ」と僕が言ってるのを聞いて、それならば絶対これといわれていた映画です。

まずはストーリーじゃなく、僕の感じたこの映画の本質的な’上質さ’について。何がすごいって、この映画、ものすごく統一されていて首尾一貫していて、隅々まで行き届いていることかも。まず、出てくる登場人文全員の演技が’すごくリアル!’ああ、こういうときってこういう感じとか表情しちゃうってことがストレートに伝わってくる。だから、見てるといろんな人にすぐ感情移入ができちゃう。全員が人間の喜びや悲しさをすごく上手に表現できている。加えて、映像も音楽もすばらしい。ホント、この監督の力量が伝わってくる。アン・リーという台湾出身の人らしいけど、ほかの映画は見たことない。「ゲイ」という変わったテーマに注目しがちだけど、実はこの映画のほかとの差は、そこのような気がする。

で、当然次はストーリーになる。でもこの映画のテーマ、僕には基本的にとてもわかりやすかった。というのも、僕はこの映画をジョルジュ・バタイユの「禁止とその侵犯」という言葉で理解したから。この映画の恋愛関係にある男性二人は、イニス・デルマーとジャック・ツイストだけど、すべてはイニス・デルマーの視点で語られる。それは基本的に「禁止とその侵犯」を犯して苦悩しているのはイニス・デルマーであり、ジャック・ツイスト(元々ゲイを自覚)にとっては二人の関係は単純に男女の普通の恋愛関係と同じなんだから。イニス・デルマーにとってジャックは、単なる恋愛相手ではない。運命のいたずらから、主体的でなくついパンドラの箱をあけてしまったイニスは、「禁止とその侵犯」に翻弄され続ける。

ジョルジュ・バタイユは20世紀前半の人なので、ホモ・セクシャルについての言及はほとんどなかったように思う(覚えてないだけかもしれないけど)。1963年のアメリカにあっては、’ゲイ’は絶対に圧倒的な禁止であったし、それを偶然(ある意味必然かもしれないが)から犯してしまうイニスは、まさしくバタイユの主題そものもを具現化したような存在になる。その観点から見ると、すごく簡単にストーリーも理解できる。
※ジョルジュ・バタイユを知りたい方は、「エロティシズム」をおすすめ。最近新訳で「マダムエドワルダ」(+眼球譚)も出てるらしいです。

で、最初のゲイの話に戻ります。僕は3年ほど前、僕と僕の娘と男性の友人、3人でサイクリングにいったことがあります。そのとき、「ああ!今の瞬間って一生忘れないくらい幸せな時間だな」って思ったことがあるのです。別に僕は、その男性が好きだとかいうことはまったくないし、性的に男性に引かれることもまったくない。おねんちゃんのオッパイと足フェチのただのオヤジです。当然ですが、娘に対してはあまり人間的にバリアーをはらなくてすむ。そしてその男性と一緒だと、ホント心のバリアーがはがされているような感じがしたのです。もし僕がゲイなら、きっと究極の恋愛というのは、男性とのあいだに生じるなあと感じたのです。僕(僕だけじゃないかもしれません)は女性と接すると、どうしても何らかの心のバリアーをはる。それはつれあいにも恋人に対しても同じ。でも男性の友人とかには、それがまったく必要ない人がいるんです。ある意味残念なことに、僕は男性に対して性的興味がないんで、なにも起こらないんですが。

最後に変な話なんですが、イニス・デルマー(ヒース・レジャー)の神経質そうな顔は、ラグビーイングランド代表のジョニー・ウィルキンソンに似てます。そして、ジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)の端整な顔は、若いときのアルパ・チーノかな。心に残る映画になったことは確かです。

左がジャックで右がイニス

タイヨウのうた

2006年08月05日 | 映画
ホントにゆっくりだけど、今朝も2時間ほど自転車にのったり走ったり歩いたりした。新宿御苑、神宮外苑、皇居とかを。夕方には1ヶ月ぶりくらいにプールにも。


タイヨウのうた
1990-1995年ごろ、XPの研究をやってた。太陽の光の中には、紫外線が含まれていて、細胞の設計図であるDNAにたくさん傷をつける。細胞の中では、ちっちゃいxp関連のタンパク質たちが、それをせっせと修理してる。修理できないと細胞が死ぬ。もっと悪いのが、死に損ねた細胞がガンへと変わる。XPの患者たちは、太陽の光を浴びると急性症状としては皮膚炎をおこす(=細胞が死ぬ)。でも時間がたつと、その中から皮膚がんになるものがでてくることがある。吸血鬼みたいに溶けて死んじゃうわけじゃなくて、時間がたってから皮膚がんになる。

XPにはA~GとVの8つの種類があって、ドラマのA群は、DNAの修復欠損だけでなく、もっと生命に直結した機能にも欠損があって、皮膚症状だけでなく神経細胞などに異常がでる。20歳にもなってあんなに元気な患者は皆無にちかいでしょうね。

このドラマは、もろもろ細部に破綻があって、非常に杜撰なつくりになってる。そのかわりに、青春熱血系みたいな昔のドラマの香りがある。なんとなく赤いシリーズとかスチュワーデス物語とかに近い感じがする。ひどいドラマだけど、いろんなとこに目をつぶって見るとオモシロいです。昨夜のゴレンジャーのパロディーとかね。

ベルヴィル・ランデブー

2005年11月14日 | 映画
昨夜は、レンタルビデオでベルヴィル・ランデブー(オフィシャルサイト)を見た。
とっても変な話だが、いろんな複線があってとってもおもしろい。
ツール・ド・フランスが話のテーマのひとつ。

今朝は、まだ足に筋肉痛が残っていて、3kmのジョグのみ。
土曜日の疲れで、腰、首ともに不調のため整体にいってきた。
(といいつつ、片道11kmを自転車でいったのだが)

土曜日走ってわかったのは、まだまだ走る体になってないこと。
最低限の体になるには、3ヶ月くらいはかかるだろう。

まあいろいろ悩んでも、スイムはまだまだ全然なので・・・
でもトライアスロンの大会も4月くらいからなので、
それまでには何とかならないかな。。。
とりあえず、オリンピックディスタンスに出れるように。
(スイム1.5km、バイク40km、ラン10km)