ー(→URL)、などで登場した僕の友人です。この映画もまたもやすごいインプレッ
ションを僕に与えてくれることになりました。
まずはこの映画、普通1回みた程度では、ほとんどの人は直感として「いい映画だ
な~」とか「美しくて悲しい映画だな~」とか「わかんないな~」とか思っても、
その心理とかまではたどり着けないほど、重層的で複雑に作ってある。監督自身
が、「見るたびに違う場所に感動する」と言ってるくらいだから。
実は僕もまだ1回しか見てません。しかも「ダロウェイ夫人」を読んでいない。そ
れどころかヴァージニア・ウルフを読んだことない。読もうとして短編集を5年く
らい前にかってはるのですが。なのでここで述べるのは、「非常に直感的な僕自身
の特異的な感じかた」、という前提でお読みください。
あらすじについては、公式のHPを参考にしてください。→URL
まずは、自分なりの登場人物紹介
ヴァージニア(ニコール・キッドマン):実在のイギリスの作家。詳細はウィキっ
てください(→URL)。映画の中では、お姉さんとの近親相姦的なレズビアン関係が
ほのめかされている。実在の、ヴァージニア・ウルフとヴァネッサ・ベル姉妹は、
その時代としてはありえない、同性愛の容認&実践者だったらしい。かのアダム・
スミスもそのメンバーだった急進的自由主義者集団、ブルームズベリー・グループ
(→URL)にいた。
ローラ(ジュリアン・ムーア):この人が、実はこの映画の道化回し。つまり、実
在の作家のヴァージニアと彼女が書いた「ダロウェイ夫人」の主人公であるクラリ
ッサをつなぐ、架空の人物として描かれている。ローラの息子のリチャードが、映
画の中のクラリッサの恋人、リチャードとなる。「ローラとリチャード」が、「ヴ
ァージニア」と「クラリッサ」をつないでいる形式となっている。
このローラの人物描写が、僕にとっては、一番この映画の中で理解しづらい。それ
は彼女が家族=リチャードを捨てる動機が、映画の中ではわかりやすくは描かれて
いないから。でも僕の理解では、彼女は普通の主婦にもなれたものを、たまたま
「ダロウェイ夫人」を読んだり、病気になった友人の女性と思わずキスしたりした
ことで、「女性の本来持っている幸せになる資格」、に気づいちゃったんだと思
う。この、「女性の本来持っている幸せになる資格」、が今回の僕のメインテー
マ。このメインテーマは、多分、この映画の監督が思ってることとも、ヴァージニ
ア・ウルフが思っていたこととも違うのかもしれない。それについては僕にも何も
わからない。ローラにもレズビアンの影が描かれている。
クラリッサ(メリル・ストリープ):ローラの捨てた息子、リチャード(詩人&作
家)の元恋人&編集者。ヴァージニアの著作の「ダロウェイ夫人」の主人公でもあ
り、映画と小説の二重の意味を持った存在として描かれている。リチャードに捨て
られたあとは、同性の彼女と同居している。
リチャード:ローラが捨てた息子&クラリッサの元恋人。母親から捨てられたのが
原因で女性および人間不信であり、クラリッサを捨てたあとは同性愛に走り、エイ
ズ患者となっている。
この映画では、3人の女性を中心に、同性愛、異性愛、母子愛が描かれていると思
う。この3つの愛には、ブロークバック・マウンテンで述べた、ヴァタイユ的な
「禁止とその侵犯」もあるのだけど、ちょっとそれと性格をことにしている点があ
る。それは、ブルームズベリー・グループに属していた、ヴァージニア・ウルフと
ヴァネッサ・ベル姉妹が、同性愛を容認していたから。だから彼女たちにとっては
それは「禁止」ではなかった。なので「侵犯」の甘美さもない。単純に人間の愛の
一種として描かれている。その点はブロークバック・マウンテンと大きく違う。
では、ヴァージニア・ウルフやヴァネッサ・ベル、そしてこの映画から導けるテー
マとは何か。それが「女性の本来持っている幸せになる資格」なのだ。人間ははじ
めは女性として生まれてくる。性染色体は、女性がXX、男性がXYなのだけど、
Yには生存に必須な遺伝子はない。そりゃ当然で、そんなもんがあったら女性は死
んじゃうもんね。で、Xには単純に女性を男性に変化させる「イグニッション・キ
ー」があるだけ。それが機能しなければ、人はみな女性になるのだ。「男性は消耗
品」と言われるが、確かにそういう側面は強くあって、彼らは女性という生殖装置
をめぐって争いあう精子にすぎないとも考えることができる。なので、女性という
ものはその本来的な資質として、「独立」している。男性は女性なしにはありえな
いけど、女性は、もし精子というごくちっぽけな細胞さえ天から与えられれば男性
なしでも種族を繁栄させていけるのだ。だから彼女たちは、本来的な意味で、「男
性の存在とは独立で生きたい」という欲求を持っているとも考えることができる。
ここで述べていることは非常に抽象的、そして観念的なことなのであるけれども、
ローラの行動を考える上でとてもヒントになる。彼女は映画の中で、典型的な優し
い夫と息子に囲まれた生活を、「あの生活は私にとっては死だった。あの家を出て
初めて私は本来的な意味で生きることができた」と言っている。そう、女性は
「男」に左右されて生きる生活が本来的に嫌な生き物なのかもしれないのだ。
誤解しないで欲しいのは、それが「正しい」と言っているのではない。進化学的に
そういう欲求が女性には隠されている部分があるといっているのだ。しかしなが
ら、人は現実的には男性と女性がいないと繁殖できないし、家族としての二つの性
は、「全体最適」にとってかかせない存在。だからローラの息子のリチャードは
人間不信になっちゃったんだから。そしてそれはクラリッサも不幸にした。
僕は女性が大好きだし、僕の中には非常に女性的な部分もある。だから、究極的に
は僕にも「独立」欲求があるのかもしれない。でも、僕は人が好き。一人でいるの
は耐えられない。誰かとおしゃべししてないと死んじゃう、『ホモサピエンス・
シャベクリ-ナ』でもある。だから、ずっと大勢の人と一緒にいたいです。