アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

過去の執筆原稿から② 「型の芸術」としての能 ~歌舞伎との比較を通じての小文~

2009-06-02 22:32:43 | 古典芸能
これも1回生のレポートとして提出したものである。当時筆者は歌舞伎>能の歌舞伎贔屓であって、能の専門家である教授があまりに歌舞伎をくさすので、やや反発的に認めたものである。教授は寛大にも「優」を下さったけれども。

その後、観世流の謡を実際習うようになって、ヨリ能に親しむところとなり、考えに少なからぬ変化は来たしているが、ここで呈したいくつかの視座は、今日でも尚、一層の考察の余地を残すものと思っている。
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能は、海外でも非常に評価が高いという。私は、この点に、一寸疑問を感じずにはおれなかった。能の文句は、所謂「古文」そのものだし、しかも独特の調子で謡われるせいで、日本人である私たちにさえ、刹那に理解することは容易と言えない。ましてや、それが海外の人々に理解されようはずも無いではないか。それが、私の積年の疑問であった。

けれども、稀代の名手に於いてさえ、その内容の委細を知らずに舞っていたという現実。それが意味するところは何であるか。即ち、能を鑑賞する人の多くは、そこに「様式美」を追求しているということではないか。「型」が、そこに於いては支配的なのではないか。そう考えると、上述の疑問にも合点がいく。「型」の魅力は、観る者を選ばぬであろう。
これは愚説に過ぎないが、「型」がその芸術性の源泉だとするならば、本質的な部分に於いて、能は「保守的」な芸術ではないだろうか。勿論、上演のスタイルに歴史的な変遷を経てきたとは言え、本質的な部分では世阿弥の時代から大きな変化を持っていないという気がするのである。
ヨリ具体的に言うならば、「隅田川」なり「道成寺」なり、歌舞伎と能を比べてみると分かり良い。私のつたない鑑賞によるものではあるが、能のこれらの演目は、無論各流派によっての差異は生じるとはいえ、どこか常にひとつの完成されたスタイルの上に成り立っているという気がする。それが結局、長い歴史の中で育まれてきた「型」とでも言うべきものであり、非常に高度に抽象化された芸の世界を形成する要因なのかも知れぬ。
歌舞伎はそうではない。性根やニンの捉え方は役者によって大きく変わるし、逆にそれが歌舞伎の魅力である。演出も、大きく変わる。歌舞伎に型が無いと言うのではないが、まさに「型破り」であったことから歌舞伎が発生しているという事実は、看過され得ぬものであろう。
歌右衛門の狂女は、息子を喪った女の哀しみを、切なく、また恐ろしく演じていた。しかし、能の「隅田川」に、そういった人間的な感情の発露が、どれほどにあるのか。無論、これは優劣の問題ではない。性質の相違を述べたいまでである。「面」は表情を変えぬのである。それは常に同様の「型」なのではあるまいか。
この歌舞伎と能という、日本の二大古典芸能の差は、一体どこから生まれたのであろうか。私は、やはり歌舞伎は本質に於いて世俗的なものであると思う。即ち、それは日々移ろいゆく「浮世」に立脚しているのであって、自ずとそこに流動的な要素を内在しているのではあるまいか。
能は寧ろ逆で、「夢幻能」が「現在能」以上に演目の主流であることにも証左されるように、そもそも現実的な社会から遊離したところで存在する芸術と言えると思う。
もはや紙面が少なくなってきたが、能が何と言っても、やはり支配層に愛好されてきた現実には、こうした根本的な部分の相違が、横たわっているのではないか。私は、この世俗を離れて「型」を求めることこそ能の在り方だと思うし、今後ファンが激増することは無いかもしれないが、滅びることも無いのが能だと思う。確固たる型を持つがゆえに、普遍的足り得るのである。

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