芋焼酎のつぶやき、バラとの戯れ & HbA1c・血糖値を下げる新しい糖尿病食事療法『糖質制限食』実践記録

A Days of Wine and Roses.酒とバラとイバラの日々。芋焼酎好きアラ還-バラ栽培と糖質制限に挑戦です

松陰神社と馬事公苑、そして三溪園-原富太郎

2012年02月05日 | 日常生活
宿泊券を貰ったので横浜で一泊することに。
特に行くところもなかったが、先ずは世田谷の松陰神社を目差す。


街中にあるが静かで落ち着いた感じの神社だ。


吉田松陰の墓。思ったより小さい。が罪人であったので立派な墓は作れなかったということか。


その足で3キロほど先にある馬事公苑を訪ねる。


当然だが馬ばかり。


37~8年前、父が勤めていたところ。どの建物で働いていたのかと公園内にある事務所らしきものを探す。建て替えられているのだろうが……。


公苑内を一通り見て環八を抜けて横浜に向かう。
早めにチェックインし車を置いて横浜港散策へ。大桟橋などを見て回る。その後呼び込みにうまく引っ掛かってしまい、湾内クルーズへ。17時を過ぎていたので客は10人弱。そのためか、直前の立派な観光船ではなく、小さなおんぼろ船(^^;;
ところがこの船長&運転手がとても面白く博識のある人で、小さな船だがいろんな話を聞けて面白かった。はずれと思ったが一転当たり。こういう状況も捨てがたい。


夕食はホテルの近くにある北海道料理の店で、刺身とジンギスカンとワインを堪能。特にラムの炭火焼が美味しかった。お腹いっぱいになったがぐるなびの割引もあり、二人で7千円強ですんだ。これもあたりーーい。
ホテルに戻って歩数計を見たら17000歩だった。膝がだるい。油切れ状態。

翌日はホテルから5キロ弱の『三溪園』に。


ボランティアガイドが付いてくれたので2時間くらいじっくりと説明を受けた。なかなか解りやすく勉強になった。積極的にボランティアガイドを頼んだほうがいいかも。


樹齢を感じさせる桜ともみじ。赤く見えるのは昨年紅葉しきれず中途半端に枯れたもみじの葉っぱ。


おまけ。3~400年ごろの石棺まであった。やや気持ち悪いが。


三溪園のHPより
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三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪によって、1906年(明治39)5月1日に公開されました。175,000m2に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されています。(現在、重要文化財10棟・横浜市指定有形文化財3棟)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、三溪の手により1902年(明治35)頃から造成が始められ、1914年(大正3)に外苑、1922年(大正11)に内苑が完成するに至りました。三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害をうけ、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至ります。
原 三溪(本名富太郎)(1868年/慶応4-1939年/昭和14)
岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県岐阜市柳津町)で代々に渡り、庄屋をつとめた青木家の長男として生まれました。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18)東京専門学校(現在の早稲田大学)に入学、政治・法律を学びました。1888年(明治21)頃に跡見学校の助教師になり、1891年(明治24)に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、1906年(明治39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を行いました。1923年(大正12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三溪記念館に収蔵されています。
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