農大現代視覚文化研究会

「げんしけん」の荻上と「もやしもん」のオリゼーを探求するブログ

五年生とアルジャーノンの相似点

2006年05月02日 16時32分16秒 | 雑談
これから書く事は普段にも増してどっ引きなので、最初に謝っておきます。ごめんなさい。

長谷川家とゴードン家の相似点について

・息子が障害者
・旦那の方は比較的冷静
・奥さんの方が「自分の所為」という感情を持っている。長谷川さんの方は遺伝的に立証させ、責任を本人に背負わせる。ゴードン家の方は兄しかいない間はそう思わせ、妹が生まれて原因が自分でないと判断すると、原因であるチャーリーにその責を負わせる

故に長谷川さんの奥さんは、ローズのように包丁を使った。てゆうか木尾士目が奥さんに包丁を使わせた。リスペクトと言うかオマージュと言うか。とにかく長谷川家のモデルはゴードン家であろう。

筆が乗ったので「五年生」にもう少し切り込む。ただし以下の文章を理解するためには「性的唯幻論」の知識が必要です。何故なら「性的唯幻論」を使わないと、上手く説明できなからです。「性的唯幻論」の知識が無いのに、読んでわからないとか狂ってるとか言われても困ります。なので「性的唯幻論」の知識が無い人は読まない事をお薦めしますが、判断するのはあなたです。

愛情には2種類ある。目の前の人を好ましいと思う。いい人だなと思う、普通の愛情。もう1つ、自分の精神構造が原因で、抑圧されたものを自我に引き戻すために、目の前の人間が必要と判断した場合の、神経症的な愛情。これが瞬時に行われるのが一目惚れ。「五年生」2巻で、芳乃が「既視感の正体は一目惚れと呼ばれるもの」と言っているが、何らかの原因で自分が抑圧したものを、目の前の人間が持っている場合に、一目惚れは発動する。もちろん神経症的愛情を持つには何らかの抑圧が必要になり、それを木尾士目は「既視感」と表現している。抑圧としている以上、実際にあった事で、しかも抑圧している以上忘れているわけだから、「既視感」と表現するのは非常に正しい。んが、何で「一目惚れの正体は既視感」と書かないのかは謎。なんでなんですか?

さて、芳乃の場合、普通の愛情をアキオに持っており、神経症的な愛情を長谷川さんに持った。長谷川さんに一目惚れをした理由は明らかにされてないが、芳乃からすれば理性的に考えれば長谷川さんに愛情を持つのはハイリスクの極みである。3巻でも本人そう言ってたしな。んが、精神がそれを求めている以上、拒否できない。故に理性と精神のせめぎ合いで、自律神経失調症一丁上がりと、まぁそんな感じじゃないかと説明できるわけよ。

現在の、てゆうか4月中旬から、こーゆー理屈を瞬時に編み出せるようになったんだけど、4月中旬以前は、こーゆー事は考えつくどころか、読んでも全く理解できなかった筈で、故にこの文章がどう読まれるかも大体想像は付く。んだけど、確実にこの文章を理解できる人間がこの世に1人だけいる。木尾士目である。この話を作った本人が、この構造を理解していない筈が無いので、是非この文章を木尾士目に読ませたい。だったらファンレターに書けという話になるが、その下書きをこのブログに載せていると思って頂戴。やっぱり自分のブログに書くのって気楽でいいしね。読まされる方は災難だけど。だから読むなって言ったでしょ?

ところで「性的唯幻論」を知らないのに、この文章を読んでなんか納得したという場合は「性的唯幻論」と相性がいいと考えられます。本屋で「性的唯幻論序説」という本を買って読んでください。文春新書です。

しかもこの文章を書くに当たっては「すっとこさん」という一人称はどうにも馴染まない。使ってみたけどしっくり来ないのである。故に今回は一人称は使ってない。いつもの文章と変わらないと思うんだけど、何が違うんじゃろかー。

(追記)
あーわかった、いつもの文章は特定の読者を想定していないで書いてるから、こーゆー事を考えてみましたけどどうですかねすっとこさん?と確認しながら書いてるんだけど、今回の文章は木尾士目が読者である事を想定して書いてたから、すっとこさんにいちいち確認する必要が無いからなんだー、そうだったのかー。

(もいっちょ追記)
「五年生」読み直してるんだけど「唯幻論」出てきた。2巻88ページ。「それともアレか? 本能でなく理屈で交配するようになった人類は」。これ、岸田秀が常に言っている「人間は本能の壊れた動物である」と一致する。ふむう。

最新の画像もっと見る