西原理恵子について

2007-04-29 21:55:12 | Weblog
 もともと無能な人間だという自覚はあり、人生からは
さほど多くを期待してはいないのだが、それでも昨今の
八方塞がりの状態というのはもうにっちもさっちもいか
ず、いや、冷静に考えりゃ借金があるわけでもなく、二、
三年は寝たままでも暮らせるとは思うのだが、どうもそ
ういう「余裕のある考え方」ができない。これが「鬱」の
はじまりであることはわかるのだが、だからといってな
にが楽になるわけでもない。もーほんと、逃げることば
かりを考えておる脂ハゲであるが。

 そんなグチャグチャな状況の中年男が、西原理恵子の
新刊「できるかなクアトロ」を読んで思わず笑い、そして
涙ぐむ。ああ、いつもながら西原の漫画はいいなあ、な
んでボロボロな状況のこころにこんなに効果があるのだ
ろう。

 思うに、彼女の漫画というのは、「説教」というものが一
切ない。目線が常に読者と平行なのだ。「自分はこんな
体験をした」「自分はこう感じた」「自分はこう思う」だけで、
それによって他人を啓蒙したり、自己の正当性を主張す
るということがまるでない。「話の七割は他人に対する批
判じゃねーのか」の内田春菊や、自己の男性経験をネタ
に笑いをとっているつもりが、いつのまにか「他人を教え導
く」教師的な立場に身を置いてしまった倉田真由美とはそ
こが大きな相違点だ。

 モチベーションがさまざまな面で低下し、地べたをはいず
り回っているような状態のとき、何が不必要かといって「教
え導こう」という他人の説教ほどいらないものはない。必要
なのは共感と暖かな笑いだ。あれだけ売れた漫画家が、い
くら商売とはいえ「尊大なこころ」を作品から排除できるのか。
地に足のついたものの見方ができるのか。漫画家というの
は一種過酷な仕事であり、「あっちの世界」へ行ってしまった
ひともひとりふたりではきかないと聞く。あれだけ売れながら、
「自分のことを凡人と見做せるこころ」を持ち続けられるのは、
一種特殊な能力ではないだろうか。

 思うに、自己の卑近さを冷静に見つめ続けることができると
いうのは、幼少の頃「これだけは欠けてはいけない必須のモ
ノ」が充分に供給された結果であろう。いくら物質的に不自由
がなかろうと、これが欠けていたらオトナになったときどうにも
こうにもならなくなる。「わたしは親から充分に愛されて育った」
という確信。これがある人間は人生において結局は勝っちゃう
ひとたちだ。ほんの少しばかりの「収入の多い少ない」などこの
確信の前では問題にもならない。

 この点において、脂ハゲは勝ち組なのか負け組なのか。けっ
こう勝ってる気もするが、そのわりには人生に関しては完全に
負けているな。どんな場合も例外が存在する、というアレでご
納得していただきたいものである。