喜んでも、怒っても、哀しんでも、楽しんでも、喜怒哀楽、人生は一度きり。
ならばどんな人生がいいのか、自明であろう。己納得なる人生を生きる。
自分を肯定しよう。自分の人生を肯定しよう。
ならばどんな人生がいいのか、自明であろう。己納得なる人生を生きる。
自分を肯定しよう。自分の人生を肯定しよう。
2月3日は亡くなった祖母の辰日。昨日は、長年のBINDSでREVIO-HPをようやく刷新できた。本当のスタートだ。
今夜はお客様と3人で新年会だ。
いつも2月3日は何かが起こる。大学の4年次に祖母が亡くなったわけだが、蔵王に行くか迷っていたとき、女性の
友人と待ち合わせを約束していたが、私は行かなかった。祖母の死を理由に行かない選択をした。祖母に助けられ
たと思った。それでよかったと思う。若いときは誰しもいろいろある。
蔵王で一緒だった木戸君は白血病で亡くなったわけで、そう考えれば彼が行きたかった一日は私の今の一日だ。
感謝せねばならない。
明日は会議、海馬社もいよいよ本格的なスタートだ。天馬社は、「天馬空」、海馬社は「海馬龍」。
節分だし、だれが、何が福で、だれが何が鬼か・・・。
**********************************************
木戸君を冥福したい。木戸君、青春をありがとう、そして今僕が連れているSHINODAは木戸君に似ているよ。
木戸君が夜遊び遅く、蔵王の宿舎に夜中門限破って帰ってきたとき、僕を誘ってお風呂一緒に入ったね。君は
破天荒でした。仲よく遊んだ思い出は忘れない。
**********************************************
おばあちゃん、いつも見守ってくれてありがとう。
やすらかにお眠りください。私は今、おばあちゃんが亡くなった病院のそばのマンションに住んでいるよ。
今夜はお客様と3人で新年会だ。
いつも2月3日は何かが起こる。大学の4年次に祖母が亡くなったわけだが、蔵王に行くか迷っていたとき、女性の
友人と待ち合わせを約束していたが、私は行かなかった。祖母の死を理由に行かない選択をした。祖母に助けられ
たと思った。それでよかったと思う。若いときは誰しもいろいろある。
蔵王で一緒だった木戸君は白血病で亡くなったわけで、そう考えれば彼が行きたかった一日は私の今の一日だ。
感謝せねばならない。
明日は会議、海馬社もいよいよ本格的なスタートだ。天馬社は、「天馬空」、海馬社は「海馬龍」。
節分だし、だれが、何が福で、だれが何が鬼か・・・。
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木戸君を冥福したい。木戸君、青春をありがとう、そして今僕が連れているSHINODAは木戸君に似ているよ。
木戸君が夜遊び遅く、蔵王の宿舎に夜中門限破って帰ってきたとき、僕を誘ってお風呂一緒に入ったね。君は
破天荒でした。仲よく遊んだ思い出は忘れない。
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おばあちゃん、いつも見守ってくれてありがとう。
やすらかにお眠りください。私は今、おばあちゃんが亡くなった病院のそばのマンションに住んでいるよ。

プロで挫折、指導の糧 早鞆高野球部監督・大越基(上)
(1/2ページ)2012/5/27 7:00
あの夏の快投から23年。今年3月、かつて甲子園をわかせた大越基(41)は早鞆(山口)監督として教え子とともに同じ場所に立った。
1989年、仙台育英(宮城)のエースとして春夏連続出場。150キロに迫る剛球で夏は6試合を1人で投げ抜き、東北勢初の頂点まであと一歩だった。
いい指導者に巡り合えた高校時代に一番伸びたと確信する
決勝で帝京(東東京)を九回まで無失点に抑えながら、十回、0―2で敗退。美しき敗者としてその姿はファンの記憶に刻まれた。
だが、その後は苦難の連続だった。進学した早大の野球になじめず中退。1年半のブランクを経てプレーを再開したのは米国だった。93年に
ダイエー(現ソフトバンク)にドラフト1位で入団したが、プロの世界で投手としては通用しなかった。
■高校野球のスター、プロで暗転
野手に転向し、「これで駄目なら野球をやめるしかない」と覚悟。山村善則2軍打撃コーチ(現ソフトバンク3軍打撃コーチ)に促され、
1日1000スイング以上振り込んだこともあった。97~98年はケガに泣いたが、99年には1軍で82試合に出場、日本シリーズでも安打を放った。
ただもう若くはなく、2003年オフ、32歳で現役生活に終止符を打った。代走や守備要員としての起用が多かった11年間のプロ生活で輝いたのは
ほんのひとときだったが、大越にとっては挑戦の喜びにあふれていたという。
初めて試合で外野を守ったとき、「野手はこんな感じで投手の背中を見ていたのか」と驚いた。「自信なさそうに投げているとすぐ分かるし、
反対に工藤(公康)さんのように、背中から気迫がにじみ出る人もいた」。投球内容が悪ければ守る野手の集中力に影響するといわれるが、その意味を肌で感じ取れた。
守備位置をコーチ陣のデータ分析に加え、投手の調子と打者のスイングを見て調整することも覚えた。「自分は野球をわかっていなかった」。
反省する一方で、新しい知識と技術を吸収することが楽しかった。
「今後も野球に携わっていくには、どうすべきか」。浮かんだのが高校野球の指導者だった。投手も野手もプロの世界で経験し、両方の技術、心構えを教えられる。
しかもしんどい思いの経験値なら負けない。
「指導者になってみると挫折も苦労もいい経験。引き出しが増えたし、自分だから教えられることもある」。大学を中退し米国に行き、プロでは野手に転向。
回り道をしてきたが、そこで流した汗と涙が宝となった。
大越には「自分が一番伸びたのは高校時代。それはいい指導者に巡り合えたからだ」という思いがある。
■人生決めた竹田監督との出会い
仙台育英で大越の才能を見いだし、磨いた恩人は竹田利秋だ。今は国学院大野球部総監督を務める名将は、同じ宮城県の東北を計17回も甲子園に導いた。
佐々木主浩(元米マリナーズ)らを育てた後の85年秋からは、仙台育英の監督に就任していた。
「先生の教えは今も一言一言が胸に残っている」という竹田との出会い。大越の人生を決めたのは「偶然が結んだ縁」だったという。
=敬称略
選手に任せて伸ばす 早鞆高野球部監督・大越基 (中)
(1/2ページ)2012/5/27 7:00
ダイエー(現ソフトバンク)で11年間、プロの飯を食った大越基(41)にとって、野球人としての基礎を作ってくれた恩師であり、最大の理解者だったのが、
仙台育英(宮城)時代に指導を受けた竹田利秋だ。
恩師の教えに自分流の味付けを加え、生徒と向き合う
2人の出会いは、大越が中学3年のときにさかのぼる。当時暮らしていた青森県八戸市から父とともに仙台へ。その前年まで竹田が監督をしていた
東北(宮城)の練習風景を見学し、新幹線の時間まで余裕があったので、たまたま仙台育英に転戦した。最初は見学の予定さえなかったという。
■“飛び入り”で竹田監督の門下に
竹田はその日をはっきり覚えている。「高校生が投げているブルペン前のネットに顔をくっつけ、食い入るように見ている中学生がいた。
尋常じゃない熱心さに驚いて、ちょっと投げてみなさい、と声をかけた」
いわば飛び入りだったが、「とにかく練習の熱気がすごかった。自分はここで通用するだろうかと、ドキドキしながら自分の球と比べていた」と大越。
両親は寮生活を送ることに反対だったが、帰りの車中で「絶対に仙台育英でやろう」と心に誓ったという。
このめぐり合いが大越を大きく育てた。竹田の指導の基本は「選手が自分で考え、判断して、行動できるようにすること」。たとえば、次の試合に登板するとき、
逆算してどう調整するのか決めるのは、すべて選手の判断とする。「何曜日に何球投げるのか。ここは走り込んで、ここはマッサージなど、全て任せてもらえた」と大越は話す。
選手は試合で、次に何をするかを一瞬で判断し、最適な答えを選ぶ必要がある。ベンチの指示が及ばない場面でならなおさらだ。持てる力を最大限に発揮するため、
練習計画も「選手に任せるところは任せる」が基本方針だった。
竹田は当時をこう振り返る。「選手には『自分で自分を育てなさいよ』と常に言ってきた。もっとやるべきことはいろいろある。それを自分で探しなさいと」
自主性を尊重するかわり、練習態度には厳しく、グラウンド上での竹田は鬼のようだった。少しでも緊張感がゆるむと、すぐに全員集合の号令が飛ぶ。
「自分のせいで皆が怒られるのが嫌で、常に足を止めないようにしていた」と大越。練習で目いっぱい追い込まれるから「上級生にも余裕はなく、下級生に説教も
できないほどだった」。
■強い心こそが成長への原動力
「大越は理解力があるし、ハートも熱く、教えやすい子だった」と竹田は言う。1989年春の甲子園では、上宮(大阪)の元木大介(元巨人)に本塁打を浴びて敗れ、
竹田の「彼には内側を攻めないと」という言葉に発奮。その後、スポンジ入りの防具を着た後輩を打席に立たせてインコースの制球を磨き、夏の準々決勝での再戦では元木を1安
打に抑えて完勝した。
自立した強い心こそが成長への原動力となる。竹田からはそれを学んだ。だから大越は、技術だけを教えることはしない。
工夫を引き出し壁を乗り越える手段に気づかせるために、選手を信じ、任せて、見守る。大越は今、高校時代の恩師の教えに自分なりの味わいを加えて、
生徒と向き合っている。
=敬称略
挫折にこそ宿る可能性 早鞆高野球部監督・大越基(下)
(1/2ページ)2012/5/27 7:00
大越基(41)が早鞆(山口)に保健体育の教諭として赴任したのは2007年春。プロ経験者に必要な2年間の教員経験を経て、09年8月に監督就任した。
守り勝つ野球を目指し、細かい守備や走塁を指導
教員免許取得で同県下関市の東亜大に編入したのが縁で、早鞆の同窓会長らから「もう一度甲子園に」と頼まれた。だが、出場は40年以上前のこと。
グラウンドには雑草が茂り、ネットも至る所で破れていた。
夏に3回出場し、準優勝1回という昔日の面影はなく、悪く言えば「マイナスからの出発」。それでも「何の伝統もないところから、強くなった方が自信になる」と
前向きに捉えた。
■選手との距離、しかり方に工夫
目指したのは守り勝つ野球だ。「高校野球ではミスをした方が負け」が持論。平日は約2時間しか練習できない制約の中で、打撃より優先すべきテーマは状況に
応じた細かい守備や走塁だと感じていた。指導ノウハウには自信があった。
就任当初は選手との距離の取り方、しかり方など試行錯誤を重ねた。1~2年目は「自分が前面に出て、細かく指導してチームをつくろうとした」が、3年目で
スタイルを一変させた。
2人のコーチを表に立て、自らは選手の動きや表情を黙って観察し、雑なプレーが目立つときだけ引き締めた。「怒りすぎると、自分が気になって眠れなくなるから」。
指導法転換の土台には、むやみに萎縮させられることなく、何が必要かを気づかせてもらえた高校時代の体験がある。
ただ、チームの成績は一進一退。昨夏の県大会は好機で思うようにバットが振れず、3回戦敗退に終わった。「良いチームなのに、殻が破れなかった」と大越。
この敗戦後、思い立って選手らを決勝戦が行われる甲子園のスタンドに連れて行った。「一度、本物を見せた方がいい。当てにいくな、と口で100回言っても
できないのだから」。効果はてきめん。「打者はガンガン振るし、投手も堂々と投げる」。みんなの表情が変わった。
挫折にこそ宿る可能性 早鞆高野球部監督・大越基(下)
(2/2ページ)2012/5/27 7:00
足りないものに気づき一皮むけたのだろう。昨秋の県大会では1試合平均約7得点。倉敷商に敗れた中国大会準決勝でも、初回に5点先制されながらしぶとく
3点を返した。この粘りが選抜出場への道を開いた。
■監督業に勝利とは別の喜び
3月26日の智弁学園(奈良)戦。監督としての甲子園初戦は五回に5点を奪われて逆転負けしたが、大越は勝利とは別の喜びを感じていたという。
2安打(1打点)を放ち、六回にはダイビングキャッチの美技も見せた中堅手・中村要の活躍がそれだった。
中村は中国大会準決勝で飛球を落とし(記録は安打)、敗戦の原因をつくった。
大会後、大越はあえて「落球」を責め、仲間の信頼を取り戻すにはどうプレーすべきか考えさせた。自分の甘さと正面から向き合うしんどい作業の先に、
大舞台での輝きがあったのだ。
「真剣味の足りなかった選手だったが、一冬越えて目の色が変わった。失敗を糧に成長してくれた」。挫折にこそ可能性が宿る、が大越イズム。
始まったばかりの監督稼業の喜びは少しずつ増えていく。
=敬称略
(1/2ページ)2012/5/27 7:00
あの夏の快投から23年。今年3月、かつて甲子園をわかせた大越基(41)は早鞆(山口)監督として教え子とともに同じ場所に立った。
1989年、仙台育英(宮城)のエースとして春夏連続出場。150キロに迫る剛球で夏は6試合を1人で投げ抜き、東北勢初の頂点まであと一歩だった。
いい指導者に巡り合えた高校時代に一番伸びたと確信する
決勝で帝京(東東京)を九回まで無失点に抑えながら、十回、0―2で敗退。美しき敗者としてその姿はファンの記憶に刻まれた。
だが、その後は苦難の連続だった。進学した早大の野球になじめず中退。1年半のブランクを経てプレーを再開したのは米国だった。93年に
ダイエー(現ソフトバンク)にドラフト1位で入団したが、プロの世界で投手としては通用しなかった。
■高校野球のスター、プロで暗転
野手に転向し、「これで駄目なら野球をやめるしかない」と覚悟。山村善則2軍打撃コーチ(現ソフトバンク3軍打撃コーチ)に促され、
1日1000スイング以上振り込んだこともあった。97~98年はケガに泣いたが、99年には1軍で82試合に出場、日本シリーズでも安打を放った。
ただもう若くはなく、2003年オフ、32歳で現役生活に終止符を打った。代走や守備要員としての起用が多かった11年間のプロ生活で輝いたのは
ほんのひとときだったが、大越にとっては挑戦の喜びにあふれていたという。
初めて試合で外野を守ったとき、「野手はこんな感じで投手の背中を見ていたのか」と驚いた。「自信なさそうに投げているとすぐ分かるし、
反対に工藤(公康)さんのように、背中から気迫がにじみ出る人もいた」。投球内容が悪ければ守る野手の集中力に影響するといわれるが、その意味を肌で感じ取れた。
守備位置をコーチ陣のデータ分析に加え、投手の調子と打者のスイングを見て調整することも覚えた。「自分は野球をわかっていなかった」。
反省する一方で、新しい知識と技術を吸収することが楽しかった。
「今後も野球に携わっていくには、どうすべきか」。浮かんだのが高校野球の指導者だった。投手も野手もプロの世界で経験し、両方の技術、心構えを教えられる。
しかもしんどい思いの経験値なら負けない。
「指導者になってみると挫折も苦労もいい経験。引き出しが増えたし、自分だから教えられることもある」。大学を中退し米国に行き、プロでは野手に転向。
回り道をしてきたが、そこで流した汗と涙が宝となった。
大越には「自分が一番伸びたのは高校時代。それはいい指導者に巡り合えたからだ」という思いがある。
■人生決めた竹田監督との出会い
仙台育英で大越の才能を見いだし、磨いた恩人は竹田利秋だ。今は国学院大野球部総監督を務める名将は、同じ宮城県の東北を計17回も甲子園に導いた。
佐々木主浩(元米マリナーズ)らを育てた後の85年秋からは、仙台育英の監督に就任していた。
「先生の教えは今も一言一言が胸に残っている」という竹田との出会い。大越の人生を決めたのは「偶然が結んだ縁」だったという。
=敬称略
選手に任せて伸ばす 早鞆高野球部監督・大越基 (中)
(1/2ページ)2012/5/27 7:00
ダイエー(現ソフトバンク)で11年間、プロの飯を食った大越基(41)にとって、野球人としての基礎を作ってくれた恩師であり、最大の理解者だったのが、
仙台育英(宮城)時代に指導を受けた竹田利秋だ。
恩師の教えに自分流の味付けを加え、生徒と向き合う
2人の出会いは、大越が中学3年のときにさかのぼる。当時暮らしていた青森県八戸市から父とともに仙台へ。その前年まで竹田が監督をしていた
東北(宮城)の練習風景を見学し、新幹線の時間まで余裕があったので、たまたま仙台育英に転戦した。最初は見学の予定さえなかったという。
■“飛び入り”で竹田監督の門下に
竹田はその日をはっきり覚えている。「高校生が投げているブルペン前のネットに顔をくっつけ、食い入るように見ている中学生がいた。
尋常じゃない熱心さに驚いて、ちょっと投げてみなさい、と声をかけた」
いわば飛び入りだったが、「とにかく練習の熱気がすごかった。自分はここで通用するだろうかと、ドキドキしながら自分の球と比べていた」と大越。
両親は寮生活を送ることに反対だったが、帰りの車中で「絶対に仙台育英でやろう」と心に誓ったという。
このめぐり合いが大越を大きく育てた。竹田の指導の基本は「選手が自分で考え、判断して、行動できるようにすること」。たとえば、次の試合に登板するとき、
逆算してどう調整するのか決めるのは、すべて選手の判断とする。「何曜日に何球投げるのか。ここは走り込んで、ここはマッサージなど、全て任せてもらえた」と大越は話す。
選手は試合で、次に何をするかを一瞬で判断し、最適な答えを選ぶ必要がある。ベンチの指示が及ばない場面でならなおさらだ。持てる力を最大限に発揮するため、
練習計画も「選手に任せるところは任せる」が基本方針だった。
竹田は当時をこう振り返る。「選手には『自分で自分を育てなさいよ』と常に言ってきた。もっとやるべきことはいろいろある。それを自分で探しなさいと」
自主性を尊重するかわり、練習態度には厳しく、グラウンド上での竹田は鬼のようだった。少しでも緊張感がゆるむと、すぐに全員集合の号令が飛ぶ。
「自分のせいで皆が怒られるのが嫌で、常に足を止めないようにしていた」と大越。練習で目いっぱい追い込まれるから「上級生にも余裕はなく、下級生に説教も
できないほどだった」。
■強い心こそが成長への原動力
「大越は理解力があるし、ハートも熱く、教えやすい子だった」と竹田は言う。1989年春の甲子園では、上宮(大阪)の元木大介(元巨人)に本塁打を浴びて敗れ、
竹田の「彼には内側を攻めないと」という言葉に発奮。その後、スポンジ入りの防具を着た後輩を打席に立たせてインコースの制球を磨き、夏の準々決勝での再戦では元木を1安
打に抑えて完勝した。
自立した強い心こそが成長への原動力となる。竹田からはそれを学んだ。だから大越は、技術だけを教えることはしない。
工夫を引き出し壁を乗り越える手段に気づかせるために、選手を信じ、任せて、見守る。大越は今、高校時代の恩師の教えに自分なりの味わいを加えて、
生徒と向き合っている。
=敬称略
挫折にこそ宿る可能性 早鞆高野球部監督・大越基(下)
(1/2ページ)2012/5/27 7:00
大越基(41)が早鞆(山口)に保健体育の教諭として赴任したのは2007年春。プロ経験者に必要な2年間の教員経験を経て、09年8月に監督就任した。
守り勝つ野球を目指し、細かい守備や走塁を指導
教員免許取得で同県下関市の東亜大に編入したのが縁で、早鞆の同窓会長らから「もう一度甲子園に」と頼まれた。だが、出場は40年以上前のこと。
グラウンドには雑草が茂り、ネットも至る所で破れていた。
夏に3回出場し、準優勝1回という昔日の面影はなく、悪く言えば「マイナスからの出発」。それでも「何の伝統もないところから、強くなった方が自信になる」と
前向きに捉えた。
■選手との距離、しかり方に工夫
目指したのは守り勝つ野球だ。「高校野球ではミスをした方が負け」が持論。平日は約2時間しか練習できない制約の中で、打撃より優先すべきテーマは状況に
応じた細かい守備や走塁だと感じていた。指導ノウハウには自信があった。
就任当初は選手との距離の取り方、しかり方など試行錯誤を重ねた。1~2年目は「自分が前面に出て、細かく指導してチームをつくろうとした」が、3年目で
スタイルを一変させた。
2人のコーチを表に立て、自らは選手の動きや表情を黙って観察し、雑なプレーが目立つときだけ引き締めた。「怒りすぎると、自分が気になって眠れなくなるから」。
指導法転換の土台には、むやみに萎縮させられることなく、何が必要かを気づかせてもらえた高校時代の体験がある。
ただ、チームの成績は一進一退。昨夏の県大会は好機で思うようにバットが振れず、3回戦敗退に終わった。「良いチームなのに、殻が破れなかった」と大越。
この敗戦後、思い立って選手らを決勝戦が行われる甲子園のスタンドに連れて行った。「一度、本物を見せた方がいい。当てにいくな、と口で100回言っても
できないのだから」。効果はてきめん。「打者はガンガン振るし、投手も堂々と投げる」。みんなの表情が変わった。
挫折にこそ宿る可能性 早鞆高野球部監督・大越基(下)
(2/2ページ)2012/5/27 7:00
足りないものに気づき一皮むけたのだろう。昨秋の県大会では1試合平均約7得点。倉敷商に敗れた中国大会準決勝でも、初回に5点先制されながらしぶとく
3点を返した。この粘りが選抜出場への道を開いた。
■監督業に勝利とは別の喜び
3月26日の智弁学園(奈良)戦。監督としての甲子園初戦は五回に5点を奪われて逆転負けしたが、大越は勝利とは別の喜びを感じていたという。
2安打(1打点)を放ち、六回にはダイビングキャッチの美技も見せた中堅手・中村要の活躍がそれだった。
中村は中国大会準決勝で飛球を落とし(記録は安打)、敗戦の原因をつくった。
大会後、大越はあえて「落球」を責め、仲間の信頼を取り戻すにはどうプレーすべきか考えさせた。自分の甘さと正面から向き合うしんどい作業の先に、
大舞台での輝きがあったのだ。
「真剣味の足りなかった選手だったが、一冬越えて目の色が変わった。失敗を糧に成長してくれた」。挫折にこそ可能性が宿る、が大越イズム。
始まったばかりの監督稼業の喜びは少しずつ増えていく。
=敬称略



人づくり一筋、真善美追う 高校野球・荒井直樹(下)
(1/2ページ)2013/10/12 7:00
神奈川・日大藤沢高3年夏の県大会で2試合続けて無安打無得点試合を達成、甲子園には縁がなかったものの、荒井直樹は1年後輩の山本昌広(現中日)と二枚看板で活躍した。もっとも卒業後に進んだいすゞ自動車では伸び悩み、入社3年で投手失格の烙印(らくいん)を押された。
「いすゞに育てられた」との思いからユニホームのデザインを古巣と同じものに変えた
■投手失格でも野手で開花
野手に転向しても鳴かず飛ばず。そんな折、監督の知人で元東映(現日本ハム)の二宮忠士が臨時コーチでやって来た。打撃で悩む荒井に二宮は言った。
「ワンバウンドとデッドボール以外は全部振れ。地球がひっくり返るくらい振れ」。シンプル思考に後押しされ、やがて「4番・三塁」の地位を獲得。社会人生活は13年間の長きに及んだ。
二宮はこうも言った。「愚痴を言うな」「過去でものを言うな。過去で飯が食えるのは横綱と総理大臣だけ」。人としてのあり方を説かれた荒井も前橋育英の監督として人づくりを重んじ、選手に言う。
「ご飯を食べるまでにはお米を作ってくれる人や研いでくれる人がいる。人にやってもらうことの方が圧倒的に多いのだから、せめて自分ができることは百パーセント、誠意をもってやろう」
荒井の思いを選手はしかと受け止めている。20人がベンチ入りできた群馬大会に対して甲子園大会は18人まで。今夏の同大会を前に3年生の大竹厚汰と田中龍太が選外となり、記録員とボールボーイを任された。
■選外の2選手も必死に練習
大会期間中、チームは毎夜、大阪城公園で素振りなどをしたが、大竹と田中も汗だくで取り組んだという。メンバー外、それも引退間近の2人がなぜ。
「いずれ子どもができて野球を教えるかもしれない。そのときに本気になって汗をかかないと伝わらないものがある。だから、これはすごく大事なことだと思うよ」
荒井が皆の前で話すと、2人は前にも増して必死に練習に励んだ。「そういう姿にまた感動するんですよね」と荒井。
夫唱婦随で野球部を運営してきた。監督に就くにあたり、荒井は妻の寿美世に寮母になるよう依頼。選手を預かるからには「そこからしなければと思った」。
■妻の存在、監督業の支えに
大きなフライパンでの調理で腕を痛めては、テーピングをして多量の食事を作り続けてきた妻の存在は監督業の支えになった。
「いすゞに育てられた」荒井は監督就任の2002年、ユニホームのデザインを同年限りでの活動休止が決まっていた古巣と全く同じものに変えた。「ISUZU MOTORS」にならって考えついた校名表記が「IKUEI MAEBASHI」。これで「IM」のロゴも踏襲できた。
9月23日、いすゞ時代に荒井らが練習帰りに通った神奈川県藤沢市のホルモン焼き店にOBら約40人が集まり、祝勝会が開かれた。ユニホームにいすゞをよみがえらせた荒井に皆が感謝し、今はなき野球部の思い出話に花が咲いた。
前橋育英の校歌にこんな一節がある。「真善美 ひたに追わなん」。穏やかに、真摯に教え子らと固い絆を築いてきた荒井の生きざまを表すかのようだ。
=敬称略
〔日本経済新聞夕刊10月9日掲載〕
(1/2ページ)2013/10/12 7:00
神奈川・日大藤沢高3年夏の県大会で2試合続けて無安打無得点試合を達成、甲子園には縁がなかったものの、荒井直樹は1年後輩の山本昌広(現中日)と二枚看板で活躍した。もっとも卒業後に進んだいすゞ自動車では伸び悩み、入社3年で投手失格の烙印(らくいん)を押された。
「いすゞに育てられた」との思いからユニホームのデザインを古巣と同じものに変えた
■投手失格でも野手で開花
野手に転向しても鳴かず飛ばず。そんな折、監督の知人で元東映(現日本ハム)の二宮忠士が臨時コーチでやって来た。打撃で悩む荒井に二宮は言った。
「ワンバウンドとデッドボール以外は全部振れ。地球がひっくり返るくらい振れ」。シンプル思考に後押しされ、やがて「4番・三塁」の地位を獲得。社会人生活は13年間の長きに及んだ。
二宮はこうも言った。「愚痴を言うな」「過去でものを言うな。過去で飯が食えるのは横綱と総理大臣だけ」。人としてのあり方を説かれた荒井も前橋育英の監督として人づくりを重んじ、選手に言う。
「ご飯を食べるまでにはお米を作ってくれる人や研いでくれる人がいる。人にやってもらうことの方が圧倒的に多いのだから、せめて自分ができることは百パーセント、誠意をもってやろう」
荒井の思いを選手はしかと受け止めている。20人がベンチ入りできた群馬大会に対して甲子園大会は18人まで。今夏の同大会を前に3年生の大竹厚汰と田中龍太が選外となり、記録員とボールボーイを任された。
■選外の2選手も必死に練習
大会期間中、チームは毎夜、大阪城公園で素振りなどをしたが、大竹と田中も汗だくで取り組んだという。メンバー外、それも引退間近の2人がなぜ。
「いずれ子どもができて野球を教えるかもしれない。そのときに本気になって汗をかかないと伝わらないものがある。だから、これはすごく大事なことだと思うよ」
荒井が皆の前で話すと、2人は前にも増して必死に練習に励んだ。「そういう姿にまた感動するんですよね」と荒井。
夫唱婦随で野球部を運営してきた。監督に就くにあたり、荒井は妻の寿美世に寮母になるよう依頼。選手を預かるからには「そこからしなければと思った」。
■妻の存在、監督業の支えに
大きなフライパンでの調理で腕を痛めては、テーピングをして多量の食事を作り続けてきた妻の存在は監督業の支えになった。
「いすゞに育てられた」荒井は監督就任の2002年、ユニホームのデザインを同年限りでの活動休止が決まっていた古巣と全く同じものに変えた。「ISUZU MOTORS」にならって考えついた校名表記が「IKUEI MAEBASHI」。これで「IM」のロゴも踏襲できた。
9月23日、いすゞ時代に荒井らが練習帰りに通った神奈川県藤沢市のホルモン焼き店にOBら約40人が集まり、祝勝会が開かれた。ユニホームにいすゞをよみがえらせた荒井に皆が感謝し、今はなき野球部の思い出話に花が咲いた。
前橋育英の校歌にこんな一節がある。「真善美 ひたに追わなん」。穏やかに、真摯に教え子らと固い絆を築いてきた荒井の生きざまを表すかのようだ。
=敬称略
〔日本経済新聞夕刊10月9日掲載〕

ミス叱らず改善策 高校野球・荒井直樹(中)
(1/2ページ)2013/10/12 7:00日本経済新聞 電子版
前橋育英の選手はミスをしても気落ちした表情を見せない。拙守から相手に出塁を許すと、次の瞬間にはベンチを含めてそこかしこから「よし、ゲッツー取ろう、ゲッツー」の声。真っ先に声を上げるのが監督の荒井直樹だ。ミスが出ても「あちゃーという顔はしない。選手は見ているから」。即座に「ゲッツー」と連呼し、「もう併殺を取ったくらいの雰囲気をつくる」。ミスした選手は落ち込む暇がない。
選手をその気にさせるため、表情に気を配り言葉を選ぶ
■選手を萎縮させない
「1試合で併殺を3つ取る」という目標は単なる堅守の所信表明にとどまらない。「3つ取ったら負けない、と暗示を掛ける」と荒井。選手をその気にさせるために表情に気を配り、言葉を選ぶ。チームには常に前向きの空気が流れる。
荒井はミスをしたことでは選手を叱らない、と心に誓っている。野選をした選手を叱れば、次からは萎縮して「一塁でアウト」の安全策しか取らなくなる。
「選手が監督の顔色をうかがって野球をするのが一番嫌」という荒井はミスが起これば選手と一緒に改善策を探り、選手が自ら前に踏み出すよう仕向ける。
「一生懸命やってもミスをすることはある。それに対して怒るのは、僕はいじめだと思う。プロで何億円ももらっている選手がエラーをするのだから、高校生がエラーをするのは当たり前」
■怠慢は容赦せず、行動促す
誰もが好きで始めたものを、指導者の“圧政”がもとで嫌いになることほど不幸なことはない。幼い子どもが「バットに当たった」「遠くに投げられた」と目を輝かせるように、日々新たな発見に喜び、将来への糧にしてほしい。
そんな荒井の父親目線が選手はうれしい。一塁手の楠裕貴は話す。「すごいと思うのは怒らないところ。ミスをしても罰を与えるのでなく改善方法を教えてくれる」
ミスは結果と割り切る代わりに怠慢は容赦しない。凡飛を打ち上げて全力疾走を怠った者には、自ら観戦した試合の一コマを紹介する。高く上がった飛球を中堅手が見失い、前にぽとり。この間に打者走者は一目散に塁間を駆け、そのまま生還した。
他の多くの球技と違って人間がゴールすることで点が入るのが野球。「だったら、ゆっくり走るのはあり得ないよね」。やるべきことの根拠を示して自発的行動を促す。その積み重ねが進歩を生む。
■指導批判にめげず「選手主体」
神奈川・日大藤沢高、いすゞ自動車の選手、コーチを経て母校の監督を3年間務め、1999年に前橋育英のコーチに。2002年から監督を務める。
今年、前橋育英で念願の夏の甲子園初出場を果たすまでの道は険しかった。群馬大会で敗退するたびに「怒らないから負けるんだ」などと非難されてきたという。
「人格まで否定されるような」批判の嵐にさすがに心が揺らいだが、真に選手を思う気持ちが鬼軍曹への変身を阻んだ。「厳しさが足りないと言われたが、選手が自ら考えてやらなければいけない点でむしろ練習は厳しいと思う」と荒井。
監督の命令に従うだけのロボット野球とは一線を画した、選手主体のシンキングベースボール。一人前に扱われる喜びからか、選手の顔つきは既に青年のたくましさを帯びている。
=敬称略
〔日本経済新聞夕刊10月8日掲載〕
(1/2ページ)2013/10/12 7:00日本経済新聞 電子版
前橋育英の選手はミスをしても気落ちした表情を見せない。拙守から相手に出塁を許すと、次の瞬間にはベンチを含めてそこかしこから「よし、ゲッツー取ろう、ゲッツー」の声。真っ先に声を上げるのが監督の荒井直樹だ。ミスが出ても「あちゃーという顔はしない。選手は見ているから」。即座に「ゲッツー」と連呼し、「もう併殺を取ったくらいの雰囲気をつくる」。ミスした選手は落ち込む暇がない。
選手をその気にさせるため、表情に気を配り言葉を選ぶ
■選手を萎縮させない
「1試合で併殺を3つ取る」という目標は単なる堅守の所信表明にとどまらない。「3つ取ったら負けない、と暗示を掛ける」と荒井。選手をその気にさせるために表情に気を配り、言葉を選ぶ。チームには常に前向きの空気が流れる。
荒井はミスをしたことでは選手を叱らない、と心に誓っている。野選をした選手を叱れば、次からは萎縮して「一塁でアウト」の安全策しか取らなくなる。
「選手が監督の顔色をうかがって野球をするのが一番嫌」という荒井はミスが起これば選手と一緒に改善策を探り、選手が自ら前に踏み出すよう仕向ける。
「一生懸命やってもミスをすることはある。それに対して怒るのは、僕はいじめだと思う。プロで何億円ももらっている選手がエラーをするのだから、高校生がエラーをするのは当たり前」
■怠慢は容赦せず、行動促す
誰もが好きで始めたものを、指導者の“圧政”がもとで嫌いになることほど不幸なことはない。幼い子どもが「バットに当たった」「遠くに投げられた」と目を輝かせるように、日々新たな発見に喜び、将来への糧にしてほしい。
そんな荒井の父親目線が選手はうれしい。一塁手の楠裕貴は話す。「すごいと思うのは怒らないところ。ミスをしても罰を与えるのでなく改善方法を教えてくれる」
ミスは結果と割り切る代わりに怠慢は容赦しない。凡飛を打ち上げて全力疾走を怠った者には、自ら観戦した試合の一コマを紹介する。高く上がった飛球を中堅手が見失い、前にぽとり。この間に打者走者は一目散に塁間を駆け、そのまま生還した。
他の多くの球技と違って人間がゴールすることで点が入るのが野球。「だったら、ゆっくり走るのはあり得ないよね」。やるべきことの根拠を示して自発的行動を促す。その積み重ねが進歩を生む。
■指導批判にめげず「選手主体」
神奈川・日大藤沢高、いすゞ自動車の選手、コーチを経て母校の監督を3年間務め、1999年に前橋育英のコーチに。2002年から監督を務める。
今年、前橋育英で念願の夏の甲子園初出場を果たすまでの道は険しかった。群馬大会で敗退するたびに「怒らないから負けるんだ」などと非難されてきたという。
「人格まで否定されるような」批判の嵐にさすがに心が揺らいだが、真に選手を思う気持ちが鬼軍曹への変身を阻んだ。「厳しさが足りないと言われたが、選手が自ら考えてやらなければいけない点でむしろ練習は厳しいと思う」と荒井。
監督の命令に従うだけのロボット野球とは一線を画した、選手主体のシンキングベースボール。一人前に扱われる喜びからか、選手の顔つきは既に青年のたくましさを帯びている。
=敬称略
〔日本経済新聞夕刊10月8日掲載〕

堅守で「夏」初出場V 高校野球監督・荒井直樹(上)
(1/2ページ)2013/10/12 7:00
1試合平均得点はわずかに3.3ながら、失点と失策はさらに少ない1.2。猛暑で「打高投低」の傾向が顕著な夏の全国高校野球を今年制したのは、堅い防御を誇る群馬・前橋育英だった。イレギュラーバウンドに不規則回転と、チョウのように突如方向を変えるゴロを難なく捕捉するグラブさばきは、虫取り名人の妙技のようだった。
■「寸暇を惜しんで努力」成功への道
「ロボットのような指示待ちの人間はつくりたくない」
画像の拡大
「ロボットのような指示待ちの人間はつくりたくない」
とかく優勝校の強さの理由は「猛練習」に求められるものだが、今回の王者は趣が異なる。
鉄壁の守備の土台になった練習は「2人一組で緩いゴロを転がし合う」「走者を置いてのノック」といった一般的なもので、「千本ノックとか特別なことはしていない」と監督の荒井直樹(49)。
代わりに、練習中のちょっとした動きに非凡さが見て取れる。ノックの順番を待つ間、選手たちは打球を捕って送球するしぐさを繰り返す。それも実際にボールがあって、投げる相手がいるかのように丁寧に。
「シャドーフィールディング」は荒井の考えから生まれた。ミスが起きて監督が改善策を示した際、選手が「はい」の返事で終わるようでは進歩はない、と荒井はみる。順番待ちなど寸暇を惜しんで努力することが成功への一本道、との信念を選手も共有する。
■頭と体フルに使わせ勘を養う
走者を置いてのノックでは荒井はコーチにノッカーを任せ、二塁ベース後方に陣取る。野手のカバーリングなど細部を見るのに絶好のポジションは、選手との会話にももってこい。
走者役で待機する選手に荒井が尋ねる。「次、どこに打球が行くと思う? レフト前? セカンドゴロ?」
空き時間を無為に過ごさせないのは、選手に考える癖をつけさせる狙いもあってのこと。頭と体をフルに使って打球方向の勘を養った選手たちには、もはや試合で守備位置を細かく指示する必要はない。
「監督がああだ、こうだとやると選手はロボットになってしまう。指示待ちの人間はつくりたくない」と荒井。
一見、何の変哲もない練習でも「同じことをやり続けるから変化を感じられると思う」と荒井は話す。
■「シンプルでもしつこく」が信条
飛距離が伸びた、送球が速くなったという成長だけでなく、肩や足の張りといった体の異変に気付けるのも確かな練習メニューがあってこそ。「シンプルでもしつこく」が荒井の信条だ。
「歯は毎日磨かないと気持ち悪い。同じように『これだけはしないと気持ち悪くて夜、寝られない』というものを持とう」と選手に言ってきた。
昨夏の新チーム発足時に拙守から一度は遊撃のポジションを辞退しながら、荒井の説得で再び遊撃に持ち場を得た土谷恵介。守備力を身につける基になった2人一組でのゴロ捕球は甲子園決勝当日まで欠かさず続けた。
日大山形との準決勝の一回1死満塁で痛烈なハーフバウンドを好捕し併殺を完成、荒井に「あれで勝ったようなもの」と言わせた二塁・高橋知也、荒井の次男の三塁・海斗ら皆がおのおのの課題に向き合い、技術を磨いた結果が夏の甲子園初出場で優勝の快挙。強打のチームとは一味違うすごみを思わせる栄冠だった。
=敬称略
〔日本経済新聞夕刊10月7日掲載〕

(1/2ページ)2013/10/12 7:00
1試合平均得点はわずかに3.3ながら、失点と失策はさらに少ない1.2。猛暑で「打高投低」の傾向が顕著な夏の全国高校野球を今年制したのは、堅い防御を誇る群馬・前橋育英だった。イレギュラーバウンドに不規則回転と、チョウのように突如方向を変えるゴロを難なく捕捉するグラブさばきは、虫取り名人の妙技のようだった。
■「寸暇を惜しんで努力」成功への道
「ロボットのような指示待ちの人間はつくりたくない」
画像の拡大
「ロボットのような指示待ちの人間はつくりたくない」
とかく優勝校の強さの理由は「猛練習」に求められるものだが、今回の王者は趣が異なる。
鉄壁の守備の土台になった練習は「2人一組で緩いゴロを転がし合う」「走者を置いてのノック」といった一般的なもので、「千本ノックとか特別なことはしていない」と監督の荒井直樹(49)。
代わりに、練習中のちょっとした動きに非凡さが見て取れる。ノックの順番を待つ間、選手たちは打球を捕って送球するしぐさを繰り返す。それも実際にボールがあって、投げる相手がいるかのように丁寧に。
「シャドーフィールディング」は荒井の考えから生まれた。ミスが起きて監督が改善策を示した際、選手が「はい」の返事で終わるようでは進歩はない、と荒井はみる。順番待ちなど寸暇を惜しんで努力することが成功への一本道、との信念を選手も共有する。
■頭と体フルに使わせ勘を養う
走者を置いてのノックでは荒井はコーチにノッカーを任せ、二塁ベース後方に陣取る。野手のカバーリングなど細部を見るのに絶好のポジションは、選手との会話にももってこい。
走者役で待機する選手に荒井が尋ねる。「次、どこに打球が行くと思う? レフト前? セカンドゴロ?」
空き時間を無為に過ごさせないのは、選手に考える癖をつけさせる狙いもあってのこと。頭と体をフルに使って打球方向の勘を養った選手たちには、もはや試合で守備位置を細かく指示する必要はない。
「監督がああだ、こうだとやると選手はロボットになってしまう。指示待ちの人間はつくりたくない」と荒井。
一見、何の変哲もない練習でも「同じことをやり続けるから変化を感じられると思う」と荒井は話す。
■「シンプルでもしつこく」が信条
飛距離が伸びた、送球が速くなったという成長だけでなく、肩や足の張りといった体の異変に気付けるのも確かな練習メニューがあってこそ。「シンプルでもしつこく」が荒井の信条だ。
「歯は毎日磨かないと気持ち悪い。同じように『これだけはしないと気持ち悪くて夜、寝られない』というものを持とう」と選手に言ってきた。
昨夏の新チーム発足時に拙守から一度は遊撃のポジションを辞退しながら、荒井の説得で再び遊撃に持ち場を得た土谷恵介。守備力を身につける基になった2人一組でのゴロ捕球は甲子園決勝当日まで欠かさず続けた。
日大山形との準決勝の一回1死満塁で痛烈なハーフバウンドを好捕し併殺を完成、荒井に「あれで勝ったようなもの」と言わせた二塁・高橋知也、荒井の次男の三塁・海斗ら皆がおのおのの課題に向き合い、技術を磨いた結果が夏の甲子園初出場で優勝の快挙。強打のチームとは一味違うすごみを思わせる栄冠だった。
=敬称略
〔日本経済新聞夕刊10月7日掲載〕
