東方のあかり

東アジア(日、韓、中+その他)のまとまりを願ってこのタイトルにしました。韓国在住の日本人です。主に韓国発信の内容です。

プルメ財団のペク・ギョンハクさん

2023-01-02 20:48:51 | 韓国物

彼の人生第二幕はとりわけ早く始まった。30代後半に約10年間
やってきた記者生活をやめビール屋を出すと発表した。幼い頃
の夢が記者で、それなりに楽しく働いたが、大きな事件一つが
彼の人生を根こそぎ揺さぶった。
1998年、ドイツ研修の終盤に英国で巻き込まれた交通事故で妻
が重症障害者になった。プルメ財団のペク・ギョンハク常任理事
(59)は、平凡な記者から出発し年間670億ウォン(約70億円)の
予算を扱う非営利団体の経営者に変身した。
東亜日報で「ソ・ヨンアの100歳カフェ」というシリーズから今回は
プルメ財団のペク・ギョンハクさんをご紹介したい。
同年代の引退シーズン、彼の人生第二幕はどのように展開され
ているのだろうか。(記者は)2022年12月9日、ソウル鍾路区
新橋洞(シンギョドン)の財団事務室を訪れた。
事故直後、妻は応急手術で左足を切断したが、炎症のため死線
をさ迷った。最後の手段としてさらに2度の切断手術を受けた後、
意識が戻った。その後も厳しい治療とリハビリが続いた。英国と
ドイツで接した欧州のリハビリ病院は徹底的に患者中心に運営
されていた。
3年半ぶりに帰ってきた韓国はやることなすこと全部違和感があ
った。障害者が治療を受けることも、生活することも大変な国だ
った。何かしなければならなかった。夫婦はいつかは患者が主
人となる小さなリハビリ病院を作ろうと誓い合うようになった。
「当時、家内がリハビリ病院に入院したのですが、病院費として
私の給料がそのまま投入されました。病院に入院したのに、な
ぜ別に介護者を雇わなければならないのか理解できませんで
した。病院では医者に会うのも大変で、患者ではなく医療スタッ
フが主人でしたね。ヨーロッパでは、医療スタッフが24時間患者
を家族のように世話してくれました。手遅れになる前にヨーロッ
パのような病院を作らなければならないと決心しました」
病院を作るにはまず財団が必要であり、財団を作るには「財産」
が必要だった。「財産を用意しよう!」
ちょうど2002年W杯を控えて酒税法が変わり、小規模醸造が
解除されるというニュースが聞こえてきた。ドイツで醸造学を
専攻した後輩を思い出し、W杯の前にドイツ式ハウスビール
を作ろうというアイディアが湧いた。01年末、会社に辞表を出し
翌年7月、ドイツのビール祭りの名を冠した「オクトーバーフェス
ト」1号店を江南にオープンした。
05年、ついにプルメ財団が発足した。8年間にわたる訴訟の末、
妻の交通事故被害補償金を受け取り、妻はこのうち半分の10
億7000万ウォンを財団に出した。ここにペク氏のオクトーバー
フェスト持分10%が加わり財団の「基本財産」になった。
「だから私たち同士は冗談半分でプルメを血とビールで構成さ
れた財団だと言ってるんですよ」(ペクさん)
-ご協力してくださった方も多いと伺いました
「ええ、多くの人に助けてもらいました。まずはプルメ財団が
子供医療事業をできるようにしてくれた方、イ・チョルジェ社
長が一番ありがたいです。何の条件もなく手伝ってくれました。
当時、韓国に障害のある子供たちがリハビリ治療を受けられ
るところがほとんどありませんでした。
イ・チョルジェ社長は米国留学時代、交通事故で下半身が麻痺
しましたがベンチャー創業に成功した事業家でして、先に連絡
をしてきてくれました。金持ちなら現金を寄付してくれたでしょう
が、その方は自分が持っている会社の株式を担保に融資を受
けて10億ウォンを用意してくれました。東亜日報に記事が出て、
それを見て感動したNXC(ネクソンの持株会社)の金ジョンジュ
代表が、より大きな寄付をしてくれました。2016年、ソウル上岩
洞(サンアムドン)にオープンした国内初の子どもリハビリ病院
の建設に200億ウォンを寄付してくれ、呼び水の役割を果たし
てくれました。」
財団は「プルメ財団ネクソン子供リハビリ病院」という病院名で
感謝の意を表した。「寄付は、かろうじて食べていける方々が
実践する」という言葉がある。金持ちは税金減免だから社会的
名誉などを問うが、条件なしに寄付するのはほとんど普通の人
だという。リハビリ病院の建設には市民1万人、200社が心を集
めてくれた。
「不治の病で子供を先に送ったある夫婦は保険会社から受け
取った保険金を寄付し、イ・ヘイン修道女は詩集印税を寄付
してくれました。財団広報大使の歌手ショーンさんは、1年に20
以上のマラソンを走りながら基金を集めてくれました。このよう
に残りの230億ウォンが奇跡のように募金で賄われました。」
しかし、子供リハビリ病院は「構造的赤字」という宿命を抱い
ていた。収益を上げるためには高い検査と手術をたくさんしな
ければならないが、リハビリ病院はそのようなものはない。
有数の大型病院がリハビリ病院を運営していない理由だ。
「うちの病院が安定した運営をしていると言うには無理があり
ます。持続可能でなければならないのにそれが難しいです。
リハビリの基本が理学療法と作業療法ですが、報酬がとても
低いんです。治療するほど赤字が出る仕組みです」
プルメ・リハビリ病院は当初、年間30億ウォン程度の赤字要
因を抱えていた。一部はソウル市と麻浦(マポ)区の支援を
受け、残りは募金などで埋めようと覚悟していた。ところが、
新型コロナ事態で患者が大幅に減り、2020年53億、2021年
51億の赤字を記録した。昨年、病院設立5周年記念式に出
席したキム・ジョンジュ代表に緊急支援を要請し、助けを受
けたりもした。
このように難しい時はいつも善良な人々が現れて力を与え
てくれたが、政府や地方自治体は彼の期待とは全く違った。
「子どもリハビリ病院は必ず必要なところです。公共がすべ
きことを私たちが先頭に立ってすることなので時がくれば支
援してくれると内心信じていました。でもいつまで経っても
助けてくれなかったんですよ」。
「政府は、私たちのリハビリ病院が社会福祉施設用地に建
てられたので、療養病院だとし、子供のリハビリ病院に適
用されるモデル報酬を適用することはできないと言ってい
ます。国内唯一の子供リハビリ病院を、子供リハビリ病院
の立地する土地が医療施設用地ではないという理由で認
めることはできないという論理です。それでは敷地の用途
を変えてほしいと麻浦区に要請しましたが、難しいという
立場です」
公務員の無責任と官僚主義は、21世紀を四半世紀ほど
過ぎようとしている現時点でも依然として色濃く残ってい
るようだ。
-もしあの日の事故がなかったら、今あなた(ペク・ギョン
ハクさん)はどこで何をしていたでしょうか?
「ただの記者生活をしていたと思います。政治部や社会
部より文化部の宗教担当記者を楽しみながらやってい
たと思います」
-今の年齢(59歳)なら、マスコミ界に残っていても、もう
すぐ定年だと思いますが。
「うーん、でも他のことはせず、記者として生きていたは
ずです。あえてお金を作ると言ってビール屋を開こうと
する冒険はしなかったでしょう。その時、その事故によ
って荒波に立ち向かって戦うことになりました。妻がこ
の世の中で生きていかなければならないので、もっと
強くならなければならなかったし、わずか7歳の娘がい
たので死に物狂いで働いていました。どれが最善で、
私が耐えられるか考えました。幸い崖から落ちず、周
りの方がいつも力を貸してくれました。しかし、振り返
ってみると本当に大変な道のりでした。」
苦痛は現在進行形だ。彼の妻は年を取るにつれて「鬼
の痛み」という幻想痛(phantom pain)に苦しむ。切断障
害者に多くの症状で、なくなった足の甲と足首を数百
本の針で周期的に刺すような痛みが来るという。
彼の関心はリハビリから自活へと広がっている。リハビ
リ治療を熱心に受けた子供たちが青年になったら、
一生どのように生きていくのか。彼が農場建設に乗り
出した理由だ。偶然、農業が自閉症や発達障害の青
年に役立つことが分かったからだ。職員たちと一緒に
オランダのスマートファームを見て回り、答えを見つけ
た。
「古い小さな農場を改造し、癌、脳卒中、認知症、精神
障害患者、発達障害の青年を保護する『ケアファーム』
を作りました。病院に横になっているより、自由に農業
をして鶏に餌を与え、自然を呼吸する方が費用も少な
く、幸せだという確信がありました。」
このような農場を作るキャンペーンを始めると、発達障
害の息子(33)を持つ李サンフン、チャン・チュンスン
夫妻が京畿道驪州市五鶴洞(キョンギド・ヨジュシ・オ
ハクドン)の農場敷地3800坪を寄付してくれた。財団
で障害のある青年たちが幸せに働ける農場を作って
ほしいというお願いと共に。
この地に建築費130億ウォンをかけて1200坪のガラ
ス温室とカフェ、食堂、ゲストハウス、プログラム室な
どを建設し、昨年9月にオープン式を行った。
近隣のSKハイニックスで建築費と運営費を支援し、
農場で生産されたトマトとキノコは全て買ってくれる
など、大きく役立っている。
「たびたび農場を訪問した方々が障害青年たちが
一日4時間働き月給100万ウォンずつを受け取ると
すれば『外国人労働者4人を雇用すれば良いのに』
として助言してくれる方がいます。しかし、私たちは
生産性ではなく、これらの若者たちの幸せを望んで
いるのです。追求する価値が違うのです。」
-農場に行くとどんな感じがしますか。
「幸せですね。子供たちが本当に美しいです。最初
は目も合わせなかった子が近づいてきて、先に挨
拶をしたりします。お菓子のようなものを差し出し
ながら、『会いたかったです。愛しています』と。
若者たちは同年代の集団を通じて社会性を学びま
す。仕事と給料が彼らの自尊心を高めてくれます。
あるお母さんがおっしゃったことなんだけど、『お
前、なんでまたこんなものを買ったの?』と言った
ら『わたしが稼いだお金だから私が勝手に使いま
す』という返事を聞いて、うれしくて涙が出てきた
と言ってくださいました。少しずつ自立する息子
が偉いんですよね」。

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