MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2193 論客にMMTの要諦を聞く

2022年06月28日 | 社会・経済

 「財政健全化をしなければ財政破綻する」という常識に、真っ向から反論するのがMMT(現代貨幣)理論というもの。ポスト・ケインズ派の経済理論として注目され、米国を中心に積極財政推進論者の論拠の一つともなっています。

 このMMT理論をベースに、「日本政府はもっと財政赤字を拡大すべき」という(過激とも見える)積極財政論を唱える元経産官僚で経済評論家の中野剛志(なかの・たけし)氏が、6月16日の「東洋経済ONLINE」に「財政健全化論こそが「無責任の極み」である理由」と題する論考を寄せているので、(参考までに)その論理に耳を傾けてみたいと思います。

 朝日新聞は(政府が発表した「骨太の方針」に関し)6月8日の社説に「歳出を増やすべき『重要な政策』があるのは否定しない。ただ、その際はその分の財源を同時に議論すべき。歳出拡大だけを言うのでは『財政運営』の名に値しない」と書いている。つまり、はっきりとは口にしていないが、朝日は(明らかに)「増税」を主張しているわけだというのが、この論考における中野氏の認識です。

 確かに、歳出を増やすならば、その裏付けとなる財源が示されなければ「無責任」と言われても仕方がない。では責任ある財源論とはどのようなものなのか。「財源」とは、言い方を変えれば「貨幣」のこと。それではそもそも「貨幣」とは何なのかと、氏はこの論考で問いかけています。

 その答えは、「貨幣とは負債(借用書)の特殊な一形式である」というもの。これが正しい貨幣理解であり、経済学の世界では「信用貨幣論」と呼ばれているということです。

 信用貨幣論によれば、民間銀行は、貨幣を創造することができるとされている。噛み砕いて言えば、民間銀行は「貸し出し」を行うことによって、「預金(負債)」という貨幣(預金通貨)を生み出していると氏は言います。そして、一般に「信用創造」と言われているのは、この機能を指しているということです。

 民間銀行は、企業や家計から預金を集めて、それを又貸ししているものと信じられている。しかし、それは大きな誤解だと中野氏は言います。

 実際には、民間銀行は、企業等に貸し出しを行うことで、預金という通貨(預金通貨)を生み出している。例えば、銀行Aは、1000万円を借りたいという企業Bに対して貸し出す際、手元の預金から1000万円を企業Bに又貸しするのではない。単に企業Bの口座に1000万円と記録するだけだということです。

 しかし、実はその瞬間に、1000万円という預金、すなわち貨幣が創造されている。そして、企業Bが収益を得て、借りた1000万円を銀行Aに返済すると、1000万円という貨幣はその時点で消滅すると氏は説明しています。

 このようにして、貨幣は、民間銀行の貸し出しによって「創造」され、民間銀行への返済によって消滅する。(くどい様だが)貨幣が「銀行の貸し出し」によって創造されるということは、そもそも、借り手となる企業や家計の「需要」がなければ貸し出しが行われず、貨幣は創造されないということになるというのが氏の強調するところです。

 これは、取りも直さず、貨幣の創造の出発点には企業等の「資金需要」があるということを意味していると氏は話しています。

 まず、企業等の資金需要があって、そこに民間銀行が貸し出しを行うことで貨幣が創造される。その貨幣が民間経済の中で使われて循環し、最終的には、企業等が収入を得て貨幣を獲得し、銀行に債務の返済を行うことで消滅するというサイクルが(世の中では)回っているということです。

 一方、もしも(そこで)不況によって企業等に「資金需要」がなくなれば、銀行による貸し出しは行われないので貨幣は供給されなくなり、経済の中を循環しなくなる。そして、貨幣が循環しなければ経済は成長しなくなり、これこそが過去20年以上も停滞する日本経済の姿であるだというのが氏の見解です。

 ここからわかることは何か。それは、経済は需要ありき、まずは需要から動き出すということだと氏は話しています。

 貨幣は、貸し出しによって創造され、返済によって消滅する。そして、貨幣供給の出発点には、需要がある。この貨幣循環の過程は、政府に対する貸し出しに関しても同じだと、氏はこの論考を続けます。

 まず、政府は需要を創出するべく事業を行い、中央銀行が政府にそのための資金を貸し出す。ここで貨幣が「創造」されると中野氏は言います。

 政府は、創造された貨幣を支出し、民間部門に貨幣を供給する。そして、政府は、課税によって民間企業から貨幣を徴収し、それを中央銀行に返済すると、貨幣は「破壊」され消滅するということです。

 これを整理すると次のようになると氏はしています。

 ① 政府は支出するために、あらかじめ徴税による財源の確保を必要としない。政府の支出が徴税よりも先に来る。政府の支出によって民間部門に貨幣が供給され、それが課税によって徴収されるという順番である。

 ② 政府が債務を負って支出することで、貨幣が「創造」され、民間部門における貨幣が増える。政府が課税し債務を返済することで、貨幣は「破壊」され、民間部門における貨幣は減少する。すなわち、財政赤字の拡大とは貨幣供給の増大であり、財政健全化とは貨幣供給の減少である。

 このように貨幣循環の過程を理解すれば、「財源確保のためには、増税が必要だ」という議論がいかに間違っているかがはっきりするだろうと氏は言います。貨幣は課税を通じて「破壊」される。したがって、増税は「財源の確保」ではなく、その反対に、「財源の破壊」にほかならないというのがこの論考における氏の見解です。

 財源の確保とは、貨幣の確保にほかならない。その貨幣は、政府が債務を負うことで創造され、しかも、政府の債務(自国通貨建て)は企業や家計の債務とは違って返済不能になることはないということです。

 さて、何やら上手く言いくるめられたような気もしますが、こうした議論は(なにも)昨今話題のMMT(現代貨幣理論)に限ったものではなく、例えば「貨幣循環理論(monetary circuit theory)」なども同様の理解のもとに説明づけられていると、中野氏はこの論考の最後に綴っています。

 「責任ある財源論」が必要だというならば、まずは貨幣の本質を理解する必要がある。貨幣とは何かも知らず、MMT(現代貨幣理論)と聞いただけで耳をふさぎ、増税によって財源を破壊しようとする財政健全化論こそが無責任の極みではないかとこの論考を結ぶ中野氏の指摘を、私も興味深く読んだところです

 



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