MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2360 「回転ずしテロ」の受け止め方

2023年02月10日 | 社会・経済

 今年に入って、回転ずしチェーン店の商品や醤油さしなどの備品にいたずらをする動画がSNSで相次いで拡散・炎上し、店側が厳しい対応を求めている事件。「回転ずしテロ」「ペロペロテロ」などとメディアに大きく取り上げられ、消費者の反響も大きいようです。

 世論の厳しい批判を浴び謝罪を申し出た投稿者もいたとされていますが、事態を重く見た回転ずし店側は受け入れを拒否。刑事・民事での責任追及を表明していると伝えられています。

 これまでも、飲食店やコンビニなどの従業員によるイタズラ動画の投稿が「バイトテロ」などと呼ばれ問題視されていましたが、今回はお客さんによるものなので対応はさらに難しそうです。実際、消費者に敬遠された店側の損害は大きいとされ、賠償金も高額になる可能性が指摘されています。

 まあ、ワサビが足されたり、唾をつけられたりした寿司を食べたからといって健康被害があるとも思えませんが、食べさせられた方から言えば「気持ち悪い」のはもちろんのこと。万が一毒物などを入れられ、まさに無差別テロとなる可能性なども考えれば、店側としては商品管理の仕方を見直す必要もあるでしょう。

 とはいえ、このような質の悪い悪ふざけは、実はずいぶん昔からあったのかもしれないと思わないでもありません。発覚したのは、あくまで悪童たちがこれ見よがしにSNSに動画を投稿したからで、黙ってやっていれば(きっと)誰にもわからなかったことでしょう。

 実際、普段は真面目そうに見えるOLさんが、オフィスで気に入らない上司に雑巾を絞った水でお茶を入れているとか、夫の歯ブラシを流しのぬめり取りに使っているなどという笑い話はよく聞くところ。回転ずしを食べに来た幸せそうな家族などを見て、いやがらせに醤油さしを舐める悪ガキがいても不思議ではありません。

 そもそも、リスク管理は企業の責任のはず。レーンから直接皿を取る人はほとんどいないのに、なぜ(ああして)寿司を回し続ける必要があるのか。コストダウンのためとはいえ、食器などをお客任せにしておいてよいのかなど、(被害者面をしているばかりでなく)事業者としてこうした機会に営業の仕方を見直してはどうかとも思います。

 そんなことを感じていた折、2月2日のニュースサイト「Newsweek Japan」にライターの西谷 格氏が『強盗殺人よりも「回転寿司テロ」が気になってしまう私たち』と題する興味深い論考記事を寄せていたので、参考までのその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 「回転寿司テロ」が話題になっている。動画から受ける不快感は相当なもので、当然、ツイッターをはじめネット空間では怒りの声が殺到し、昼のワイドショーでは司会者が「許せませんね!」と声を荒げたと西谷氏は記事に綴っています。

 こういうフザけた連中を甘やかすと、同じことが繰り返されるかもしれないと誰もが考える。だからこそ、抑止力になるぐらいガツンと重い"ペナルティー"を与えて相応の責任を取らせるべきだという意見が大勢だというのが(現状に対する)氏の認識です。

 もちろん、ご意見は正論でおっしゃる通り。飲食店の湯呑みをいたずら半分にペロペロ舐めてはいけない。不衛生であり、迷惑であり、非常に不快である。異論を挟む余地などないと氏は言います。

 けれど、そうはいっても「ただ湯呑みを舐めただけだ」と言われれば、それまでのことかもしれない。不快であり、外食産業への信頼を揺らがせた暴挙であるが、仮に衛生医学の専門家にでも見解を問えば「直ちに健康被害が生じることは考えにくい」という答えが返ってくるだろうと氏はしています。

 日本人のモラル低下を叫ぶ人もいるが、そんなはずはない。あらゆる点において雑でマナーが悪かった昭和時代は、おそらく湯呑みペロペロよりもっと酷い行為がイタズラと称して横行していたはずで、ただ「バレなかった」というだけではないかというのが氏の認識です。

 つまり、この世界の湯呑みは何十年も前から各時代の無法な若者によって、ペロペロされ続けてきたということ。人々がスマホを持ち歩く現代に至って、さまざまな迷惑行為が可視化されるようになった「だけ」ではないかということです。

 ところで、こうした動画を見つけた私たちは、「ひどいわねぇ」と顔をしかめながらも、実は彼らの起こした騒動を心のどこかで面白がっているのかもしれないと氏は話しています。

 スクリーンの向こうで繰り広げられた数秒間の狼藉にあっと驚かされ、直ちに強い敵意を催した私たち。「敵意は寒気と選ぶ所はない。適度に感ずる時は爽快であり、且又健康を保つ上には何びとにも絶対に必要である」という言葉(芥川龍之介、『侏儒の言葉』)が示すように、湯呑みペロペロくらいの程よい敵意は、実に爽快で心地よいもだというのが氏の感覚です。

 さて、世の中にはもっと(ずっと)憎むべき悪が、無数にある。理不尽な犯罪、税金をくすねる小役人、凄惨な児童虐待、地位を利用した性加害などなど、新聞を開けば卑劣非道なニュースがいくらでもあるのに、私たちの関心はなかなかそちらには向かわないと氏は言います。

 なぜかと言えば、自分に直接関係ない出来事には(単純に)興味がわかないから。私たちは、強盗殺人よりも回転寿司テロのほうが気になり、相手を憎んでしまう小市民的な存在に過ぎないことに(もっと)自覚的であるべきだというのが、この論考において氏の指摘するところです。

 スマホは、これまで知ることができなかった些細な情報まで、まさに手元に届けてくれる便利なツルーと言える。しかし、われわれが知るべきことばかりでなく、場合によっては知りたくないことまで、(選択なく)何でも向こうから知らせて来るツールでもあると氏はこの論考の最後に記しています。

 だったらこちらも、いちいち目くじらを立てていては身が持たない。(仕方のない奴らだと)許してやろうではないか。忘れているだけで(きっと)今の中高年や高齢者たちも、若い時分には似たような逸脱を繰り返してきたのだから…とこの論考を結ぶ西谷氏の指摘を、私も(そういう考え方もあるのだなぁと)興味深く読んだところです。



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