精神科医で評論家の名越康文氏が、7月25日のThe Huffington Post Japan に「羊の群れに1匹のヤギを混ぜるとどうなるか?」と題する興味深い論評を寄せています。
羊は、オーストラリアやニュージーランド、さらには中西部アジアなどを中心に、世界各地で飼育されている大変ポピュラーな動物です。その家畜化の歴史は古く、紀元前7000-6000年ごろの古代メソポタミアの遺跡からも(羊が)家畜として飼育されていた形跡が見つかるということです。
現在、日本国内で飼育されている羊は(北海道を中心に)1万5000頭ほどですが、世界では10億を超える羊が放牧の形で飼育されており、私たちが日常の衣類として利用しているウールを供給してくれています。
一般に、羊は非常に臆病な動物で群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受けるとされています。また、先導者に従う傾向が極めて強く、最初に動いた羊の後を追って理由もなく集団で動いていくため、そうした習性を利用して人間は彼らを「群れ」として管理してきたという歴史があるようです。
特に、群れた羊は(普段とは違った)危険などを感じ1頭がパニックになると他の羊もパニックになり一斉に逃げ出す習性が強いことから、訓練された牧羊犬などもってしても、どこに行くかわからない彼らの群れを従えるのは時に難しいことがあるとされています。
一方、家畜としての山羊(ヤギ)の歴史はさらに古く、新石器時代の紀元前7千年ごろに遡るとされています。その頃の西アジアの遺跡からは既に多くの遺骨が出土しており、家畜利用が始まったのはそうした(有史以前の)時代と考えられています。
山羊は大きな群れで商業的に飼育されるケースが少ないことから飼育頭数ははっきりしません。例えば中国やインドでそれぞれ約1億3千万頭、パキスタンやバングラデシュでは約5千万頭など開発途上国を中心に飼育され、その数は羊よりもかなり少ないのが現状のようです。
私が子供の頃は、国内でも地方に行くと納屋などで2~3頭の山羊を飼っている農家はごく普通にありましたが、現在はそれもかなり少なくなっている様子です。統計を見る限り、全国の約3900戸の農家により合計で1万9千頭程度の山羊が飼育されているとされ、その多くが乳用目的でチーズなどの加工品に回っているようです。
(イネ科の草しか食べない羊に比べ)ヤギは粗食や乾燥によく耐え、険しい地形も苦としない強靭な性質から、山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって貴重な家畜となっています。アフリカや中央アジアなどを旅行すると、山羊の群れを追いながら生活している家族などの姿をしばしば見かけるのもそのためです。
山羊は、性格が温順な一方である一方、本来(砂漠や山岳地帯などの)厳しい環境で育った種であるがゆえに好奇心や自立心が強く、物おじせずにどんどん先に進む性格とされています。
山羊も基本群れで行動しますがその規模は羊ほど大きくなく、危険に出会ったとしてもただ逃げ回るだけでなく、群れのリーダーとなるオスが角を傾けて敵に対峙したりすることもあるようです。
さてそこで、問題の「羊の群れに1匹の山羊を混ぜるとどうなるか?」というお話です。
結論を先に言ってしまえば、羊の群れに山羊を1匹混ぜると、その山羊がリーダーの役割を果たして羊がついていくので、結果として群れが散り散りにならないということです。
山羊が冷静に「あっちへ行こう」「こちらに逃げよう」と判断し、羊たちはそれについていく。名越氏によれば、古来、羊飼いたちはこうした性質を利用して羊の群れに山羊を一頭入れておき、棒や牧羊犬を使ってその山羊をコントロールすることで羊の群れをコントロールしてきたということです。
前述のように、羊は群居性が強く集団で行動する動物です。羊は歩くときに蹄の間にある趾間腺から分泌物を土の上に残し、その匂いを他の個体が追う性質があるということです。
一方、ヤギは性質は活発ですが、人に慣れやすく扱いやすい動物だとされています。この二種の性質を巧みに利用して、動く山羊を追って何頭かの羊が動き、その後を何百頭という他のヒツジがぞろぞろと追いかける構図となるわけです。
そこで、です。(話は急に比喩的なものになりますが)この論評で名越氏は、「群れ」の中で生きる私たち現代人も、本質的には羊と同じ状態に置かれているのではないかと指摘しています。
誰かについていけば良いからそれほど勇気は必要ないが、群れの中はぎゅうぎゅうで息苦しい。足が痛いのは周りの人に踏まれているかもしれないけれど、「でも人生こんなもんだ」と諦めて自分を慰めながら生きている。
しかし、一方ではそうした中で、他の羊を見下してお尻でボンッと押しのけたり、「あいつよりは自分のほうがマシ」と思ったりしながら(それぞれ)ストレスを発散している姿がある。
そう考えれば、結局、他人と比較し誰かを見下すことは、典型的な「群れ」の思考に過ぎないのではないかと名越氏はこの論評で説明しています。他人と自分を比べていないと、自分という存在を確認できない。現代社会に生きる私たちの多くが、そういう「関係性」の中に取り込まれてしまっているということです。
誰かを見下す人は、ただ脅えている(群れの中の)羊の様なものだと名越氏はこの論評で断じています。
誰かを見下すのは「羊」だけで、自分で思考して判断して生きる「山羊」は誰のことも見下したりはしない。集団の中で臆病になっている人を馬鹿にしたり攻撃したりする人は、実は自分の中の認めたくない自分、弱い自分をそこに発見しているからではないかというのが、この論評における名越氏の見解です。
氏は、平和そうに見える羊の群れこそが、実は最もストレスが高く、怒りが大きく、誰かを見下す危険な集団ではないかと指摘しています。
これまでの日本社会では、自分を圧し殺して「群れ」に馴染むことが(大人の)社会人になることであり、自立することだと教えられてきた。しかし、本来、人間はもっと広大な領域を持っていて、自分の目で見て、自分の頭で考えたものによって立つこともできると名越氏は言います。
逆説的な言いぶりですが、なので、誰しもがそのことを自覚しない限り、「羊」が量産され続ける未成熟な社会が(これから先も)続いていくということです。
もしかすると今の日本社会は、崖に向かって突進している羊の集団かもしれないというのが、現在の日本の(大きな流れに追従する)社会状況に関する名越氏の見解です。
そうならないためにも、それぞれが「ひとりぼっち」の時間を大切にして、主体的に人生を選択していく必要がある。
集団で路頭に迷い、それと気づかぬまま危険に向かって群れとして突き進む前に、一人の人間として立ち止まって考える(山羊の)勇気が今、求められているとするこの論評における名越氏の視点を、私も改めて重く受け止めたところです。