
元大和総研チーフエコノミストの原田泰氏の著書「なぜ日本経済はうまくいかないのか」(新潮選書)では、日本経済がうまく回っていかないのは、間違ったことを一生懸命やっているからだと喝破しています。
政治家も官僚も識者も、自分に都合のいいようにしか考えない。だから余計な理屈を言わずに、(いっそこの際)国はつまらぬ資金配分や行政はやめて単純にカネをバラまくべきだと原田氏はしています。
景気対策をするなら公共投資をやるよりも給付金を配った方がよい。公共事業はお金がかかるばかりで、鉄とかコンクリートにしか残らない。それであれば、地方にも企業にも個人にもカネを渡し(減税でもいいし)、それぞれの裁量で使うようにせよ。そうすれば消費も農業も教育も育児もうまく回り出すという主張です。
原田氏の指摘を「乱暴」と括るのは簡単ですが、それにしても、政治家も経済界も、巷で働く人たちだって(それなりに考えて)いろいろ結構頑張っているのに、先進各国から落ちこぼれた日本がなかなか上手く立ち直っていかないのは一体何故なのでしょうか。
少し前の記事になりますが、昨年4月28日の朝日新聞のコラム「論壇時評」に、慶応義塾大学教授で歴史社会学者の小熊英二氏が『「うさぎ跳び」から卒業を』と題する興味深い論評を寄せていました。
かつて、日本のスポーツ界には「うさぎ跳び」というトレーニング方法がありました。現在、これがほとんど行われていないのは、効果が薄いうえ、関節や筋肉を傷める可能性が高いからだということです。
しかし日本では、今でもそれに類する見当違いの努力が随所で行われていて、社会の活力を大きく損なっていると、小熊氏はこの論評で指摘しています。
たとえば教育の分野では、教員(中学校)の労働時間がOECD諸国で最も長いにもかかわらず授業時間は決して長くない。教員が時間をとられているのは部活動や行事、そして事務作業であって、そのために長時間働いても教育効果が上がっていないと氏は説明します。
一方、社会保障に目を向ければ、現役時に所得が高かった高齢者など恵まれている層への年金や控除が手厚く、逆に恵まれない層への配分は薄いのが当然視されている。これでは、巨費を投じてもその効果は限られると氏は言います。
教育程度の低下や格差拡大は、国の人的資源を劣化させポテンシャルを押し下げる。まさに「うさぎ跳び」に類する、見当違いの努力を人々は続けているという指摘です
氏によれば、国際経営開発研究所(IMD)の「世界競争力ランキング」では、1992年に1位だった日本は、2015年には27位にまで落ち込んでいるということです。「生産性と効率性」に至っては2014年から2015年のたった1年間で24位から43位にまで落ちており、日本の労働生産性が欧米に比べて顕著に低いことは誰の目から見ても明らかだということです。
日本のサービス業の生産性は製造業で欧米の約7割、サービス業で約半分、飲食・宿泊では4分の1と言われています。もちろん、「おもてなし」の国である日本のサービス業が怠けているわけではなく、努力が見当違いになっている事例が多いのだと氏はこうした状況を説明しています。
例えば、日本では多くの小売業が、営業時間を延長して売上を伸ばそうとしてきました。しかし、(よく考えれば)営業時間を延長することで近隣店舗から売上を奪うことはできても、国全体の消費額が伸びなければ食い合いになるだけで差し引きはゼロ。消費額は所得額や消費性向で決まるもので営業時間をむやみに長くしても「生産性」は下がるばかりだという指摘です。
国際的な順位を下げているのは経済指標だけではないと、小熊氏はさらに続けます。
英誌「エコノミスト」の民主主義指標で日本は23位となり、「完全な民主主義」のクラスから「欠点のある民主主義」へと格下げになったということです。
その原因は、「政治参加」と「政治文化」が低いこと。具体的には、報道の自由、女性議員の比率、マイノリティーの尊重、投票以外の政治参加などが低いことが挙げられているようです。
この論評で小熊氏は、経済指標の低下と民主主義指標の低下は無関係ではないと説明しています。
一昔前ならば、国民が黙々と働いていれば経済は伸びたかもしれません。しかし現代は知的産業や高付加価値化がものを言う時代。自分の頭で考え、自発的に行動できる人的資源が求められ、人権意識や政治参加が低いままではそうした人材は育たないという指摘です。
現代社会では、国全体の意識が、「文句をいわず黙々と働く」から、「自発的に考えて行動する」に変わらないと、競争力は強くならないと小熊氏は強調します。しかし、古い意識を変えられない経営者や管理職には、見当違いの努力を強要する人がいる。そこから、不合理な「うさぎ跳び」が横行するということです。
氏によれば、それは特に「生産性が低い」とされているサービス業に多く見られる状況だということです。
いわゆる「ブラック・バイト」と呼ばれる、アルバイト学生が過剰な責任感や長時間労働を要求され学業に支障が出たり心身を壊したりするケースの多発や、最近の「電通問題」にみられるような、目先の労働で高等教育を受けている人材を使い潰すといった労働強要の横行は、人的資源の浪費以外の何物でもないと小熊氏は述べています。
さらに、氏は、そうした状況に敏感であるべき報道機関においてさえも「うさぎ跳び」が横行している。報道機関にも、過剰に上司や政権に配慮し自己規制する傾向が見られると厳しく指摘しています。
氏によれば、大手テレビ局では、街頭録音で政権と同じ考えを話してくれる人を何時間でもかけて探し放送している。それがいつのまにか普通になり、気がつけば自由な発想がなくなってきているということです。
こんな状態で生産性が上昇し、競争力が強くなるわけがないというのが、こうした問題に対する小熊氏の認識です。
1970年代に人気のあった「巨人の星」というスポ根マンガでは、主人公星飛雄馬の父親星一徹が、時には「ちゃぶ台」をひっくり返したりしながら、小学生の息子に「うさぎ跳び」を強いたり「大リーグボール養成ギブス」をはめたまま学校に生かせたりしていました。
しかし、本当にそんなことをしたら子供の身体を壊すばかりか、現在の社会環境の下では「児童虐待」として警察や児童相談所が黙っていないでしょう。
輝ける「巨人の星」になるためと言っても、うさぎ跳びで効果が上がるわけではなく理不尽な強要の言い訳にもなりません。小熊氏によれば、事態の改善には発想の転換が重要で、不当な忍耐を強いられたら時には厳しく抗議することも大切だということです。
「うさぎ跳び」の強要に対しては、科学的なエビデンスがないことをしっかり指摘しなくてはなりません。何が不当労働行為なのかの知識もないまま、耐えて「泣き寝入り」していないか。無知が原因で自己規制を迫られていないか。
無駄な根性論や前例踏襲的な労働慣行に対応できるのは、人間を基本に置いた科学的な合理性であることは間違いありません。
知識に支えられた権利意識は、自由主義社会の発展の基礎となる。日本の停滞の一因は、人的資源、つまり「人間」を尊重しなかったところにある。そして、「うさぎ跳び」から卒業する時が(いよいよ)やってきていると結ぶ小熊氏の論評を、私も興味深く読んだところです。
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