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おしゃべりと『五色の虹』と

2020-10-14 | 2022夏まで ~本~
先日は、久しぶりに、職場で余裕があり、
本好きの同僚とおしゃべりしました。

「最近、大沢真幸を読んでいます。つい政治とは、って考えちゃって・・・
由々さんは?」
「・・・満州建国大学に行っていました」

・・・顔を見合わせて爆笑しちゃいました。

アタクシ、予科練を描いた、先週の朝ドラ「エール」から
そのまま、満州へ、気持ちが飛んでいたのです。

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生達の戦後』(集英社)の
影響でした。

同僚とは長い付合いで、お互いの読書傾向もよくわかっています。
だから、同僚にしてみれば「由々さん、またですねw」なのでしょう。
アタクシが、本に、どっぷり浸ってしまうことも、よくご存知なのです。



「建国大学」は、1937年、既に日中戦争が始まっていた満州で開学した、
「国策大学」です。

当時の満州では、ひとにぎりの日本人が実権を持ちながらも、
「五族協和」をスローガンに謳っていました。

五族協和、つまり、満州の地に暮らす、満、漢、朝鮮、蒙古と日本民族が、
手を携えて、新しい国・満州国を造っていきましょう・・・というもの。

建国大学は、その「実験の場」であり、
成果を世界へアピールする狙いがあったのです。

実際、学生は五族から選抜され、学費は免除、さらに月々の手当まであり、
全寮制の学内では、言論の自由が保障されていました。
そんな夢のような生活は、戦局の悪化に伴い、頓挫していくのですが・・・



「五族協和」といえば、思い出すのは、
劇団四季のミュージカル「李香蘭」。

昭和の初期、満州で撮られた国策映画のスターだった、李香蘭は、
実は日本人・山口淑子でした。
敗戦後、李香蘭は、国家・反逆罪で裁判にかけられて・・・というお話。

あの頃、四季の会員だったこともあり、足繁く通っていました。
四季のオリジナルミュージカルの中では、「ユタと不思議な仲間たち」と、
甲乙を付けがたいくらい、好きでした。
 
「李香蘭」を初めて観たときには、「五族協和」を歌い上げる
「マンチュリアン・ドリーム」の歌に、うっとりしました。

でも、すぐさま、それが「満州」では、余計なお世話にすぎないと、
歌い上げられ、我に返りますが・・・。

そんなふうに、李香蘭のことを考えながら読んでいたら、
故・山口淑子氏が、本文にも登場していらして、びっくりでした。
著者と山口淑子氏は、交流があったのだとか・・・



「建国大学」では、実際、「五族協和」を本当にめざして
入学してきた、日本の若者もいたそうです。
でも、他の民族と議論を交わすうちに、それぞれの立場を理解する・・・

それだからこそ、今も、同窓生は、国境を越え、
強いネットワークを持っているのでしょう。

『五色の虹』では、今も強い絆をもつ、そのネットワークから
朝日新聞の記者である著者が、
中国、モンゴル、台湾、韓国在住の同窓生にインタビューを重ねていきます。

同窓生は、戦後、それぞれに苦難の道を歩みました。
もともと、彼らは、篤い志を持ち、語学に秀でた、優秀な青年です。
しかし、その能力を発揮できた者は、ごくわずかで・・・

とりわけ、激動の中国現代史の中に放り込まれた同窓生は、
もっとも苦労し、辛酸をなめました。

逆に、わずかながら、韓国のように、建国大学出身であることが
優遇される国もありました。

首相(国務総理)まで務めた姜英勲(カン・ヨンフン)は、
同窓生の中では能力を発揮できた筆頭かも知れません。


同窓生のインタビューが、苦しい内容なのは予想通りながら・・・
現在の彼らを写した写真は、皆さん、どなたも良いお顔でした。
そのことに、ほっとさせられています。



さて・・・先の同僚とのおしゃべりに戻りましょう・・・

同僚の知人の高校生が、最近、名門私大の文学部に合格したそうです。
「近代文学を勉強したいんですって。今の時代に、文学を学びたいっていう
その志は、とても貴重だと思うんですよ。応援したいなと思います」と同僚。

『五色の虹』のインタビューに、神戸の大学教授だった、
同窓生が登場します。

「企業で直接役に立つようなことは、給料をもらいながらやれ。大学で学費を払って勉強するのは、すぐには役に立たないかも知れないが、いつか必ず
我が身を支えてくれる教養だ」(101頁)と、学生に言い続けたとか。

彼の言う教養、すなわち、「歌や詩や哲学というもの」は、
人生に絶望したとき、道を示してくれる・・・

ただ、難点は、それを身につけるのに時間がかかることだ・・・
わたしは、それを身につけられる大学を愛していたし、人生の一時期を大学で過ごせることが、いかに貴重かを学生に伝えたかった、とも語りました。



逆のことを言う同窓生もいます。

台湾出身の彼は、戦後、商売を興し、一大企業の会長にまでなりました。
その利益は、ほとんど、子どもの教育に当て、さらに理系で学ぶことを
強制したそうです。

今、子どもや孫は、海外の研究機関で活躍しているとか。

「音楽や絵画は美しく、人を悲しみから救ってくれる」けれど、
「所詮『幻想』にすぎない」としたうえで言います。

「たとえ予期せぬことが起こったとしても、揺らぎに惑わされることなく、
生き抜いていくだけの術を子ども達には身につけさせておかなければ
ならない。私の経験からそう信じています」と。(245頁)

その理由は、満州で学んだからだけではなく、
「今後も、この台湾という島国で暮らしていかなければならない」
からだと言うのです。

現在も不安定な立場にいる台湾・・・そこで生きる同窓生と、
日本に生きてきた同窓生・・・その人生が反映された見方なのでしょう。



春から大学で文学を学ぶ高校生・・・
それは日本という国に生まれた故の幸せであるのかもしれません。
ましてや、このコロナ禍で・・・

そんなことを考えた、ひとときでした。


◆『五色の虹』大連でのインタビューは旧ヤマトホテルでした。
本日の画像は、2012年に大連の旅で訪れた、旧ヤマトホテルで撮影しました。
書影は版元ドットコムより使わせていただいております。

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