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ニーバーのHOPE

どこまでが自己責任なのだろうという問いや

地球は間に合うんだっけ?みたいな問いと共にある日々の中で

0か100かみたいな思考に支配されていく。

全力で生きるか、もう諦めて楽になるか。

絶望の中でどんな願いなら夢見るに値するのだろうか

そんなことを思う日々。

ある人が、
「人のせいとか、環境のせいにせず、自分の可能性を信じろ」という
感じのことをつぶやいていた。

好きではありつつ、でもこれ、勝者の論理なのだよなとも思う。

ガザで空爆にあっている人は、環境のせいにしてはいけないのだろうか
生まれた国が絶望的な状況であるとき、
世界を恨んではいけないのだろうか。

ニーバーの祈りというものがある。

変えられるものを変える勇気と、
変えられないものを受け入れる冷静さと
その2つを分かつ智慧を与えください

という祈り。

では、世界を妄想的に、いつか光の世界がくると信じて、
経済成長を延々と信じることは、可能性を信じていることなのだろうか。
それともそれによる被害や悪影響に関しての無関心を肯定するためのものだろうか。


人間の知能の可能性を信じて、火星にだっていけると
宇宙で暮らせると信じることはできるのに

なぜ、人間の心の発達を信じて、環境負荷を減らして
今ある世界で
みんなが幸せに暮らせる世界を想像することは、信じれないのだろう。

何が空想の希望で、

何がニーバーの祈りに基づいた みんなでみる希望たり得るのだろうか。

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