「芦別・赤平・夕張 どれもが有名な炭鉱都市でした」
カムイラビットは、昭和37年に道立の池田高校の教員になりました。
翌年、夕張北高校で地理の研究大会が開かれ、同教科の大会とあって研修に出させて戴きました。
当時、夕張は炭鉱も下火を迎えていましたが、それでも7万数千人が住んでいて、道東の1万5千人ほどの池田の町とは違い、街も飲み屋街もまだまだ活気がありました。
あの活気があった夕張市は今1万人たらずの人口になったとは驚きです。
私は、ずいぶんたってから赤平高校に勤めたことがありますが、当時石炭の時代の終わりで住友赤平炭鉱が閉山する時代でした。
赤平駅の裏手近くに、今でも当時の立坑やずり山を見ることが出来、炭鉱町であったのだなあと回想させられます。当時は石炭もまだまだ掘り出しており、高校の間口も一学年7クラスありました。赤平市も活気があった当時は、6万人以上の人口がありました。
赤平の石炭の鉱区は隣の町の歌志内市につながっていて、歌志内も結構な市として成長していました。
その後石炭の需要が減り、赤平も歌志内も市の勢いは極端に落ち、街はすたれる一方でした。赤平にあった赤平高校も、歌志内にあった歌志内高校も人口減少により生徒が集まらず、閉校に追いやられました。
赤平は隣の町の芦別市や滝川市にも近く生徒は両市の高校に吸収されてしまったのでした。
赤平に住んでいましたので、近くの炭鉱の市にも関心がありました。
昨日、カメラマンのFさんとお会いし話していましたら、なんと芦別(市)出身とのことで、話が盛り上がりました。彼の当時小学校へ通っていた時は一学年、14クラスはあってマンモス小学校であったと回想していました。石炭時代には芦別(市)も人口7万5千人は超していました。
〇 今、北海道の「炭鉱遺跡群」を「日本遺産」に登録しようという運動がされております。登録されると良いなあと思っています。