みやびのまなび

インディゴの子をさずかり、幸せなご縁に恵まれ、真実を学ばせていただいている。
みやびと子供の成長のきろく。

みやびの子育て ②

2007-10-18 01:48:58 | みやびの子育て
今日、「マラソン」という韓国の映画を見ました。
ずっと気になっていたのですが、最近知人にすすめられ、先ほどみました。
終始泣き続けました。
子どもが自閉症と診断されるまでと、それを言われた時の母親の精神状態と行動、ある出来事が主人公の心の傷となって大人になっていたこと。
最後はお母さんと主人公ともに成長してお互いが自立へとすすむことができるようにむかいます。
私にも似た感情や行動があったので、涙がとまりませんでした。
疲れきっていた主人公の母親は、動物園で多動の状態の子ども(主人公)の手を離しました。
主人公はこのことにより迷子になりました。その日からお母さんに手を離されないように一生懸命に生きていました。
自閉症の子の記憶力はすごい高いです。
映画では、幼い頃、主人公は簡単な質問をされますが答えられません。その答えられなかった頃の自分を正確に記憶していて、その答えがわかるような条件になった時、答えられなかった場面を思い出し、主人公は答えます。
何年もの時間が経っているのに、その瞬間のように時間が戻るのだと、私達の時間の感覚と違うのだと知り、その純粋な想いがとても心に響きました。
自閉症の子どもの場合、感情の表出がうまくありません。
でも、私はこの子達は強いと思います。
少々のいじめはこの子達は気にしていないと思います。
いじめられたことを嫌だとか、物を隠されて不便だと感じるとは思います。
でも、私達ほど世間体を気にしないので、別にそれほど嫌だと思っていないと思います。
いじめられることが辛いこと、悲しいこと、不安なこと、大変なことだと、
母親がそうゆうふうに感情を教えてしまえばそうなると思います。
ニキ リンコさんの書籍で「自分がいじめられる役だと思っていた。」と書いてありました。
また、私が抱っこ法へ行った最後の日、となりで阿部先生が抱っこをしていて、
「もしいじめられたとしても、1番のママが聞いてあげれば子供は大丈夫。」
と聞こえてきました。
いじめなど、インディゴの子供は大変なのは事実です。
お母さんが全てを聞こうとするのではなく、変化に気がつき、抱きしめることが一番ではないでしょうか。
私は、小学校1,2年の時は友達がいませんでした。
母は心配して担任の先生に相談したことがあったそうです。
でも、私は友達がいないことより、学級委員になれるほどのしっかりした友人関係もきづけないこと、親の期待にこたえられないことに両親に気がつかれたくないと思っていたように感じます。中学1年の時は、先輩に目をつけられ、靴を隠されました。隠した先輩はわかっていました。でも、靴を隠された事実を世間に知られるほうが私は嫌だったのです。靴を隠されるような人間なんだと思われたくなかったのです。
私は小学校3年のクラス替えから性格を変えました。まわりの顔色をみて、空気をいち早く読むようにしました。人に合わせるようになりました。
おかげでどんな人でも付き合えるようになりました。
でも、本当に大切な自分の気持をフタするような毎日になりました。中学校のころには、胃炎になり点滴をうちに行くようなことも増えました。
主人は中学校の現場で感じるようです。
親にこうゆう場合はこうするのと教え込まれてきた子どもは、自己が確立されてきた時、自分はなんだったのかと辛くなり、不登校などの問題を起こしやすいように感じるといっていました。
今日届いた通信教材のダイレクトメールの母親向け雑誌に「みんなができて、○○だけできなかったら、かわいそうじゃない」とお母さんがいっているシーンがありました。
私も寛希が自閉とわかる前は、似たようなことを会社で言っていました。
「幼稚園の時にスイミングへ通って、あらかじめ25M泳げるようになっていたほうが、小学校の体育の授業でプールに入ったときに、泳げるメンバーになっていて、良くないけど優越感を味わい、すごいねと言われることによって自信となると思うんですよね。」と。
米村でんじろう先生に「男の子はそんなの気にしないよ。母親ってどうしてそう考えるんだろうね。母親と子どもって違うんだよね。とくに男の子は。母親はなんで出来ないの!とか勝手に怒っているんだよね。」なんて会話をしました。

今回の映画もそうでした。
主人公の母親は楽しみを見つけてあげたいと必死でした。

この映画を紹介してくださった方は、インディゴ系のお子さんをもつお母さんです。お子さんは20歳近くです。
その方は私に「私達の子どもはすごいんだよ。変人なんだよ。変人を産んだんだから私達も変人なの。どこに才能があるかわからないんだよ。その才能を見つけてあげるような育て方をしていったほうが良いよ。そうゆう育て方を早くからした方が良いよ」と教えてくださいました。

高橋先生にも、「どこに才能があるかわからないから、何でもさせてあげると良いよ」と教えていただきました。
私、すぐに我が子の才能開花への模索をし始めました。
でも、しばらくして気がつきました。
なんでも経験させることは大切だと思います。
ピアノを慣わすことを考えたり、与えることが才能開花ではないように感じました。
能力開発が最近よく話題になります。
そのなかで、いい道具を与えることというのがあります。
確かに楽器の場合は大いに影響があると思います。
でも、天才は環境だけで天才になるものではないように感じました。
子どもが興味をもったものからスタートし、いつか才能の花が開花するように感じます。
いま、私達ができることは、子どもの興味を尊重し、大切にしてあげることではないかと思いました。
ということで、我が家では親が子どもの才能探しをするのはやめました。
子どもの興味、関心を持ったものに、親が深みをだして与えることを心がけるようにしています。

先日、寛希がラクダに会いに行きたいといったので行きました。
するとラクダよりもカバに感動して二度もカバのところへ行きました。
ラクダからカバへと興味が広がっていました。すごいですよね。
インディゴの子どもはすごいのです。

母親とはどうあるべきなんですかね。

映画は、母親の主人公をおもう間違った判断が、家庭を崩壊させ、みんながつらい状況となっていました。

私は、母親とは家庭の太陽であるべきなのだと感じます。
私も以前は自分が社会で評価を得たいと思っていました。
社会に私の存在価値を認めてほしいと思っていました。

今は、妻として主人を支えたいと思います。
家族が社会でがんばってこられるように、私が家族にエネルギーをあげられるような人になりたいと思います。
子どもや主人が帰ってきて、落ち着けるような空間をつくるのが私の役目だと感じるようになりました。
社会でがんばってくる家族を通して、私は社会とつながっているんだと思います。
やっとそう思えるようになりました。

今日の映画はとても深い内容でした。

1 コメント

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現場から (ぶーぶー担当?)
2007-11-03 20:43:55
一般的に中2から中3にかけての時期に子供たちは自己の確立を確実に強めていくように感じます。
いわゆる第2次性徴とか反抗期とか呼ぶ時期です。

具体的に言えば、「人に言われて何かをするのをいやがる」「自分の考えがはっきりしてくるがうまく表現できるレベルまでは達してない」などです。

この子たちにとっていちばん“ウザイ”言葉は、
「君のこれから(将来)のことを考えて言っていることなんだよ」ですかね。
という私もよく彼らに使いますが・・・。

さて本題です。
>主人は中学校の現場で感じるようです。
>親にこうゆう場合はこうするのと教え込まれてきた子どもは、自己が確立されてきた時、自分はなんだったのかと辛くなり、不登校などの問題を起こしやすいように感じるといっていました。

不登校の理由は様々です。問題行動の理由も様々です。
ただ、子供たちは常に必死に生きていて、常に楽しいことを求め続けています。そして、常に親に“自分”をわかってほしいと望んでいます。

でも、それらは全くと言っていいほど表面には出しません。特に男の子はその反対をするくらいです。
そして、彼らは無意識に彼らなりの最善の方法でそれらをアピールします。

一方親は、問題行動をすることに対する恥や相手への申し訳なさ、学校へ行かないことの不安、勉強が遅れることの心配、などを考えています。

噛み合ないのは当然ですね。どちらかが譲歩することで成立しているのが現状ですかね。

寛希のおかげで新しい視点がたくさん増えました。最近、意気消沈しているお母さんに言う台詞があります。
「この子はお母さんにとって最高の子供ですね。いろんなことをお母さんに教えてくれているんですもの。」
臭い台詞なんで滅多に使いませんが、ある意味かなりきつい台詞ですよね。「あんたがもっと成長せい!」ってことですもんね。

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