遠藤誠氏の言葉。
自分の信仰スタイルというものを、あらためて振り返らせてくれる言葉の数々。
●「まやかしですね。(略)
真の宗教というのは、拝んだから病気が治ったり、交通事故が防げたりというような迷信ではない。病気になろうが貧乏になろうが、配偶者に裏切られようが、へとも思わない自分になることが本当の信仰なのです。
今の新興宗教は、八百屋に行って金を出して野菜を買うのと同じで、金を払って拝んでもらって反対給付を得るという、物の売り買いを宗教的な装いでカモフラージュしただけのもので、まさにサギだね。」
●「いったい、仏教徒が、それぞれのお寺のご本尊を通じて如来に対し合掌し頭を下げるのに、どうしてカネが要るのか。これは、見物小屋や観光株式会社以外の何物でもない。」
「フザケルナと言いたい。
いったい、見世物小屋のどこに「信仰」があるというのか。
如来と衆生とが、自由に会うことをへだてている者は、いったい誰なのか」
●「寺請制度・檀家制度により、日本国中の寺に、庶民の信仰を統制する権限が与えられると、檀家にたいする寺の横暴は、その極みに達した。(略)
生まれたときから自分の葬式寺がきまっているということになった。(略)
そのお寺の教義に対する信仰とは何の関係もないというパターンが形成されるに至ったのである。」
●「道元さんから、二十世紀のわれわれ現代人が訓えられる点は、
仏教というものに対して、物欲しさでもって対してはならないということです。」 ※
「成田山に行って、ぜにを上げて護摩をたいてもらって、お札をもらった。
お札には、「交通安全」と書いてあるからもうあとは余り注意をしなくても絶対大丈夫とか、あるいは「家内安全」のお札をもらったから、女房には尽すべきことを尽さなくても死ぬまで女房とけんかしなくて済むとか、あるはい「受験合格」と書いてあったから、きょうからは寝ていてもいいわいとか、いったようなものが仏教だと思ったら大間違いだ。」
●「最初はやはり『衆事』、もろもろのことも、ある程度は見学しないことには食わず嫌いになってしまう。特に創価学会の人にそういう傾向が多い。
創価学会の方々は、真言宗を勉強し、天台宗を勉強し、曹洞宗をやり、臨済宗をやり、日蓮宗をやったうえで日蓮正宗というものを選び取っているかというと、そうじゃないので、たまたま隣にいた人が熱心な学会の人だったとか、いろいろとしつこい折伏に染まって自分までそうなったとか、そういう人が大部分名なわけで、彼らにとっては創価学会の教義が最も大事なのかもしれませんが、しかし、それ以外にもひろびろとした別の世界があるんだということが、彼らにはわからない。またわかろうともしない。意識的に目をつぶっていますね。それじゃだめなんだ。それでは、『イワシの頭も信心から』になっちゃいます。」
●「学会が信ずるという日蓮正宗の根本的な教義が末法思想です。(略)つまりお経の否定ですね。
じゃ、何を末法における真理というかというと、彼らに言わせれば日蓮大聖人の御書であるという。(略)それと日蓮さんが発明したという南無妙法蓮華経という題目。(略)
お経を否定するといっても矛盾があるのですね。否定すると言っておりながら法華経というお経だけは否定しない。
ところがこの法華経というお経も、彼らの教義からすれば正法時代にできたものなのです。そこに創価学会の根本的な矛盾がある。
そこで『それは矛盾じゃないか』といままでぼくは二三の創価学会のおえらがたに質問したことがあるのですが、、満足のいく回答をしてくださった方は一人もいなかった。」
●「要するに数の多少をおもんばかることなかれ、また数の多きを誇ることなかれ。
とにかく禅というのは一人一人のものなんです。
だからまず、あなた自身がやること、そこから先どうなるかは心配するなということです。この点では、創価学会なんかは逆をいっていますね。『おれのところには何百万世帯集まったぞ。こんなに人間がいっぱい来ているんだぞ。どうだ、スゲエだろう。だからおまえも信じろ』と。(略)
ところが、本来の仏教は数じゃないんですよ。一人のものなんです」
●「言葉の文字面だけにしがみついちゃうと馬鹿みたいなことが時々おこる。
創価学会の会員は概ねこの教条主義者である。
『日蓮大聖人の御書何ページにこうかいてある。だからこうする。』と。
『池田会長はかくかくしかじか言った。だから俺もそうする。』と。
いかなるときに日蓮さんが、そうお述べになったのか、いかなるときに池田さんがそういうことをおっしゃったのか、そういった背景とか本当の意味を全然考えずに、うわっつらの言葉だけで適用しようとする。これが教条主義。」
●「宗教団体というものは、本来、信仰が自由独立である以上は自治組織であるべきはずだ。従って、そうした宗教団体がらみのトラブルが起きた時に、それを裁判所という国家権力に持ち出して、そこの判断を仰ぐことによって解決しようということは、もともと教団の持っている白油権ないし自律権を自ら権力に売り渡すものとして、本来あってはならないという基本的見解を持っています」
●「(釈迦や道元)の場合は、そういう欲(煩悩)を主人公とし、自分自身をその家来にするという生き方では無しに、自分自身が主人公となり、自分の欲(煩悩)を家来にして添えを支配するという生き方をとったのです。この点、ブランドもののファッションとグルメと風俗産業とレジャーにのみうつつを抜かしている現代人は、完全に煩悩がご主人様になり、自分がその家来になっています」
●「たいがいの人は、自分の身体を自分のものだと思っています。しかし、もし本当に自分の身体が自分のものであるとすれば、自分の思い通りに動くはずです。」
「しかし、自分の心臓に対して『心臓とまれ!』と命令しても、心臓はとまりません。(略)
このように見ていくと、じぶんのからだだというのは、自分のものではないのです。」
「同じように、自分の心も不可得なのです。ふつう自分の心は自分のものであり、自分の本質は自分の心であると思っていますが、はたしてそうでしょうか。
自分の心が自分のものとしてつかめるのであれば、自分の心に対して命令を下せるはずですね。ところがそうじゃないから、人は悩み、悲しみ、イライラし、怒るのです。」
「しからば、このからだと心は誰のものでしょうか。それは(略)法身仏のものなのです。そう思うと気が楽になります。『文句があるなら、私の後ろにおられる法身仏に文句を言え』と言っておけばいいのです」
●「どんな人にも欠点があります。愚痴蒙昧な人もきます。しかし、どんな人にも、少しはいいところがあります。私は、それらの人の中の、すこしでもいいところを見つけ、それをほめることにしています。欠点は攻撃しません。そうすると、そのいいところが、だんだんだんだん伸びていき、結果として悪いところが、だんだんだんだん少なくなっていくのです。釈尊も、すべての弟子にそのような教育をされたようです。」
【遠藤誠】
ウィキペディア
出典元サイト孫文侍の世界より
※補足
遠藤氏の道元禅師の見解について「『正法眼蔵』「看経」巻で、施主のために修行僧達が経典を読むことが行われている以上、いわゆる現世利益について、全く排除してはいないのです」とあらためて曹洞宗の見解をいただきました。ありがとうございます。
遠藤氏ですか・・・典型的な、知的エリートによる道元禅師の偶像崇拝化ですね。困ったものです。どうにも、遠藤氏の都合の良いように道元禅師が誤って引用されているようで、拙僧どもには良い迷惑です。
例えば、「仏教というものに対して、物欲しさでもって対してはならないということです」ということについても、『正法眼蔵』「看経」巻で、施主のために修行僧達が経典を読むことが行われている以上、いわゆる現世利益について、全く排除してはいないのですが。。。
すばやいコメントありがとうございます。
いつでも記事の訂正&改定&補足いたしますのでお申し付けいただければ幸いです。
現世利益をまったく排除していないのは私も伺っています。(個人的には青山老師の法話で伺いました)
その代わり、現世利益のみを仏教(もしくは宗教)とするような形で世間でまかり通っていることが多いように思います。そこに「僧侶でない遠藤氏から」一石を投じているものと思います。
道元禅師に限らず、世間ではいろんな宗師のいろんな見解が飛び交っています。
そこはできれば導師である御僧侶の生のご意見がほしいと思うところだったりします。
ブログでは贅沢な話でしょうか?
かなり辛口な内容を載せてみたけど、
思いのほか各方面の大きな反応はなかったですな・・・
私の書き込みだとがっかりさせると思い遠慮しました。
●私にしては珍しく宗教系の記事を読みました(驚き)
↑多分これがよかった。
12段落に騙されて読んだ。表現が悪くてすみません。
ここだけ、のつもりが気がつけば読んでいた。
ハンバーグに人参を擂って食べさせられた感じ。
※好き嫌いの多い私に、栄養補給をありがとう!
●感想
・目からウロコではなかったけれど、ふ~ん、こんな宗教観もあるんだ。これでもいいのかな?
教学熱心でなかったけれど、学会で刷り込まれたものが、栄養なのかゴミなのか解らないけど、自分の中にあるのを確認したエントリーでした。
きっかけだけで、つっかえずに前へ進めて、その先はいろんな先に進んでいければいいだろうなぁ、と思います