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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

あっという間の3月

2024年03月31日 | 日常の風景

3月はいろいろ忙しかった。

まず、外国人と囲碁をする際に必要な英会話集の原稿を書いた。日本にはこうした本がなかったので苦労しながらの執筆だった。『碁楽室』6月号に掲載予定。

また、京都で開かれた全日本こども囲碁大会(ボンド杯)を取材し記事にした。こちらは『碁楽室』5月号に掲載される。

 

さらに、中旬になって、4月から非常勤講師に復帰することが突然決まった。それで大急ぎで授業ノートを書き換えた。余計な情報をそぎ落としてすっきりしたノートが完成した。

 

一方、3月上旬には娘の引っ越しもあった。

明日からはいよいよ4月。

授業ノートもできたし、ワクワクする1年が始まる。健康で仕事ができることに感謝する日々である。


ノートづくりを楽しむ

2024年03月29日 | 日常の風景

4月から現役復帰する。週6コマ(2単位×3クラス)だが、学習指導要領が変わったこともあり、ノートを作り直している。今度の教科書を見て思った。無茶苦茶詳しくなっている。これを2単位でどうやって教えろというのか。2単位というのは年間の実質授業数でいうと50時間余りである。

文句を言っても始まらない。生徒が自分一人で勉強できるところは省いて、教科書に書かれていない「根っこ」の部分をしっかり教えようと思う。だいたい、「根っこ」の部分は正解がないため入試には出ない。でも、そこを考えることがいちばん大切なのだ。

今年はさらに、「勉強の仕方・教え方・文章の書き方」という新しいノートを作った。これまでに書きためたプリント類を1冊にまとめたノートである。これまで勉強方法が間違っているために伸び悩んでいた生徒をいっぱい見てきた。そんな生徒の役にたてればと思う。

昨日は囲碁サロンの席主を務める日であった。ノートづくりのための資料やパソコンを持ち込んで、ひたすらノートづくりをした。静かな高級囲碁サロンでコーヒーブレイクを楽しみながら仕事ができた。

昨日1日かけて、「新自由主義」について書いた。あと何年生きられるかわからない人生。これだけは生徒に伝えておかねばならないという気持ちを込めて、新規の節を設けた。ジニ係数で不平等をはかれるのか? 貧困は自己責任か? いいノートができた。教科書を越えた誰にもまねのできない授業を目指す。

夜は長女がくれたワインでのどを潤す。うまかった。今まで飲んだワインの中で一番うまかった。聞けば、ソ連からの解放を記念した「フリーダム」ワインだという。かなりレアな一品らしい。

一夜明けて、今日もノートづくりに励む。午前中は農業問題を書き直した。書き込みでぐちゃぐちゃになっていた古いノートを、余白をいっぱい入れてすっきりしたものに作り直した。なんと気分のいいことか。

午後からは消費者問題を書き直す。小林製薬のことも入れようかな。


中村天風

2024年03月27日 | 日常の風景

中村天風(1876~1968)の本は今日も多くの人に読まれている。宮本武蔵の「五輪書」を範とし、人間存在の根源を「心のありよう」に求める。天風が説く「幸福に生きるための心のありよう」とは何か。下記の書物から印象に残った言葉を引っ張り出し、順不同に並べてみた。

 

心は汚い糞溜めのなかに漬けておいて、顔ばっかり一生懸命ペタペタ磨いている人がいる。同じように心もやったらどうなんだい。男もそうだぞ。すべては心が生み出す。あなた方の心のなかの思い方、考え方が、あなた達を現在あるがごときあなた方にしている。人間の地獄をつくり、極楽をつくるのも心だ。右を見れば花園があり、左を見ればゴミや糞が転がっている。右を向いていればいいものを左ばかり向いている人がいる。

不平や不満を口にする悪習慣は、人にいたずらに煩悶や苦悩を心に多く感ぜしめるだけで、人生に価値ある収穫を招来しない。人生の一切合切が「積極精神」で決まる。心が積極的であれば、人生はどんな場合にも明朗、溌剌颯爽、勢いに満ちたものになる。「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」。どんな大事に直面しても平然自若でいることが大切だ。

 

愉快に生きる

取り越し苦労は百害あって一利なし。何の役にも立たない。新幹線の列車にまともにぶつかれば粉々になるが、ヒョイと身をかわせば列車はすうっと通り過ぎてしまう。相手にしなければいいんだ。何か事が起こった時「私が悪かった」と罪を背負ってしまうと喧嘩にならない。ものが壊れた。「あ、私が悪かった。そこにそれを置いたもんだから、壊れたのね」といっちまうと、これ喧嘩にならないよ。

自己以外の人に対しては、あくまで清濁併せ呑むという寛容さを失ってはならない。笑いは人間にだけ与えられた特別なものに他ならない。笑いは無上の強壮剤であり、また開運剤である。

 

すべてに感謝

何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。すべてのことに感謝しよう。生きていることに歓喜の気持ちをもとう。「ああ、ありがとうございます」と言われて、「けっ、俺は損しちゃった」と思う人はいない。あるものは不平と不満だけという憐れな人生に比較して、人生の一切を感謝に振り替え、感激に置き換えて生きられるならば、そこにあるのは価値の高い尊い人生ではないでしょうか。

人数が多ければ、間違いも正しいことのようにされちまうのは、議会だけである。ところが人生も議会と同じように考えているのが現代人の常識である。自分の人生の前にあらわれるすべてのものは、自分の価値認識のために必要な尊いものだと考えるのが一番いい。

同じ事業家でも、欲の固まりでやる者と、「この仕事で、世の中の人のために、本当に役立つものを提供しよう」という気持ちでやるのとでは、その結果が全然ちがう。


囲碁ライターとして

2024年03月27日 | 日常の風景
ボンド杯の記事を書いてほしいと依頼され、2日間で書き上げた。これまで教科書の執筆や生徒への論文指導などで文章修業をしてきたが、こういう形で役に立つとは望外の喜びでもある。以下、記事の一部を紹介する。
 

 第27回全日本こども囲碁大会全国大会が2024年3月23日(土)、24日(日)、京都で行われた。全国18の地区予選(参加者約2000名)を勝ち抜いた48名(小学生24名、中学生24名)が京都市左京区の聖護院御殿壮に集まり、2日間にわたって白熱した戦いを繰り広げた。小学生の部では東日本代表の小川蓮君(暁星小学校3年生)、中学生の部では同じく東日本代表の小林高誠君(さいたま市立植竹中学校2年)がそれぞれ優勝トロフィーを手にした。

 

全国の強豪集まる

 今回の参加者のレベルは非常に高く、昨年実施された第44回全国少年少女囲碁大会(決勝戦はNHKでも放送)に上位入賞を果たしたメンバーがずらりと並んだ。小学生の部では優勝した横手悠生君をはじめ、3位の森達輝君、ベスト8入りした野中優希さん、岩切知輝君、岡部有君、また中学生の部では2位の小林高誠(たかのぶ)君、3位の長尾想太君、ベスト8に入った小原悠詩(おばらゆうた)君、伊東信義君のほか、樫本直弥君も一昨年にベスト8入りしたメンバーである。

全国から強豪が集まるこの大会から、その後プロになった人も多い。第1回大会優勝 井山裕太(当時小学校3年生)、第7回大会優勝 安達利昌(当時中学校1年生)、第20回大会優勝 福岡航太朗(当時小学校5年)などはよく知られている。

試合は初日に2局、2日目に3局打ち、順位はスイス方式で決まる。持ち時間は一人30分で、使い切ると1手30秒の秒読みになる。今回地方予選を勝ち抜きながら、残念ながらインフルエンザのためやむなく欠場となった内田啓仁君(中学生の部関西地区代表)の代わりには、水崎弘太郎君(京都囲碁道場推薦)が出場した。大会審判には日本棋院吉岡薫9段と日本棋院中濱孝ノ輔2段があたった。

(大会の打ち合わせをする全国各地の幹事)
 
 

中学生の部決勝 黒番:小原悠詩 白番:小林高誠 白中押し勝ち

 

自分が書いた記事が活字になるというのはなんとも言えない充実感がある。記事は5月号の「碁楽室」という囲碁雑誌に掲載される。一仕事終えたので、これからは授業準備に向けて本格始動だ!

ボンド杯

2024年03月18日 | 日常の風景

第27回ボンド杯 全日本こども囲碁大会関西大会が3月16・17日の2日間にわたって行なわれた。会場となったのはスポンサーであるコニシ株式会社本社(大阪市道修町)である。この大会は囲碁人口のすそ野を広げるために超初心者(50級レベル)から参加できる。また全く囲碁を知らない子ども(大人も可)にも入門教室が準備されている。そうしたこともあって参加者は200人以上にのぼった。参加者はそれぞれの棋力に応じてA,B,C,Dにクラス分けされ、対局を楽しんだ。

(星川拓海5段Pの指導碁を受ける子どもたち)

(中野泰宏9段Pに教えてもらう子供たち)

(4局打つと豪華な参加賞がもらえる)

 

一方、会場の一角では全国大会への代表決定戦も行われ、小学生21人、中学生10名が熱戦を繰り広げた。いずれも4段から6段クラスの実力を持っており、ハイレベルの戦いが展開された。

地区予選は全国19の地域で行われており、全国大会は1週間後の3月16日、17日に京都の聖護院で行われる。全国大会の過去の優勝者の中には、井山裕太、安達利昌、福岡航太郎など、現在プロとして活躍しているそうそうたる棋士がいる。

今回、縁あって大会の裏方を初めて務めさせていただいた。会場の準備・後片付け、組み合わせ抽選など目の回るような忙しさだった。

(後片付けを終わった会場)

井戸の水を飲むときは「井戸を掘った人のことを忘れるな」という言葉があるが、こうした大会にはスポンサー企業の財政支援だけではなく多くのボランティアスタッフの陰の力があることを改めて知った。いい経験をさせてもらった。

 

 

 

 

 

 

 

 


日本の仏教はなぜ葬式仏教になったのか

2024年03月09日 | 日常の風景

本来の仏教は、釈迦が「生老病死」の苦しみから人々を救済するために説いた宗教であり、葬式とは何の関係もなかった。それが日本に伝わっていつの間にか葬式仏教になった。また釈迦は「平等」の重要性を説いた。しかし、日本の仏教界は寺院、僧侶、戒名などあらゆるものに「格差」を設け、平等とはほど遠い。

どうしてこんなことになってしまったのか。まるで悪い伝言ゲームのようだ。この疑問を解き明かすため何冊かの本を読んでみた。

 

(1)奈良仏教と平安仏教

日本に仏教が伝わったのは538年といわれる。当時日本には、神道と呼ばれる民族宗教があった。海、山、木、田んぼなどありとあらゆるものに神が宿るとされ、その信仰は今でも各地のお祭りや伝統行事に受け継がれている。

そこへ金ぴかの仏像をともなった仏教が入り込んできた。両者の間でバトルが展開され、政治的に勝利した仏教は奈良時代に国家の保護を受けるようになり日本に定着した。ただし、仏教の役割は国家の平安を守ることであり、葬式をすることではなかった。だから、東大寺、薬師寺、唐招提寺、清水寺など奈良時代からのお寺(奈良仏教)は今でも葬式をやらない。仏教は庶民にとって無縁の存在でしかなかった。

平安時代になって天台宗や真言宗が広まった。しかし、これらも貴族を中心とする富裕層の宗教であり庶民には無縁のものであった。

 

(2)庶民の宗教となった鎌倉仏教

仏教が庶民の間に広がったのは鎌倉時代になってからである。それまで貴族を中心としてきた仏教に対抗して、念仏さえ唱えれば誰でも救われると説いた浄土宗、浄土真宗などが急速に人々の信仰を集めるようになった。

(親鸞 井上雄彦画 東本願寺所有)

 

(3)江戸時代に現在の菩提寺システム確立

さらに江戸時代になると仏教は新たな役割を担わされるようになる。1637年に島原の乱がおきると、幕府は鎖国を行ない、さらにはキリスト教徒をあぶりだすために寺請け制度を実施した。そしてすべての家を檀家としてどこかの寺に帰属させ、寺には役所に宗旨人別帳を提出することを義務付けた。

寺は檀家の葬式を通じて葬儀、戒名などをお布施として受け取る。その一部は上納金として上位の寺に納められる。やがて本山を中心とする強大なピラミッド構造の利権集団が形成され、「お葬式は寺が引き受けます。その代わり寺の生活を檀家がみてください」という菩提寺システムが確立された。

現在の寺はこの江戸時代に確立された菩提寺システムがそのまま残っている。本山と末寺の関係もそのままであり、両者は二重構造をなしている。すなわち、全国に何万とある末寺には独立性が認められているが、その一方で本山に上納金を納める義務も課せられている。上納金は寺の格や檀家の数によって決められる。もし末寺が上納金を拒否して本山の末寺リストから外されると、末寺は檀家もすべて失う。だから末寺は本山には逆らえない。

このことは、本山はその権力を利用して末寺に過酷な上納金を安心して要求できることを意味する。本山は末寺のことを何も知らないし、知ろうともしない。本山にとって末寺は上納金を収めてくれればそれでよい存在でしかない。たとえ末寺の僧侶が不良行為を行なってもその懲戒規定は極めて緩く、審事院はほとんど機能していない。末寺が減れば上納金が減るのだから当然のことかもしれない。

江戸時代は一部の宗派を除いて僧侶の妻帯は認められていなかった。だから、末寺は現在のような世襲ではなく、弟子が跡を継いだ。ところが明治5年「肉食、妻帯、蓄髪、平服着用、勝手たるべし」という政府のお触れが出た。これ以降、僧侶も家庭を持つようになり、息子が副住職となって跡を継ぐことが一般化した。

しかし、いったん寺の世襲が認められると、寺の利権確保、利益への欲望は世俗と変わらなくなる。かくして末寺は独立した企業体となり、住職は家業となった。

 

(4)寺院は生き残れるか

現在日本には7万6千の寺院がある。コンビニの5万7千店より多い。上位5寺院をを宗派別にみると次のようになっている(カッコ内は本山)。

1.曹洞宗(永平寺、総持寺)   

  14604寺院

2.浄土真宗本願寺派(西本願寺)

  10473寺院

3.浄土真宗大谷派(東本願寺)

  8860寺院

4.浄土宗(知恩院)

   7125寺院

5.日蓮宗(身延山久遠寺) 

  5011寺院

これら7万6千の寺院のうち、すでに住職がいない寺が地方を中心に1万5千あると言われ、寺院の将来が危ぶまれている。なぜ寺院の存続が危機にさらされているのか。その主な原因は次の3つである。

(原因)

① 高度経済成長後の都市化によって地方の檀家数が激減し、葬祭収入に依存する寺院経営が困難になった。

② 昭和30年代から葬祭業者が台頭し、葬式を収益源としてきた寺の収入が落ち込んだ。

③ 寺院が心の栄養を送り込む役目を果たせず、人々の仏教離れが進んだ。

 

一般に、寺院経営の損益分岐点となる檀家数は400軒といわれる。寺の収入の8割は葬祭関係である。400軒の檀家数があれば年間30件程度の葬式が見込まれ、寺院の経営に余裕が生まれる。ちなみに現在の平均的な葬儀費用は237万円とされ、その内訳は次のようになっている。

 葬儀社 142万円

 寺    55万円(戒名料を含む)

 飲食費  40万円

江戸時代には「坊主丸儲け」などと陰口をたたかれたが、現在は寺よりも葬儀社の力のほうが上である。そのため葬儀費用の大半は葬儀社がもっていってしまう。以前「おくりびと」という映画が話題になったが、葬儀社はたいへんおいしいビジネスなのである。お棺、霊柩車、葬儀会場、仕出し屋、花屋、お坊さんなどはすべて外注に出すことも可能で、その気になれば葬祭業は電話1本で一人でもできる。最近小さなお葬式をうたい文句にしたそうした業者が増えている。

現在、寺の主要な収益源となっているのは「戒名料」である。戒名とは「死後出家」のことであり、死んだ後に僧侶になることを意味する。しかし、一般には「あの世へ行くためのパスポート」として理解されており、「院」「居士」「信士」などとランク付けされ、それぞれ異なる料金が設定されている。

よく世間では戒名料が高すぎると批判される。最高ランクの「院」の戒名を得るには100万円以上することも珍しくない。しかし、寺を経営するためには、住職の給料、所得税、寺の改築・修理、年間100万円単位と言われる本山への上納金や臨時負担金などのほか、僧侶として出世(?)するためにも相応のお金がかかる。そのため末寺は稼ぎ頭の戒名料で儲けざる得ないのである。

一方、寺の建物(固定資産)は住職の所有物ではない。だから固定資産税は免除されている。また本山にも寺の所有権はない。本山にあるのは任命権だけである。本山は末寺の住職の任命に際しては1000万円~2000万円のお金を受け取るといわれる。こうした本山を頂点とする仏教界の収奪構造を底辺で支えているのが檀家である。

ところが、その檀家が今減少している。それにもかかわらず本山は末寺の経営には無関心である。末寺の住職は寺を維持するため、教員や公務員などと兼業をしたり、霊園・駐車場・マンション・保育園や幼稚園を経営をしたりして、何とかやりくりしている。

しかし、家業としての住職が成り立たなくなれば、子どもは寺の後を継ぎたがらなくなる。特に子どもが優秀であればあるほど、寺の世襲は困難になる。そうした問題を本山は全く顧みない。いくらインスタントに僧侶を養成したところで、減少する檀家と葬式に依存する現在の体質が変わらない限り、今後、寺の維持が困難となって廃寺が増えるのは間違いない。

(島根県の廃寺 毎日新聞より)

 

 

 

(5)法然院を訪ねる

以前、京都の法然院を訪ねたことがある。貫主の梶田真章さんのお話を聞いたが、上部組織を持たない単立寺院で実に様々な試みを自由にやっておられた。「他力本願の他力とは仏力のことです」「仏教は人生をいかに楽に生きるかを教えてくれる知恵なのです」。心から尊敬できるお坊さんだと思った。

人付き合いや仕事、人生への不安、そうした悩みにこたえるのが宗教だとすれば、宗教が地球から消えてなくなることはないだろう。今の日本に必要なのは江戸時代につくられた利権構造をぶち壊して、本当の信者を獲得することである。

僧侶の資格を取得した後ろくろく修行もしない家業としてのサラリーマン住職と、プロの宗教家として一生を修行にささげる僧侶は全く別物である。日本の仏教界はこれからどこへ向かうつもりであろうか。

(法然院 山門)

法然院 梶田真章貫主

 

 

 


金価格1100万円/1㎏ 突破!

2024年03月05日 | 日常の風景
金価格1100万円/1㎏ 突破!
 
 
こちらもすごいね。
ようするにリーマンショック、パンデミックなどで紙幣を乱発した結果、世界中の通貨価値が下落しているということだろう。世界の株高も同じ現象と思われる。経済学者は小難しいことを言っているが、供給が増えれば価格が下落するという単純な話なのである。
 
こざかしい経済知識を捨て去ってようやく見えてくるものがある。ここ10年ほどはなるべく現金を持たないように運用してきたが、どうやら正解だったようだ。今主流となっている不況時の財政金融政策をケインズ先生が聞いたら何と答えるであろうか。

ビットコイン 1千万円突破

2024年03月05日 | 日常の風景
 
 
初めて買った頃は1ビットコイン=20万円ほどだった。しかし、あまりの値動きの激しさと将来に対する見通しに自信がなかったので途中で損切りした。以降全く手を出していない。それが今や1千万円とは!
ビットコインの価格の根拠となるものはいったい何か。株価なら利回りとかPERとかいろんな指標がある。しかし、ビットコインにはそういった指標がない。だから適正価格というものがわからない。そんな商品に老後の資金を託すわけにはいかない。
 
自信がないものには手を出さない。私の投資哲学である。
 

私が初めてビットコインの将来について書いたのは今から7年ほど前だった。再掲載しておく。

暗号資産の将来 - 南英世の 「くろねこ日記」

暗号資産の将来 - 南英世の 「くろねこ日記」

2017年7月、初めてビットコイン(BTC)について書いた。http://homepage1.canvas.ne.jp/minamihideyo/bitcoin.html当時は1BTCが30万円とか50万円の時代であった。...

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