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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

やっと整理終了

2019年12月31日 | 日常の風景
今まで雑多に並んでいた本を分野ごとに並べ替えた。4日間かかった。これで仕事がしやすくなる。気分はすっかり新規の仕事モード。
今のところは何とか治まっているが、学校にある本を持ち帰ったらまた再整理する必要がある。ずいぶん捨てたはずなのに、まだ捨て足りないか。

ちなみに、この本棚は今から10年ほど前に自分で作ったものである。
https://blog.goo.ne.jp/minami-h_1951/e/c127ac9ecbe589f645568a22d3b05bf5

一方、家具職人に依頼して作ってもらったもう一つの書架は、最近買い始めたDVDで占領され始めている。





書架の整理

2019年12月30日 | 日常の風景

ずっと前から、70歳になったら現役教員を引退しようと決めている。来年度はその最後の年になる。今のところ来年のことはまだ何も決まっていない。そのうち人事が動き出すだろう。

次年度に向けて書架の大幅な入れ替え作業を行なっている。新しい仕事が入るかもしれないからだ。それで、もっと使いやすいように気分転換も兼ねて、本の処分・配置換えを行なっているという次第である。

三国志の中で、諸葛亮孔明が周瑜の書斎で会話を交わす場面がある。

孔明:「書斎と言いながら本(=竹簡)が一つもありませんね」
周瑜:「読んだ本は全部頭に入っているから、置いておく必要がないのです」
孔明:「私も同じです。書斎にあるのは暦だけです。ハハハー」

いやはやなんとも・・・

私は本を読むときは線を引いたり、折り曲げたり、付箋を貼ったりしながら読む。だから、読み終わったあと売り物にならない。書斎が本であふれたら捨てる。ただし、捨てるときはどうしても残しておきたい部分を「ベリッ」と破り、その部分を後でノートに転記することにしている。



作業を始めて3日目になる。今日も山のように捨てた。足の踏み場もないほどだ。来年はどういう年になるのか。皆様よいお年を。





手帳

2019年12月22日 | 日常の風景

昨日、来年の新しい手帳を買った。今回も30年来愛用している産業能率手帳にした。例年ならもっと早く買うのだが、買う必要に迫られなかったということは、予定があまり入らなくなったということか。

さてさて、どんな年になることやら。

お金で買ってはいけないもの

2019年12月16日 | 日常の風景
かつてホリエモンが「お金で買えないものありますか」と言って物議をかもしたことがある。確かに、その気になれば大抵のものはお金で手に入る。しかし、お金で買うことが実際問題として許されるかどうかの線引きは案外難しい。

たとえば、人間を売買することは許されるか。もちろん倫理上問題があるから禁止されている。しかし、かつては奴隷の売買が合法であった時代もあった。では、赤ちゃんを売買することは許されるか。人間の体の一部である「臓器」の売買は許されるか。血液を売買することは許されるか。セックスを売買することは許されるか。代理母をお金で買うことは許されるか。

一方、麻薬を買うことは本人及び社会的に悪影響が大きすぎるがゆえに、法律で禁止されている。酒やたばこの購入を制限するのも同じ理由からであろう。選挙で買収が禁止されているのも、それが民主主義の本質にかかわるからであろう。

では、大学入学資格をお金で買ういわゆる「裏口入学」は許されるか? 多額のお金を寄付することによって大学経営が安定し、また授業料を安くできるから貧困家庭の子どもでも大学で学ぶ機会が保障される。

もちろん、定員すべてをこうした寄付金の多寡によって合格を決めることは貧困家庭の子どもを排除することになるから許されない。しかし、ごく少数であれば、そんなに優秀でなくともお金で入学する権利を与えてもいいという考え方もありうる。大学の経営基盤を支える学生と大学の名声を支える学生。一部の大学ではそうしたことがあるやに聞いたこともある。

健康をお金で買うことや、快適な住環境や高級車をお金で買うことは当然の権利として認められている。オリンピックの開会式でも30万円払えば手に入れることができる。原子力発電施設だって札束で地元の人を説得していることを考えれば、設置場所をお金で買っているといっていいだろう。

カザフスタンでは病院の診察、学校の成績、徴兵制の回避、裁判での有利な判決なども「わいろ」で買えるという。ソ連時代の非公式な問題解決方法であった「コネ」が、ソ連崩壊とともに金で何でも買える社会に変わっていったのだ。カザフスタンに限らない。旧ソ連下にあった東欧や、現在の中国なども状況は似たり寄ったりと言われている。

なんでも金で解決する社会は究極の資本主義とも言える。しかし、なんでも金の多寡で決まる社会は、経済的弱者には生きづらい。1980年代以降、市場万能主義が世界に跋扈しているが、市場での取引が許されるものと許されないものの判断基準は何か。実は、そうした一番基本的なことが今の高校教育からすっぽり抜け落ちている。
 

孔子と儒教

2019年12月15日 | 日常の風景

9月に中国ドラマの面白さに目覚めて以来、王女未央、武則天、瓔珞、ミーユエ、始皇帝烈伝、大漢風(項羽と劉邦)、蘭陵王などを見た。全部合計すると400話にも及ぶ。1話50分とするとゆうに300時間を超える。

中国ドラマを見ていると、儒教の影響が非常に強いのがわかる。ミーユエの中では諸子百家が激論を戦わしている場面が出てくるし、始皇帝では焚書坑儒のシーンがある。また項羽と劉邦の争いで劉邦が天下を取ることができたのは、劉邦に「徳」があったからだと描かれていた。ともかく、先祖崇拝、御家第一は中国ドラマの底流を流れる思想であり、それは紛れもなく儒教の影響によるものである。

ところで、儒教とは孔子を始祖とする思考・信仰の体系であり、その学問的側面から儒学、思想的側面からは礼教と言われる。しかし、論語と儒教・礼教の間には簡単には埋まらない溝が存在するように思われる。

そもそも『論語』は「巧言令色、鮮なし仁」「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」「利によりて行なえば怨み多し」などの言葉に見られるように、人生の指南書である。そこに宗教臭さはほとんどない。その後、孔子の死後約四百年かけて孔子と高弟たちの言語録は『論語』にまとめられた。

戦国時代にあっては「徳」による政治を語る儒学など非現実であり、それゆえ始皇帝は法家の思想を重視した。しかし、何でもかんでも法律で裁くという始皇帝のやり方は厳しすぎて失敗した。

劉邦は天下を取ったものの、もともと田舎者の無頼漢である。彼の天下取りに貢献した将軍や大臣も同様に無頼漢であった。だから、劉邦が皇帝になった後も彼らには臣下という自覚はなく、宴席では昔の手柄話を競い合い、乱暴狼藉を働いた。

これでは皇帝の権威が成り立たない。そこで劉邦は、朝廷の儀礼を整えるためにそれまで大嫌いだった儒学を取り入れた。儒学が初めて政治権力に食い込んだ瞬間である。その後、儒家の思想が「儒教」として成立したのは、孔子が亡くなって300年以上もたった前漢の武帝の時代である。董仲舒によって儒学が正統教学として献策された。皇帝の絶対的な権力を正当化し、皇帝の権威を高めて強力な中央集権国家体制を築くためのイデオロギーとして儒教が国教となったのである。わかりやすく言えば、論語は「人生の指南書」から「権力に奉仕する御用教学」となったのだ。儒教による支配はその後、清朝末まで約2000年間続く。



権力に奉仕する学問としての儒教は、民衆の救済には役に立たなかった。だから、仏教や権力から距離を置く道教が人々の間に浸透したことは容易に想像できる。

そして約1300年後、儒教は南宋の時代に朱熹によって朱子学として新たな役割を担うことになる。「理気二元論」という哲学でいう「存在論」を取り込んで、朱子学が再び国家的イデオロギーとして独占的地位を確立したのだ。そして、その後500年以上にわたって中国の思想を支配することとなる。

こうしてみてくると、論語の「人生の指南書」という性格は、国家権力に都合のいいようにつまみ食いされ、儒教や朱子学として新たな衣をまとい、孔子の考えとは似ても似つかぬものとなったことがわかる。

F,ベーコン

2019年12月13日 | 日常の風景

最近、中国の歴史ドラマにはまり、ブログの更新が滞りがちであった。今日ようやく「大漢風(項羽と劉邦)全50話」を見終えたので、久しぶりにブログを更新する気になった。
今、朝夕の通勤電車の中で「哲学と宗教全史」(出口治明著)を読んでいる。先日あるページを読んでいて「ストーン」と腑に落ちたことがある。

近代哲学はイギリスのF,ベーコンから始まった。ベーコンは「帰納法」や「経験論」「知は力なり」という言葉などで知られる。もちろん、そのことは「知識」としては知っていた。しかし、知識として知っていても本当にベーコンの「すごさ」が分かっていたかと問われれば、実は全く分かっていなかったといわざるを得ない。

帰納法というのは、ある事象についてたくさんの観察をして、そこから一般的な原理や法則を見つけ出す方法である。カエルをたくさん集めてみたらどのカエルにも「へそ」がない。だからカエルには「へそ」がない。

この推論の仕方は近代科学の基礎となった。長年、帰納法と聞いても別に感動もしなかった。しかし、人間が生きている現実世界だけを見て、結論を導き出すその手法の中に神が入りこむスキは全くない。中世1000年の間ヨーロッパ社会に君臨していた「神」ははるか彼方に押しやられ、信仰の世界から合理性の世界へと人類は大きな一歩を踏み出したのである。

そのことに気が付いてから、ベーコンという人の「すごさ」が初めて分かった気がする。「知は力なり」という時の「力」とは神の力ではなく人間の力のことだと初めて気が付いた。

一般に、観察から原理や法則を見出す際、先入観や偏見がつきものである。ベーコンはそうした先入観や偏見を「イドラ」と呼び、イドラに惑わされないようにすることが大切だと警告する。イドラとはラテン語でidolaといい、幻影と訳される。現在使われる「アイドル」idolと語源が同じである。ステージで歌ったり踊ったりするアイドルが「幻影」であると同じように、ベーコンは人間の持つ先入観や偏見を「イドラ」と呼んだのである。

ベーコンは4つのイドラをあげる。

① 種族のイドラ
 これは人間が往々にして嫌なことは見ないで「見たいものだけを見る」ことを戒めたものである。実験データの捏造はその最たる例か。

② 洞窟のイドラ
 これは過去の個人的な経験に左右されて、モノの見方にゆがみが生ずることをいう。個人的な体験はやがて強い信念に変わる。その結果「井の中の蛙」となり、正しい見方ができなくなる。

③ 市場のイドラ 
 これは人のうわさ話やゴシップに惑わされることをいう。人はみんなが噂していればそれが真実だと思い込みやすい。「火のない所に煙は立たぬ」なども同類か。

④ 劇場のイドラ
 これは有名人の発言を信じ込みやすいということを戒めるものである。東大の先生など「有識者」が表舞台で発言すれば、それが本当だと思う人は多い。かつて小泉純一郎首相の演説は「小泉劇場」などと言われたが、これなども典型的な劇場のイドラと言えようか。

物事を正しく見るということはどういうことか。ベーコンは400年も前に4つのイドラということで示した。現代人にもそのまま通用する警告である。ベーコンの「すごさ」をようやく理解できた。「知っていること」と「分かっていること」の間には天と地ほどの差があることを改めて痛感した。

宝くじの還元率

2019年12月06日 | 日常の風景

毎年この時期にになると年末ジャンボ宝くじが発売される。今年は1等7億円が23本、前後賞を合わせると10億円だという。
https://www.takarakuji-official.jp/schedule/kinki.html

宝くじの還元率は「当せん金付証票法」第5条で「発売総額の五割に相当する額をこえてはならない」と定められている。実際、ジャンボ宝くじ(1枚300円)の期待値を計算すると147円(還元率49%)となっている。残りの14%は印刷や手数料、39%は公共事業などに充てられるという。まあ、簡単に言えば、宝くじは買った時点で半額は戻ってこないという仕組みになっている。

還元率という点で言えば、一番高いのがカジノで90%以上、パチンコが80~90%、競馬・競輪などの公営ギャンブルが75%(ただし税金を引くと58.5%)だといわれる。なんと、宝くじは胴元の取り分(=寺銭)が一番高い。

私もギャンブルが嫌いなほうではない。学生時代はパチンコにのめりこんだこともある。悪銭身に付かずというが、勝ったお金で憲法の教科書を購入したこともあるから、あながち悪銭とはいえなかったかもしれない。

ついでハマったのが株式投資である。親父が「経済を学ぶんだったら株の一つも勉強しておけ」と学生であった私に数十万円貸してくれた。それ以来、株との付き合いが今に至るまで続いている。株式投資は経済学を学ぶ励みになった。また、人生にハリも与えてくれた。しかし、結果は惨敗であった。

株式市場とは「プロが素人から合法的に金を巻き上げる仕組み」と思って間違いない。株は上がるか下がるかの丁半ばくち、ギャンブルみたいなものである。ただし、市場参加者が受け取る情報量に差がある分、たちが悪い(=いかさま臭い)。

一般的に、株で勝つ人は1割、2割がトントン、あとの7割は損をしているといわれる。私もしっかり(?)7割の部類に入っている。「専門家の情報量と分析力を相手に素人が勝てるはずがない」と悟ったのは60歳を過ぎてから(笑)。それでも株式投資から足を洗わないのは、キツキツの生活をしていては息苦しいからかもしれない。人生、ハンドルの遊びの部分も必要だ。



本の力

2019年12月06日 | 日常の風景

私は忘れる名人である。だから、読んだ本の大半は忘れてしまう。そうして何年も手に取ることがないとやがて処分する。

しかし、中にはずっと記憶に残る本もある。脳みそにグサッと突き刺さって忘れようにも忘れられないことが書いてある本だ。本の持つ力と言えよう。そうした言葉はたいてい授業ノートに書き込み、生徒に紹介する。もし私の授業が面白いとしたら、そうしたことの積み重ねによるのかもしれない。

本を処分するときは少し寂しい。しかし、処分してしまって困ったことはない。ただし、新しい本の配置に慣れるまで、お目当ての本を探し出すのに多少の時間がかかるという不便さはある。今日も、ブログの参考にしようと思った本を探すのに10分ほどかかってしまった。

天井まで届く手作りの書架を作ってもう10年ほどになる。早いものだ。今年も残すところわずかになった。