今日は、五節句の一つ、重陽。五節句には、人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)がある。大陸から伝来した暦に、日本古来の風習を当てはめた節句。暦とは、陰陽五行説によって作られたものだ。世の中のものは陰陽のバランスによって成り立ち(陰陽思想)、全ては木火土金水によって作られている(五行思想)という考え方。数字にも陰陽はあり、偶数は陰、奇数は陽。陽×陽となる節句はそのバランスが崩れ、邪気が入り込む。それを祓うため、節会が行われていた。重陽には、菊酒を飲んだり、被せ綿についた菊の朝露で身体をぬぐったり。被せ綿は準備も大変なので、たいていの神社では、菊酒をふるまうようだ。
さて、上賀茂神社。10時前に、駐車場北側の勅使殿に、神職さん、相撲童子が並んでいた。10時ちょうどに二の鳥居から入ってきて、土舎でお祓いがある。
相撲童子のまわしに赤い紐がついているのは、禰宜方、ついていないのは祝(ほうり)方。西東に分かれて、対戦する。斎王代も童女二人と共にお祓いを受けていた。土舎でおはらいを受けてから、再び列を作って本殿へ。神事(約一時間)の後、斎王代・童女・権禰宜らは、細殿から烏相撲を眺める。
神事が終わると神職らは楼門を出て東から下りて、土俵へ向かう。一方の斎王代は西から下りて細殿へ向かった。
立て砂の前に土俵があり、土俵を囲んで東・西・南にはパック旅行や関係者のためのテントが。
陽射しは強く、土俵際に並んで待っている子どもたちの背中には、玉の汗が見えた。
西側の禰宜代、東側の祝代の順に地取り(土俵に自分を中心にして円を二つくっつけて書き、8の字に歩いて回ること)を行った。祝代の円は、禰宜代の円よりもひと回り大きかった。祝代の方が背が高かったのだが、それは多分、背の高さ(手の長さ)には関係なく、後の人がより大きい円を書くことになっているのだろう。この所作は、どうやら勝利の呪術らしい。この後相撲に参加する子どもたちの名前を読み上げ、斎王代に聞いていただく。呪術。ここでも陰陽道が出てきた。
そうして刀禰烏と呼ばれる二人がカラスのように跳びながら、立て砂まで弓矢・太刀・扇を運ぶため横跳びで三往復するのだ。扇と一緒に運んだ円座に座り、禰宜方の刀禰烏は「カァカァカァ」、祝方の刀禰烏は「コーコーコー」と順に三度ずつ啼くのである。円座と武器はその後一緒に持って跳びながら、青白の幕を張ったあく舎へ戻って行った。相撲の横綱土俵入りで、手のひらを返す所作は、武器を持っていないことを意味すると聞いたことがある。武器は、立て砂に預けたこれだけですよ、この武器は使いませんよ、そういう意味のように思える。
さて、烏相撲の方は、一人ずつ対戦して全員済んだ後、三人抜きの取り組みがあった。見ていてなかなか面白い。まわしをとってひきずり回すようなのとか、身体を寄せてぐいぐい押すとか、たまに投げもあった。決まると、歓声が上がる。終了までは50分ぐらいだろうか。それにしても、斎王代に見ていただくというのが、よくわからない。
砂で作られた土俵は、三番か四番毎に「重陽社」と書いた法被を着た方々が、整備される。その法被の背中には、「烏相撲」の文字と、軍配と、まわしをしめたかわいい八咫烏が描かれていた。
黄色い菊の花びらが沢山浮かんだ菊酒。隣の折敷に「志納」とあったが、百円玉が多いようだった。私が頂いた盃には、菊の花びらは入っていなかったな・・・・・・。
この神事には、陰陽道の影響が色濃く反映されているような気がする。上賀茂神社の社家である賀茂一族は有名な陰陽師だ。特に中世の賀茂忠行・保憲親子。三輪のカモと山城のカモは別系統という説もあるが、記紀を読むと、出雲の迦毛大御神(カモノオオミカミ=アヂスキタカヒコネノ神)の系統が葛城へ、そして山城へと移動したように思われてならない。その上、相撲自体、どうやら陰陽道と関係があるらしい。四股は四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を鎮めるためだとか、やぐらの房と土俵の色は、陰陽五行の5色(黒・青・赤・白+黄色)だとか、弓取り式は、陰陽師の調伏と同じだとか。
楼門脇には、ポスターがあった。
「烏相撲」の烏は、上賀茂神社祭神(賀茂別雷大神)の外祖父(賀茂建角身命)が、神武東征の際に八咫烏となって先導した故事による、と同神社HPでは説明されている。どうも弱いと思うのだが。
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