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三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

城山砦 埼玉県狭山市柏原

2015年02月07日 | 埼玉 城址

・城山砦の虎口

城山砦(別名上杉砦・柏原城)は天文年間に上杉憲政が北条氏に奪われた川越城を包囲した際に陣を敷いたとされています。
入間川左岸、入間台地の河岸段丘上にあり、現在本郭・二ノ郭(馬出郭)が残っています。

本郭は南西方向に坂虎口があり、折をもつ土塁・空堀が巡っています。
本郭と二ノ郭(馬出)の間には土橋があり、崖下に向かって竪堀が走っています。
二ノ郭(馬出)は土塁状の高みに稲荷社が祀られています。
西側から北側にかけて、浅くなっていますが空堀が残っています。

 

・本郭虎口前の土橋付近から見上げた土塁

本郭に入る虎口前の土橋へ側面から横矢がかかるように、本郭からせり出した土塁があります。
でもちょっと違和感が・・・

以前紹介した狭山市立博物館の企画展で展示されている城山砦の模型を見て頂くとわかるんですがこの土塁、本郭からせり出した部分は長~いのですが、現状では矢倉が設置出来るような広さはないんですよね(._.)

もちろん横矢の役割もあったと思うのですが、寄せ手から虎口が見通せないように長くせり出している・・・のかな(?_?)

・伝三ノ郭

以前は堀状の遺構があったそうですが、現在はきれいサッパリ・・・
郭部分も発掘調査したのですが、遺物・遺構は検出されなかったそうです。三ノ郭の存在については資料によって異なっているようです。
ちなみに「城山砦と鎧展」のパンフレットでは二ノ郭(馬出)の西側にあり北側には堀状の遺構がある・・・とありますが、現地解説板では縄張図・解説ともありませんでした(._.)

堀状の遺構、気になりますよねえ~

そこで・・・(゜-゜)

・USA-M68-A-6-2-14 撮影日1946.3.9
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスよりダウンロード 一部切り抜き・加筆・修正

国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで検索したら、1946年に撮影された城山砦とその周辺の写真があったので、加工してアップしてみました。

城山砦の崖下は現在は住宅が建ち並んでいますが、上の空中写真や明治時代の迅速測図を見ると昔は田圃だったようです。
ハッキリとは分からないのですが、伝三ノ郭跡に沿って堀が巡っているようにみえますね(^^;
真実は如何に・・・  (・_・?)

2月14日に城山砦の見学会がありますので、まだ行かれていない方は企画展見学とセットで博物館へ足を運ばれては如何でしょうか~
詳しくは狭山市立博物館のホームページでご確認下さい(`_´)ゞ

参考資料 
・埼玉の古城址 
・城山砦 パンフレット
・城山砦と鎧展 
企画展パンフレット
・その他



山口城 埼玉県所沢市

2015年01月07日 | 埼玉 城址

山口城址前交差点北側より臨む山口城 

先日、埼玉県所沢市の山口城へ行って来ました。
山口城址前交差点に設置されている解説板によると、山口城は武蔵武士(村山党)の山口氏の居館として築かれたとされています。北側は椿峰の丘陵、南側は柳瀬川と湿地に囲まれた要害の地で、西側には鎌倉街道が通っていたそうです。城の規模は東西約400メートル、南北約200メートルと推定されています。開発に伴う発掘調査が何度か行われていますが、遺構は土塁・空堀が数ヵ所に残っているのみです(T_T)

山口城を見学する前に、近くにある山口民俗資料館を訪れました。資料館の方に展示解説して頂いた後に城址の方も案内して頂き、また山口城のパンフレットや資料も頂きました。資料館の皆様ありがとうございました<(_ _)>    

 ・USA-R585-No2-18 
国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスよりダウンロード 一部切り抜き・画像補正

上の画像は1949年に米軍によって撮影された山口城周辺の写真です。前々から利用させて頂いていた国土地理院の地図・空中写真閲覧サービス、現在遺構が破壊されて確認出来ないお城でも、昔の写真で土塁や空堀などが確認出来る場所があったりして、ぶろぐに空中写真を使用出来きないかな~と思っていました。で、分からないまま悩むより聞いて白黒ハッキリさせよう!と昨年の暮れにメールで聞いてみました。国土地理院からの回答は「ダウンロードができる空中写真の利用にあたっては、出所明示のうえご自由にお使いください」とありがたいお言葉を頂きました~(^0^)
今後は昔の空中写真と比べながらお城にせまっていきたいと思います。続けられるかチョット心配ではありますが・・・ (^^;;

 

また今回、グーグルマップに写真を張り付けてみました。写真をクリックすると画像が大きくなりますョ。以前アップしていた旅レコは、地図をグリグリ出来ないのが不満でしたので、旅レコやGPSを扱っている方のサイトなどを参考にして、なんとかみられる形になりました(^^;
でもグーグルマップに写真を張り付けるのに、旅レコ(ソフト)を使って写真にジオタグを付けて、webアルバムに写真をアップして、それからグーグルアースを使ったりと結構面倒なんです(´□`)
グーグルマップへの画像の張り方・手順等、
満足はしていませんがしばらくこの形で続けて行きたいと思います。

※写真の位置は旅レコのジオタグを利用していますが、場所が若干ずれている箇所があります。目安として見て頂ければ幸いです<(_ _)>

追記 山口民俗資料館の開館日は第1・3日曜日と第2・4木曜日の午前8時30分から午後5時になります。


竹間沢の城 埼玉県入間郡三芳町

2014年06月08日 | 埼玉 城址

久々の更新になります(_ _).。o○
今回記事にするのは、埼玉県入間郡三芳町にある『竹間沢の城』です。
『日本城郭大系』・『関東地方の中世城館』にも載っていない、幻のお城(城館)です(^^;

『竹間沢の城』は現在お城と分かる明確な遺構は無く、また中世の竹間沢に関する史料(文書)もありません。
しかし『竹間沢の城』周辺には、鎌倉街道と呼ばれる古道が通り、また中世の遺物や城館に関係する地名なども残っています。
今回はこれらを辿って、『竹間沢の城』に迫りたいと思います(^^;
※『竹間沢の城』の名称は、お城があった(であろう)竹間沢の地名から私が仮に名付けました。



◎竹間沢発祥地と本村観音

竹間沢は三芳町の中で最も早く開拓された村落です。
鎌倉時代の元仁年間(1224年~1225年)に開拓されたという伝承が残っています。
本村(小名)には湧水があり、湧水の周囲には竹林が多くあったことから、竹間沢と呼ぶようになったということです。
この沢の水を利用して、中世にも水田が開拓され、稲作が行われていただろうと考えられています。

 


◎古井戸山の鎌倉街道と古井戸地蔵

竹間沢地区の鎌倉街道は、二つあります。
一つは柳瀬川を臨む左岸台地上の崖線(がいせん)に沿って走っています。
この鎌倉街道は、所沢市の鎌倉街道上道(かみつみち)より分岐しているとされ、柳瀬川にそって新座市中野地区から竹間沢(西武台高校の裏手~古井戸地蔵~ 泉蔵院脇)を通り、富士見市針ヶ谷、水子を抜け羽根倉で荒川を渡り浦和、与野を経て加須市付近で中道(なかつみち・奥州街道)と合流します。
そのためこの鎌倉街道は、上道と中道を繋ぐ脇道とする見方もあります。
もうひとつは、現在「藤久保かまくら通り」と呼ばれ、川越街道の東側をほぼ並行して走っています。
道は所々で失われていますが、竹間沢~藤久保を通り、大井(ふじみ野市)へ通じていたようです。



◎泉蔵院 

新義真言宗に属し、清龍山寿福寺泉蔵院といいます。
本尊に不動明王を安置します。
新座市大和田普光明寺の末寺で承応三年(1654)の創建とされています。
しかし、境内に板石塔婆・古式の宝篋印塔が存在することや、当寺がかつて建立されていたと伝承されるオクラヤマ(本村観音の西側付近)の地には多くの板石塔婆の出土が知られることから、開基は中世までさかのぼる可能性があります。



◎泉蔵院に残る宝篋印塔の残欠

泉蔵院本堂右手の墓地入口に、宝篋印塔の残欠(笠部分)があります。
隅飾突起(四隅の尖った部分)の角度などから、中世に遡る時代のものだそうです。フムフムφ(・_・
板石塔婆も探したのですが、見つけることが出来ませんでした。
ちなみに以前本堂を発掘したところ、やはり宝篋印塔の笠部分と五輪塔の火輪が出土しています。
これらも中世の時代まで遡る、との事です。

 


◎オクラヤマ(御蔵山)

泉蔵院の北西、竹間沢発祥の地の西側に、オクラヤマと呼ばれる場所があります。
伝承では、かつてここに泉蔵院があったといわれています。
そして板石塔婆が、ここオクラヤマと古井戸山に集中して出土しています。
年号の分かるもので、最古のものは弘安八年(1285年)です。
竹間沢が開拓されたとされる年代から、それほどかけ離れていませんね(。-_-。)
江戸時代には年貢を納める蔵があったそうです。

 


◎『竹間沢の城』の伝・曲輪跡

三芳町立歴史民俗資料館(以下資料館)の方に案内して頂きました。

ここは人の手によって削平された場所(曲輪)とのことです。
※伺った時の記憶がうろ覚えで、正確な表現・内容では無いかもしれません<(_ _)>
ここでは伝・曲輪跡としておきます。
曲輪の北側はバンバ(馬場)と呼ばれています。
ここを鎌倉街道が通っていたそうです。



◎泉蔵院近くの鎌倉街道

ここも資料館の方に案内して頂きました。
以前、この写真奥の民家の辺りに堀があったようです。
しかし案内して頂いた時にはすでに消滅してしまったようで、確認出来ませんでした。
また、どのような堀だったのかも不明です。ザンネン(o_ _)o


◎まとめ

長々と書き連ねてきましたが、これまで私が調べた中世の竹間沢についてまとめてみたいと思います(^^;


・中世の竹間沢に関する、文書(史料)は無い

・年号の分かる板碑は弘安八年(1285年)~永正年間(1504~20年)
永正八年(1511年)の題目板碑(日蓮宗と関係する)が古井戸山から出土

・年代は不明だが、中世まで遡る宝篋印塔・五輪塔の存在

・中世の古道(鎌倉街道)の存在
一つは鎌倉街道上道と中道を結ぶ脇道、もう一つは川越街道の東側を並行して藤久保~大井(ふじみ野市)へ通じる道
※大井には中世の集落跡(本村遺跡)がある。

・鎌倉街道に沿った、泉蔵院の北側にマツバ(的場)、南側にバンバ(馬場)、鎌倉街道から少し離れるが、資料館の西側にヤグラ(矢倉)等の城館に関する地名が残る。
また慶安三年(1650年)の検地帳には、谷合・井戸下・堀向・川田境・中嶋・井戸ノ上・屋敷ぞえ・針谷境くぼ・原地の字名がある。

・曲輪・堀などの遺構の存在

・発掘調査で、城館に関する遺構(堀・土塁等)は見つかっていない。

城館・支配者に関する伝承は無い。

資料館の方のお話では、泉蔵院の辺りに城館があったのではなかろうか、との事でした。
ただ現状の地形を見ると、泉蔵院の東側西側(竹間神社)の方が高い位置にあります。
また資料館の西に矢倉の地名があり、的場・馬場等の場所も城館に含めると、およそ500メートル四方を超える範囲となります。
村、あるいは土豪の城館としては、大きいのかなあ~・・・(‐_‐)
竹間沢の近隣の城館を調べてみると、柳瀬川沿いに滝の城(所沢市)と柏の城(志木市)があり、竹間沢は両城の中間地点に当たります。
また2つの鎌倉街道の存在などを考えると、以外と交通の要衝だったのではと、素人なりに考えています(^^;;

以上、素人の妄想を交ぜてまとめてみました。
もっと書きたい事があったのですが、収拾がつかなくなりそうなのでここで一区切りつけたいと思います<(_ _)>

記事いついては、私の間違いや聴き取り不足等、誤りがあるかもしれません。
お気づきの点等ありましたら、コメント頂ければ幸いです<(_ _)>

最後になりますが、資料館の方にはご多忙の中大変お世話になりました。
改めまして、ありがとうございました。

※今回の記事を作成するにあたり、以下の資料を参考にしました。

〇三芳町史(通史編)・(民俗編)
〇みよし町歴史散歩
〇みよしほたる文庫4 三芳の歴史
〇広報みよし みよし歴史探訪 文化財を訪ねて 各号
〇埼玉県入間東部地区の歴史の道
〇その他

 


久々の登場、旅レコの記録(^^;