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三日月堀のぶろぐ

お城・歴史の記事がメインのぶろぐです〈(_ _)〉

金尾要害山城の石積とつつじ

2017年04月24日 | 埼玉 城址

埼玉県大里郡寄居町の金尾要害山(ようがいやま)城に行って来ました~
金尾山に築かれた山城で、眼下には荒川を望み展望が抜群!
このお城の見どころは石積、特に二の郭南面の石積は並んで積んであるのが確認出来ました(^^*)

金尾山は「つつじ山」とも呼ばれ、春にはつつじでキレイに彩られます。
今が見所ですよ~(^-^)





~中世墳墓と城郭遺構が残る景勝地~ おしゃもじ山 埼玉県比企郡鳩山町赤沼

2017年03月29日 | 埼玉 城址

埼玉県立嵐山史跡の博物館発行のガイドブック『改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」』に、鳩山町の「おしゃもじやま」に堀が残っているとの情報がありましたので探検に行って来ました~

〇おしゃもじ山
今宿の北側の越辺川を眼下に見下ろす景勝の地で、物見砦に利用され堀の痕跡が一部に残ります。
西方の山麓を鎌倉街道が通り、街道を見下ろす山腹には中世墓がありました。
ここから、多数の板碑と蔵骨器が発見されています。
また別の山腹には小堂跡と思われる小平場があり、傍らには井戸跡もあります。
「おしゃもじ山」の名は麓に杓子母神社(おしゃもじ様)がまつられていることに由来します。
※『改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」 コース5鎌倉街道と苦林の宿』より

 

〇杓子母神社と傍らの板碑
おしゃもじ山は現在公園になっていて、南麓には鳩山町今宿コミュニティセンターがあります。
コミュニティセンター東側からおしゃもじ山へ登る道路を進むと右手に杓子母神社の祠があり、祠の中にはおしゃもじが祀られていました(^_^;)
「鳩山町史編さん調査報告書第3集 鳩山の地名」によると、杓子母神社は願い事が成就するとおしゃもじを供えるので「おしゃもじ神社」とも呼ばれているそうで、昔は頂上にあったそうです。
杓子母神社の道路を挟んだ山の斜面には「广安三年」の年号が刻まれた板碑がありました。
そして杓子母神社の裏手、道路に沿って掘割状の遺構がありました。

〇掘割状の遺構と小口?
「鳩山町史編さん調査報告書第7集 鳩山の中世」によると、おしゃもじ山は板碑が多数出土しており中世の墳墓群と考えられると同時に、斜面中腹に空堀を巡らせ尾根筋に小口をつくる山城であり、詳しい築城年代は不明ですが特徴から見て戦国期以前と考えられるそうです。
杓子母神社からおしゃもじ山へ登る道路の右側斜面に、堀切とも・竪堀とも思える掘割状遺構が道路に沿ってありました(写真上・中)
でも写真だと藪になっていてよく分からない、ですね・・・(^_^;)
今宿小学校との際には掘割状遺構に伴う土橋状の通路(小口?)がありました(写真下)
ただ「鳩山の中世」が指摘していた堀と小口がここなのか、ちょっと自信がありません(._.)

〇平場と池跡
おしゃもじ山の南側中腹に、平場(小堂跡?)と池跡と思われる窪みがありました。
この辺りから西側の斜面にかけては多数の板碑が出土し、規模の大きい中世墳墓群であると考えられるそうです(四反田遺跡)

〇おしゃもじ山から望む南方の遠景
おしゃもじ山の頂上には展望台があり毛呂山~坂戸方面がよく見渡せましたが、お城に関係しそうな遺構は確認出来ませんでした(._.)
鎌倉街道はおしゃもじ山の麓を通り南下して越辺川を渡り、毛呂山の苦林宿へ向かっています。

〇台の屋敷と今宿小学校
おしゃもじ山の東麓には台地が東に向かって突き出しており、現在今宿小学校の敷地になっています。
「鳩山の歴史 上」によると、ここの字地名は台の屋敷・さらに東は高在家の地名があり、史料はなく詳細は不明ですがこの一帯は中世まで遡る集落と考えられるそうです。
台の屋敷に居館を構えた武士がいたのでしょうか、おしゃもじ山との関係もチョット気になりますね(^_^;)
ちなみにおしゃもじ山は「峰」という字名があります。

〇国土地理院の空中写真(1949年1月11日撮影)を編集・加工
久しぶりに国土地理院の空中写真を張り付けてみました (^_^;)
おしゃもじ山の城郭遺構がいつ頃の時代のものなのかハッキリとは分かりませんが、「鳩山の歴史 上」では「太平記」を引用して笛吹峠の合戦で足利尊氏が本陣をおいた、としています。
おそらくですが太平記の「・・・峰ニハ錦御旗ヲ打立、・・・」の峰をおしゃもじ山の字名「峰」に比定していると思われます。
笛吹峠とおしゃもじ山の位置など色々と検証してみると面白そうですが、それはまたの機会に・・・(^(^(^^;)

〇参考資料
・ガイドブック 改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」 埼玉県立嵐山史跡の博物館
・鳩山町史編さん調査報告書第3集 鳩山の地名
・鳩山町史編さん調査報告書第7集 鳩山の中世
・鳩山町史編さん調査報告書第10集 鳩山の遺跡・古代窯業
・鳩山の歴史 上
・特別展解説図録 古道と宿の景観 毛呂山町歴史民俗資料館


大築城に行って来ました 

2017年03月19日 | 埼玉 城址

埼玉県比企郡ときがわ町と入間郡越生町にまたがる大築城に行って来ました~
大築城へ行くのは2回目、前回は越生方面から登ったのですが、今回はときがわ町の椚平から攻め込みました(^_^;)

今回確認したかったのは埼玉県立嵐山史跡の博物館発行の『改訂歩いて廻る「比企の中世・再発見」』に載っている本郭の石積遺構、それっぽい遺構はあったのですが、これでいいのかな・・・(?_?)


津之戸(津戸)氏館へ行って来ました

2016年10月03日 | 埼玉 城址

昨日は鴻巣市下忍角戸の津之戸(津戸)氏館へ行って来ました~
以前記事にした『企画展 発掘された中世遺跡 ー府中市西府の考古学ー 府中市郷土の森博物館』 現地の記事はまだ書いていないのですが(スミマセン)津戸氏の発祥の地とされている角戸と関連があるので今回行って来ました、詳細は後ほど・・・ (^-^ ;)
一緒に石田堤や、周辺の板碑(これがメインかも)も探検してきました。

写真は下忍千手院境内に建つ板碑です(-人-)


-新河岸川の水運の要- 城山(福岡城) 埼玉県ふじみ野市福岡

2016年01月25日 | 埼玉 城址

城山(福岡城)は「新編武蔵風土紀稿」に後北条氏家臣富永善左衛門の居館であろう、と記載されています。
城址は島状の自然堤防上に築かれており現在は西側を新河岸川が流れていますが、これは大正から昭和初期にかけて河川改修されたもので、それ以前は北~東~南を囲むように流れていました。
昭和30年の土地改良により現在はっきりと分かる遺構はみあたりませんが、発掘調査でいくつかの遺構や遺物が確認されています。

  
〇下福岡城山公園と城山遺跡の解説板

城山の本郭と思われる場所は公園になっています。
公園には城山遺跡と下福岡周辺史跡の解説板がありましたので、これを参考にしながら近辺を探検しました(^^)


〇発掘調査で分かった堀跡
平成17年度の発掘調査で幅12mもある広い堀が北から東へL字状に屈曲しているが確認されました。
公園には堀跡の隅を示す柱が5本設置されています。
また平成7年に住宅建設に伴う調査(公園の北方)では遺構として柱穴・土坑・井戸跡・溝などが、遺物は板碑片・陶磁器片そして土坑からは渦巻きカワラケが出土しています(e_e)
渦巻きカワラケは扇谷上杉氏の勢力下の南関東で出土する遺物で、お皿の見込み(表面)に渦巻きが表現されています。
発掘された遺構・遺物の年代は、13世紀~18世紀以降と幅広いものであったようです。
誰もいない公園で暫くの間妄想モードに浸ってしまいました(^^;

 
〇城山の鬼門除け天満宮(天神社)
伝承によると戦国時代に後北条氏の家臣で福岡を領地とした富永善左衛門が館の鬼門の方角を守護するために勧請したと言われています。
元の場所は現在地から200m程北東にあったようです。

 
〇たかまま周辺を流れる新河岸川の旧河道と城山周辺の伝承地名
城址の東側に新河岸川の旧河道が蛇行しながら流れていました。
城山周辺には伝承地名として戸開き(大手門)・たかまま(高馬場・いぬ(乾の方位)木戸・湯殿(屋号、地名)・屋敷・西街道などがあります。

  
〇下福岡共同墓地内(左)と道端(右)に残る板碑
城山公園北方にある下福岡共同墓地内には文明8年(1476)阿弥陀三尊と明応6年(1497)月待阿弥陀三尊図像の板碑があります。
※緑色の2つの石碑が板碑、奥が図像板碑
図像板碑は写真ではわかりませんが、10名の俗名が記されていて民間信仰の板碑だったようです。
新河岸川の河川改修工事の際に出土したそうです。
城山公園南方にある道端の板碑は釈迦種子が刻まれていますが、種子の両側の文字は追刻されたもののようです。
割れた板碑?は「明海阿闍梨」と読めそうですが、調べた資料には記載されていませんでした( -_・)?


〇城山西方の新河岸川より望む城山と
富永善左衛門
富永善左衛門は江戸城代富永直勝の甥で、伊豆時代からの北条氏家臣富永家の一族で西伊豆の土肥を拠点とした海賊的(水軍)性格をもつ一族です。
永禄2年(1559)の北条氏所領役帳では福岡の知行者として5人の名が記され、その内善左衛門が最も多くの貫高を知行しています。
また城山の1500m程西にある長宮氷川神社の記録には「後北条氏が崇拝し善左衛門に命じて神領を寄進した」とありこれらの史料や伝承などから善左衛門が城山を拠点にしていたようです。
善左衛門の伯父富永直勝が江戸城代に起用され善左衛門が福岡に知行が与えられた事は、江戸湾と荒川・入間川・新河岸川の水系支配(江戸~河越)と関係があったのではないかと考えられています。


〇国土地理院の空中写真(1947年11月08日 米軍撮影)
国土地理院の空中写真に市史調査報告書第7集「城山と富永善左衛門」に掲載の地名と堀跡を落としてみました。
現在の地図と見比べて見て下さい~(^^;

今回は城山と福岡の中世の歴史をチョットだけ掘り返してみました

〇参考資料
・上福岡市史(通史編上巻 自然・原始古代・中世・近世)
・上福岡市史(
資料編第1巻 自然史・考古)
・市史調査報告書第7集「城山と富永善左衛門」 上福岡教育委員会
・第60回歴民学習講座「城山遺跡の発掘調査と展示解説」 上福岡歴史民俗資料館
・第16回特別展示図録「地図が語る上福岡」 上福岡歴史民俗資料館

・埋蔵文化財の調査17 上福岡市教育委員会
・「上福岡の板碑」中世の石の文化  上福岡市教育委員会
・入間東部地区歴史地図「板碑と城館」 入間東部地区文化財保護連絡協議会
・埼玉県ふじみ野市文化財ガイド~先人からのメッセージ~ ふじみ野市教育委員会
・平成26年度シンポジウム「戦国時代は関東から始まった」資料集 埼玉県立嵐山史跡の博物館
・続・埼玉の城址めぐり西野博通著 幹書房
・伊豆水軍 長岡治著 静岡新聞社