緑には、東京しかない

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

初秋の大阪:西日本一のスーパーブランドブティック街「心斎橋」を散策する(2)

2012年09月22日 11時40分07秒 | 近畿地方の散策


道路幅が非常に広い長堀通りを西へ向かって歩き、四ツ橋交差点へ向かいます。始めから都市計画道路として建設された御堂筋と違って、都市内の運河を埋め立てて建設された長堀通りは非常に道幅が広く、幅15メートルの中央分離帯や幅の広い歩道が設けられるなど、散策していて非常に爽快でした。




前方に阪神高速道路の高架橋が見えてきました。あの高架橋の向こう側に四ツ橋交差点があります。この高架橋の通っている場所には「西横堀川」という名前の都市内運河が通っていましたが、阪神高速道路の建設工事に際して埋め立てが行われました。




JR大阪環状線の環状部のほぼ中心部に位置する心斎橋、この辺はオフィスビル街の密度が非常に多いと感じています。梅田、淀屋橋から本町、心斎橋、難波へと実際に歩いてみると、オフィスビル街の町並みの風景が全く途切れない様子に驚くことがあります(ちなみに東京都心部のオフィス街の密集度は、大阪のそれ以上だと思います)。




四ツ橋筋へ近づくにつれて、長堀通りの中央分離帯は緑地帯のような雰囲気を帯びてきました。この辺はオフィス街の雰囲気を保ちながらも中層マンションなどが所々に立っています。この辺の町域は大阪市中央区の「南船場4丁目」という地名になっていて、高架橋の先は「新町」地区となっています。




心斎橋地区(又の名前を「島之内地区」)は東を東横堀川、西を西横堀川、南を道頓堀川、北を長堀川に囲まれた地域で、人工の堀川開削によってできた島の内側であることから島之内と呼ばれていました。現在は「東心斎橋」「心斎橋筋」「西心斎橋」の三つの地区に区分けされています。




阪神高速道路の高架橋の下を渡ると長堀通りと四ツ橋筋が交差している「四ツ橋交差点」に着きます。ここから先は長堀通りから四ツ橋筋を南へ歩いてアメリカ村へ向かいます。




四ツ橋交差点の少し離れた場所では、かつて長堀川と西横堀川が十字に交差していた場所となっていて、交差する地点に「ロ」の字型に4つの橋が架けられていました。そのことから「四ツ橋」という名前で呼ばれるようになりました。二つの運河の埋め立てによって四つの橋は撤去されましたが、その跡地は長堀通りの中央分離帯として残っています。




四ツ橋交差点前からさらに西方向を撮影してみると、その先は大阪市中央区の「北堀江」と呼ばれている区域となっています。オフィス街である本町や、繁華街である心斎橋と隣接した立地であることから古くから商業地域として発達してきました。




長堀通りはこの先も広い道幅を保ったまま、大阪市街地を西へ向かって伸びていて、大通りの下には大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線のトンネルが通っています。




長堀川と西横堀川、二つの運河が交差している場所に架けられていた四つの橋の名前ですが、「上繋橋(かみつなぎばし)」・「下繋橋(しもつなぎばし)」・「 炭屋橋(すみやばし) 」・「吉野屋橋(よしのやばし) 」の四つです。「四ツ橋」の名前は「四ツ橋筋」「大阪市営地下鉄四つ橋線」に採用されているので、大阪市内では有名な部類なのでしょう。




四ツ橋交差点の中央分離帯の中央に立って、西長堀方向を撮影してみました。実際に立ってみると、やはり御堂筋よりも大通りの幅は広いと感じました。まぁ、御堂筋の方は沿道両側がオフィスビルや高層ビルで埋め尽くされているので相対的に狭いと感じるからなのかもしれませんが。




四ツ橋交差点から四ツ橋を西梅田方向を撮影してみました。四ツ橋筋はこの先で本町のオフィス街の中をまっすぐに北上し、肥後橋・渡辺橋で中之島を縦断したあと、JR大阪駅前に到達します。




西横堀川に架かる北の橋である「上繋橋」、同じく南の橋である「下繋橋」は1964年(昭和39年)に撤去されました。西横堀川が埋め立てられて、その跡地に阪神高速道路の高架橋が建設されたのと同時期です。江戸時代は水運の時代だったので、運が交差していた四ツ橋周辺は交通の要衝だったのでしょう。




長堀川に架かる東の橋である「炭屋橋」、西の橋である「吉野屋橋」は1970年(昭和45年)に撤去されました。炭屋橋の名前は島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来し、吉野屋橋は北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来しています。




四ツ橋筋をJR難波駅方向へ向かって散策していきます。




今回の心斎橋の散策ルートは、四ツ橋交差点から南へ下り、アメリカ村、ヨーロッパ村の中を通って再び新橋交差点に戻ってきます。そのあとは御堂筋を南下して道頓堀・心斎橋筋まで散策して終了です。

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初秋の大阪:西日本一のスーパーブランドブティック街「心斎橋」を散策する(1)

2012年09月21日 14時43分29秒 | 近畿地方の散策


大阪市営地下鉄御堂筋線の心斎橋駅を降りて、御堂筋と長堀通りがクロスしている「新橋交差点」にやってきました。どんよりとした雲に覆われていた一日目と違って、二日目の今日は快晴の天気に恵まれました! 今回は心斎橋周辺を散策してみたいと思います。心斎橋は東京でいうと銀座に相当する街で、西日本で一番格式の高い街となっています。




心斎橋はJR大阪・梅田駅から御堂筋線の南行き列車に乗って3駅目の心斎橋駅で降りてすぐです。地下駅である心斎橋駅に隣接して日本一の地下街である「クリスタ長堀」を抜けて新橋交差点にやってきました。平日の10時過ぎの心斎橋、そんなに人通りは多くはないように感じました。




東京の銀座と同じように、高級ブランドショップを中心とした専門店がこの心斎橋界隈に密集していて、大型百貨店やファッションビル、ビジネスホテルなどが集まっています。土日や祝日になると多くの人たちで賑わうのでしょうが、平日は静かな雰囲気であるのも銀座の町と共通していますね。




新橋交差点前の一等地に建っているのは2011年12月にリニューアルオープンした「ルイヴィトン大阪心斎橋店」です。心斎橋プラザビル本館の1階に入居しているお店で、外から見ると全体的に落ち着いた雰囲気のショップに見えました。




心斎橋の高級ブランドショップを中心とした専門店は御堂筋や長堀通りなど、大通りに面した場所や少し路地に入ったところに集まっています。シャネルやティファニーなど、スーパーブランドブティックはやはり御堂筋沿いのビルや百貨店内に多く入居しています。




心斎橋の街中を南北に御堂筋のイチョウ並木の大通りが縦断しています。秋の終わりから初冬にかけては黄色に染まった心斎橋を眺めることができるのです。ちなみに心斎橋から御堂筋を北へ向かうと本町・淀屋橋のオフィス街へ、南へ向かうと難波へ行くことができます。




長堀通りは東西に横断している片側2車線の大通りとなっていて、この通り沿いにも専門店などが多く立ち並んでいます。この長堀通りは高度成長期までは「長堀川」という運河だったのですが、埋め立てられて現在の道路になっています。そのため、長堀通りの交差点の名前は「○○橋」という名前が非常に多いです。




長堀通りの地下には1997年に開通した大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線の心斎橋駅やトンネルがあると同時に、長堀通の四つ橋筋から堺筋までの全長730メートルの部分の地下にある心斎橋周辺地下街「クリスタ長堀」が整備されています。地上の光を地下街に取り入れる構造になっているので、大通りの中央部分にはウェイブを描くような明かり取り窓が設置されています。




新橋交差点を南方向を撮影してみました。スーパーブランドブティックが多数入居しているファッションビルや大丸心斎橋本店の建物が密集して建っていますが、ここは銀座でいうと銀座四丁目交差点に匹敵する場所です。




長堀通りにはクリスタ長堀の地下街入口がすごく多く、約50メートル間隔で立っているように見えました。




長堀通りを西へ向かって歩いて四ツ橋交差点方面へ向かいます。




長堀通りはやはり都市部の運河を埋め立てて造成したためか、片側3車線の広々とした道路と幅が約15メートル以上の中央分離帯が設置されているので大変広々としています。歩道部分も大阪一の大通りである御堂筋よりも広く、こちらが大阪の町の目抜き通りなのかと思ってしまいました。




幅15メートルを誇る長堀通りの中央分離帯越しに道路の対岸を撮影してみました。繁華街であると同時に、オフィスビルなども多いと感じました。長堀通りの中央分離帯は緑地帯としての役割も持っているのではないかと感じました。




振り返って新橋交差点方向を撮影してみました。やはり専門店などは御堂筋周辺に集まっていて、新橋交差点から離れるほどオフィス街の雰囲気が強くなるように見えました。この辺りも中央通り沿道に専門店が集中している銀座と共通していますね。




とにかく、長堀通りは本当に道路なのかと錯覚してしまうほど道路幅が広い! 東京の都心部でもここまで道幅の広い大通りは見たことがないです。ちなみにこの長堀通りの地下に大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線の心斎橋駅があり、大阪市内の東西方向へ向かうことができます。




御堂筋と長堀通りのクロスが「新橋交差点」です。まだ長堀通りが運河だった時代に、御堂筋は「新橋」という名前の橋で長堀川を渡っていました。埋め立てられた後も交差点の名前として残ったのです。御堂筋を北側から淀屋橋、本町、南船場とオフィスビル街の街並みが南下するにつれて徐々にハイソな雰囲気になっていくと心斎橋のエリアに入ることになります。

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初秋の大阪:ホテルモントレ大阪「メリディアン・コンフォート」の客室に宿泊する

2012年09月21日 12時46分39秒 | 近畿地方の散策


西梅田・オオサカガーデンシティの一角にあるシティホテル「ホテルモントレ大阪」にやってきました。今回の大阪旅行ではこのホテルに宿泊します。




ホテルモントレ大阪はJR大阪駅から歩いて約5分ほどの場所にあります。




このホテルはオーストリアの首都・ウィーンの伝統的建築様式をヒントに内外装をデザインしたホテルとなっています。ちなみに大阪市内にもう2箇所ある姉妹ホテル、ホテルモントレ ラ・スール大阪(大阪ビジネスパーク)はニューヨーク、ホテルモントレグラスミア大阪(難波)は英国・グラスミアの様式となっています。




このビル(マルイト西梅田ビル)の低層階はオフィスビルとなっていて、ホテルのフロントは8階、宿泊エリアはその上の上層階となっています。




エレベーターホールからフロント周辺もヨーロッパ(ウィーン)調の内装に統一されています。




客室エリアのエレベーターホールも少し薄暗さを感じますが、外国にいるみたいです。




チェックインの際に受け取ったカードキーをエレベーターホールと廊下を仕切っている自動ドア前の機械にかざすと、自動ドアが開きます。カードを持っている人間でないと、廊下内にも立ち入れないシステムになっています。




廊下内も西洋風な作りになっていました。




カードキーで電子自動ロックを解除してドア脇の機械にカードを差し込むと室内灯が点きます。




今回、緑は一人で大阪にやってきて当然ホテルもシングルルームで予約していたのですが、なんとフロントの方がツインルームのお部屋を用意してくれました。24平米の大きな部屋を一人でくつろぐことができます。




部屋の内装や雰囲気だけでなく、テーブルや机なども西洋風のものに統一されています。




今回宿泊したお部屋は温もりのあるテラコッタタイルで南欧への憧れを表現した「メリディアン・コンフォート」タイプの客室でした。タイル張りの床や、木製の窓のある客室というのは初めて見ました。




ツインのベッドの毛布には「ホテルモントレ」のエンブレムが。全体的にすごく落ち着いた雰囲気の客室だったと思います。




ホテルモントレ大阪は、ハービス大阪、ハービスエント、ブリーゼタワーなどが立ち並ぶ西梅田のビジネス街の中で西洋風な外観を誇るシティホテルです。JR大阪駅・梅田には歩いて数分で行ける距離にあるので、ビジネスや観光目的などでは役に立つと思います。




ホテルモントレ大阪へのアクセスは、JR大阪駅のサウスゲートビルディング前か桜橋口から大阪中央郵便局跡地方面に向かってしばらく歩くと西洋風な建物が見えてきます。

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初秋の大阪:関西一の金融街の街並み「北浜~淀屋橋」を散策する(4)

2012年09月20日 20時50分40秒 | 近畿地方の散策


引き続き北浜1交差点から土佐堀通りを散策していきますが、今回は終点の淀屋橋交差点まで一気に進みます。約600mほど歩けば御堂筋・淀屋橋交差点に到着します。以前にも書きましたが、土佐堀通りの北側に建っているビル群の裏側は土佐堀川の水面となっています。




淀屋橋交差点に近づくにつれて、人通りが徐々に多くなってくる気がします。大阪市中央区の北浜の町域は土佐堀川の水面に沿って、東西に細長く広がっています。現在緑が歩いているのは北浜一丁目の区域です。東側(大阪証券取引所がある周辺)は北浜と普通に呼ばれていますが、西側(淀屋橋周辺)は北浜ではなく、愛称として淀屋橋と呼ばれることが多いそうです。




緩やかな右カーブの先には「北浜2交差点」が見えます。




土佐堀側沿いのオフィスビル群の奥には高さ200メートルの「中之島フェスティバルタワー」の巨大な建物が見えました。フェスティバルホールが入っている低層棟と、アウトチューブフレームを介してその上につながっている高層棟からなっているフェスティバルタワーの特異な外観は、遠くから見ても目立ちます。




「北浜2交差点」に到着、ここで三休橋筋と交差します。もう、緑の関心は真正面に建っている中之島フェスティバルタワーに釘付けとなっていました。




北側の中之島公園を見てみると、「大阪市中央公会堂」の赤レンガの建物が見えました。濃い緑に覆われた中之島の緑地帯の中に建っている中央公会堂は、絵になりますね。




銀行や証券会社のビル群の中を散策していきます。土佐堀通りは両側をビル群に囲まれているので、まるで谷間の中を歩いている感じです。




土佐堀通り沿いに建つビル群が途切れている場所が淀屋橋交差点となります。淀屋橋の周辺には京阪本線と大阪市営地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅(地下駅)があり、周辺は大阪市内で最も地下が高いエリアとなっています。




「淀屋橋交差点」で土佐堀通りは「御堂筋」と交差していきます。御堂筋は全長4027メートル、幅43.6メートル、全6車線の幹線道路で、日本の道100選のひとつに選ばれています。交通量が増加したため1970年、大阪万博の開催を機に国道1号・国道2号と交差する梅田新道交差点より南の全車線が南行きの一方通行となりました。




全線6車線の御堂筋にはイチョウ並木が植えられていて、11月の中下旬頃から色鮮やかな黄葉を楽しむことができます。6車線のうち、真ん中の4車線が本線となっていて、左右両側のそれぞれ1車線は右左折のための補助道路となっています。4車線の道路を自動車の列が一気に走り抜ける様子はいつ見ても壮観です。




御堂筋の大通りは「淀屋橋」で土佐堀川を渡っていきます。淀屋橋はパリのセーヌ川の景観を考慮して設計され、重要文化財に指定されています。後ろに見える建物は大阪市長である橋下さんが働いている大阪市役所です。淀屋橋周辺は市役所や日銀大阪支店、銀行・証券街や大手企業の本社ビルが密集しているなど、大阪の中枢の場所なのです。




中之島の中、大阪市役所の向かい側には「日本銀行大阪支店」の建物が見えます。1903年(明治36年)に竣工した花崗岩造りの建物で、江戸時代の島原藩蔵屋敷跡地に建設されました。東京の日本銀行本店がダメになったときは、ここで本店業務をバックアップできる体制になっています。




淀屋橋橋上から下流側を撮影すると、中之島に林立している高層ビル群を見渡すことができます。完成間近の中之島フェスティバルタワー、中之島ダイビル、関電ビルなど高さ100~200メートルの高層ビルが中之島の敷地の中に密集しています。




ズームで撮影してみると、錦橋・肥後橋や旧淀川の水面や中之島を通り越している阪神高速道路の高架橋が見えました。




淀屋橋から肥後橋にかけての土佐堀通りの南岸は住友グループ系列の建物が密集していることから「住友村」と呼ばれることがあります。正面に見えるビルは三井住友銀行の大阪本店が入っている「住友ビルディング」です。1926年(大正15年)に住友財閥の総本店として建設されました。




これで北浜~淀屋橋の散策は終わりです。地下鉄御堂筋線に乗って大阪駅へ戻りました。




淀屋橋という名前は地下鉄御堂筋線と京阪本線の駅名、それと橋の名前だけに採用されているだけで、淀屋橋という地名があるわけではありません。ですが、この箸の周囲一帯が愛称として「淀屋橋」と呼ばれています。大阪市役所に行くことを「淀屋橋へ行く」と呼ぶこともあるそうです。

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初秋の大阪:関西一の金融街の街並み「北浜~淀屋橋」を散策する(3)

2012年09月19日 17時38分21秒 | 近畿地方の散策


葭屋橋を超えて土佐堀通りを西へ散策していくと「北浜」界隈の中に入ります。周辺は銀行や証券会社を中心としたオフィスビル外となっていて、スーツを着たビジネスマンの人たちが非常に多いです。この先北浜1交差点前には「大阪証券取引所(通称「大証)」の巨大な建物が立っています。この辺は東京で言うと「日本橋・兜町」のような街なのです。




大阪証券取引所・北浜1交差点には京阪本線・大阪市営地下鉄堺筋線の「北浜駅(地下駅)」があり、交通の要衝としての性格もあります。土佐堀川の南側一一帯が北浜と通称として呼ばれることが多いそうですが、町名としての「大阪市中央区北浜」は土佐堀通(外北浜通)と内北浜通の両側町で東西に細長いエリアとなっていて、1丁目~4丁目まであります。




大証は金融商品取引所の一つです。「金融商品取引所」とは内閣総理大臣の免許を受けて金融商品市場を開設する金融商品会員制法人又は株式会社であり、金融商品取引所に上場される上場商品は有価証券又は市場デリバティブ取引のための金融商品等です。日本国内には東京、大阪、名古屋、札幌、福岡の各証券取引所と、大小が運営しているジャスダックがあります。




1743年(寛保3年)に金・銀・銭の取引相場を決める金相場会所が高麗橋より北浜へ移転します。江戸時代の貨幣制度は大別すると計数制と秤量制の二つがありました。金は両(りょう)、銭は貫(かん)、銀は秤ではかる匁(もんめ)などの単位で測られ、関西は銭、関東は金と流通範囲が自然に分かれています。独自に相場が立てられて取引に使われました。




その役割を担っていた金相場会所は明治維新後の貨幣制度改革によって廃止されます。その跡地には、米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が開設されます。これが前身となって、後の大阪証券取引所となります。




大阪証券取引所の正面玄関にやってきました。午後1時過ぎの時間帯ですと周辺はあまり人通りは少なかったです。




大証は日経225先物等、大証の株価指数先物の日本における取引シェアは約60%を占め、同オプション取引においてはほぼ100%を占めています。株券オプションにおいても、約85%のシェアを誇っています。また、デリバティブ取引の売買高ランキング(2008年)では大証は世界15位であり、26位の東京金融取引所や33位の東京証券取引所などを抜いて日本では最も上位にありました。




堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引と言われる等、大阪は昔から経済のレベルが成熟した町であると言われてきました。北浜は大阪市内においては「経済の中心」的な場所だったのです。ちなみに北浜という名前の由来は「船場の北の浜」であることから名付けられたそうです。




2011年11月22日、東京証券取引所と大阪証券取引所は対等の精神で経営統合することを正式に発表しました。大証が東証を吸収合併することによって2013年1月に「株式会社日本取引所グループ(仮称)」が誕生します。ここで重要なことは新しい組織の中心は東京ではなく大阪になるということであり、まさに日本の国のかたちが変わり始める一歩なのかもしれないですね。




正面玄関前には大証の前身である大阪株式取引所を設立した五代友厚氏の銅像が建っています。この人は薩摩(鹿児島)出身の武士でしたが、幕末に実業家に転身します(完全に民間人としてではなく、明治新政府の半役人のような立場だったそうです)。明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となります。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたりました。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し、初代大阪税関長となり大阪税関史の幕を開けます。




土佐堀通りと堺筋が交差している「北浜1交差点」です。堺筋も非常に交通量が多いです。




後に「政商」と言われるようになる五代氏は1878年6月に大阪株式取引所設立免許を取得し、同年8月より売買取引を開始します。翌年1月より株式の取引として最初の,大阪株式取引所株式の売買取引が開始されました。これ以外にも大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)や、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)なども五代氏が設立するなど、関西経済界の重鎮となっていきます。




現在の大阪証券取引所の建物は2004年12月に竣工した新しい建物です。1935年(昭和10年)に建設された旧取引所(市場館)の建物を全面建て替えの形で作り直すとともに(外観は保存されています)、地上24階建ての高層ビルが併設されています。北浜周辺には高層ビルが少ないので、周りから見ると目立つビルです。




横断歩道を渡って、堺筋の大通り越しに見ると確かに旧市場館の建物の雰囲気が忠実に再現されているようでした。




大証前で南北に縦断している堺筋は、大阪市内を南北に走っている片側4~5車線の大通りです。天神橋1交差点-日本橋3南交差点間は、起点方向への北行き一方通行で全5車線となっています。ちなみに約600メートル離れた西側に並行して走っている御堂筋は全線南行一方通行となっています。




堺筋は北浜1交差点の北側で旧淀川(土佐堀川と堂島川)と、その中洲である中之島公園を縦断していきます。中之島公園を挟む形で二つの橋が架橋されており、橋の名前は「難波橋」です。




地図の中心点は土佐堀通りと堺筋のクロスである北浜1交差点です。交差点脇に大阪証券取引所が有り、周辺は東京の兜町(東証がある場所)と同じように銀行や証券会社が密集しています。次回の記事では一気に淀屋橋まで進みます。

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