道路幅が非常に広い長堀通りを西へ向かって歩き、四ツ橋交差点へ向かいます。始めから都市計画道路として建設された御堂筋と違って、都市内の運河を埋め立てて建設された長堀通りは非常に道幅が広く、幅15メートルの中央分離帯や幅の広い歩道が設けられるなど、散策していて非常に爽快でした。
前方に阪神高速道路の高架橋が見えてきました。あの高架橋の向こう側に四ツ橋交差点があります。この高架橋の通っている場所には「西横堀川」という名前の都市内運河が通っていましたが、阪神高速道路の建設工事に際して埋め立てが行われました。
JR大阪環状線の環状部のほぼ中心部に位置する心斎橋、この辺はオフィスビル街の密度が非常に多いと感じています。梅田、淀屋橋から本町、心斎橋、難波へと実際に歩いてみると、オフィスビル街の町並みの風景が全く途切れない様子に驚くことがあります(ちなみに東京都心部のオフィス街の密集度は、大阪のそれ以上だと思います)。
四ツ橋筋へ近づくにつれて、長堀通りの中央分離帯は緑地帯のような雰囲気を帯びてきました。この辺はオフィス街の雰囲気を保ちながらも中層マンションなどが所々に立っています。この辺の町域は大阪市中央区の「南船場4丁目」という地名になっていて、高架橋の先は「新町」地区となっています。
心斎橋地区(又の名前を「島之内地区」)は東を東横堀川、西を西横堀川、南を道頓堀川、北を長堀川に囲まれた地域で、人工の堀川開削によってできた島の内側であることから島之内と呼ばれていました。現在は「東心斎橋」「心斎橋筋」「西心斎橋」の三つの地区に区分けされています。
阪神高速道路の高架橋の下を渡ると長堀通りと四ツ橋筋が交差している「四ツ橋交差点」に着きます。ここから先は長堀通りから四ツ橋筋を南へ歩いてアメリカ村へ向かいます。
四ツ橋交差点の少し離れた場所では、かつて長堀川と西横堀川が十字に交差していた場所となっていて、交差する地点に「ロ」の字型に4つの橋が架けられていました。そのことから「四ツ橋」という名前で呼ばれるようになりました。二つの運河の埋め立てによって四つの橋は撤去されましたが、その跡地は長堀通りの中央分離帯として残っています。
四ツ橋交差点前からさらに西方向を撮影してみると、その先は大阪市中央区の「北堀江」と呼ばれている区域となっています。オフィス街である本町や、繁華街である心斎橋と隣接した立地であることから古くから商業地域として発達してきました。
長堀通りはこの先も広い道幅を保ったまま、大阪市街地を西へ向かって伸びていて、大通りの下には大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線のトンネルが通っています。
長堀川と西横堀川、二つの運河が交差している場所に架けられていた四つの橋の名前ですが、「上繋橋(かみつなぎばし)」・「下繋橋(しもつなぎばし)」・「 炭屋橋(すみやばし) 」・「吉野屋橋(よしのやばし) 」の四つです。「四ツ橋」の名前は「四ツ橋筋」「大阪市営地下鉄四つ橋線」に採用されているので、大阪市内では有名な部類なのでしょう。
四ツ橋交差点の中央分離帯の中央に立って、西長堀方向を撮影してみました。実際に立ってみると、やはり御堂筋よりも大通りの幅は広いと感じました。まぁ、御堂筋の方は沿道両側がオフィスビルや高層ビルで埋め尽くされているので相対的に狭いと感じるからなのかもしれませんが。
四ツ橋交差点から四ツ橋を西梅田方向を撮影してみました。四ツ橋筋はこの先で本町のオフィス街の中をまっすぐに北上し、肥後橋・渡辺橋で中之島を縦断したあと、JR大阪駅前に到達します。
西横堀川に架かる北の橋である「上繋橋」、同じく南の橋である「下繋橋」は1964年(昭和39年)に撤去されました。西横堀川が埋め立てられて、その跡地に阪神高速道路の高架橋が建設されたのと同時期です。江戸時代は水運の時代だったので、運が交差していた四ツ橋周辺は交通の要衝だったのでしょう。
長堀川に架かる東の橋である「炭屋橋」、西の橋である「吉野屋橋」は1970年(昭和45年)に撤去されました。炭屋橋の名前は島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来し、吉野屋橋は北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来しています。
四ツ橋筋をJR難波駅方向へ向かって散策していきます。
今回の心斎橋の散策ルートは、四ツ橋交差点から南へ下り、アメリカ村、ヨーロッパ村の中を通って再び新橋交差点に戻ってきます。そのあとは御堂筋を南下して道頓堀・心斎橋筋まで散策して終了です。