
私「緑」が住んでいるホームタウンである「習志野台」の住宅地の中を散策してみたいと思います。習志野台は、千葉県北西部の下総台地と呼ばれている丘陵地帯に位置する標高25~30メートル前後の高台です。地理的には、千葉県船橋市の東部から八千代市の西部にかけて広がっている高台が一般的に「習志野台」と呼ばれているのです。

1月中旬、習志野台のほぼ中央に位置する東葉高速鉄道の船橋日大前駅です。東葉高速線は東京地下鉄東西線と一体的に運用されていて、習志野台地区から東京都心部まで約35分ほどでアクセスすることができます。駅周辺は完全なベッドタウンとして整備されています。

船橋日大前駅のロータリーから習志野台の住宅地を見下ろして撮影してみました。東京都心部まで40分以内でアクセスできる場所柄からか、古くからベッドタウンとして整備されてきました。近年では1996年(平成8年)の東葉高速鉄道の開通によってベッドタウンの面積が拡大してきています。

昔からの住宅地である北習志野周辺と比較して、船橋市と八千代市の境界線周辺は原野が20年ほど前まで残っていたのですが、ここ15年ほどで一気に開発が進みつつあるのです。現在駅前でも大規模な分譲マンションの建設が進められていました。

東葉線が開通した当時は、高架橋の脇は森林地帯や湿地帯に囲まれていたのですが、ベッドタウンの造成によってその雰囲気は一切なくなってしまいました。

船橋日大前駅から八千代方面へ向かって散策していきます。駅舎は谷津地形の脇の高台にあり、階段を下りて谷津の中に造成された住宅地へ向かいます。

坪井川という小さな小川が作り出した広大な谷津地形の中に分譲住宅地が密集して建てられているのを見下ろすことができます。

2004年から当地域の東部に住宅地の開発が進められてきました。「永住品質の街」をキャッチコピーに、「船橋美し学園」という非営利団体が主体となって坪井町全体に大規模な住宅地「芽吹の杜」を形成するというものです。総面積は約65.4ヘクタールで、計画人口は7200人(約2300戸)の予定です。

船橋日大前駅の西側(北習志野側)は東葉線開通前から住宅街や大学キャンパスの敷地として開発されてきたのですが、この谷津地形の中の開発が始まったのは約10年前だったのです。坪井川のせせらぎに沿って整備されている「せせらぎ歩道」に沿って歩いていきます。

坪井川は千葉県船橋市坪井町南部の調整池に源を発し、東葉高速鉄道橋の下を通り、駒込川と合流し桑納川と名を変えます。周辺は宅地化されていますが、高架橋の南側には開発以前の森林地帯がそのまま残されているのです。

開発以前の坪井川の周辺ではザリガニやホタルが普通に飛んでいたのですが、開発によってその面影はなくなってしまいました。川沿いには木や植物が植えられており、休憩する場も設けられています。日中は時間帯を問わず散歩を楽しむ人々が多いそうです。

「習志野台」の地名は1873年(明治6年)に大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺までの地域)で陸軍大将・西郷隆盛の指揮の下に行われた近衛兵の大演習を観閲した明治天皇によって同年に勅令が発せられ、習志野原と命名されたのです。その後、周辺にある軍郷を総称した広い地域が習志野と呼ばれるようになりました。

「習志野台」という地名を聞くと、多くの人々は船橋市の南側にある習志野市を連想されるかもしれないですが、本当の習志野台の地名のルーツは船橋市と八千代市に関係が深いのです。

数年ほど前に新しく整備された新道を歩いて八千代緑が丘方面へ向かいます。

橋の上からせせらぎ歩道と新築マンションの建設現場を見下ろしてみました。

東葉線の高架橋に沿ってしばらく住宅地の中を歩いていきます。この界隈は船橋市と八千代市の境目に当たり、今までは道路がそれほど敷かれていなかったのですが、いつの間にか新しい道が出来ていたりします。

10分ほど歩くと船橋日大前駅の一つお隣の八千代緑が丘駅前に到着しました。駅前には「イオンモール八千代緑が丘ショッピングセンター」の巨大な建物に圧倒されます。この後東葉線に乗車して北習志野方向へ帰ることにしました。これで私「緑」のマイタウンである習志野台の散策は終わりです。

習志野台は千葉県の北西部、東京都心部と県庁所在地である千葉市のほぼ中間点に位置しています。東京都心部までは直線距離で約25キロほどであり、完全な東京志向が強いベッドタウンの街並みが広がっています。

東京都心部まで電車で約35分ほどで行ける船橋日大前駅や北習志野駅周辺は大学の郊外キャンパスや住宅団地、新興住宅街など開発が進み、現在も人口が伸びているエリアなのです。今後も、たまに私「緑」のホームタウンである習志野台の散策の記事を載せていきたいと思います。

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