2011年6月5日(日) 21:00~21:58 再放送 6月13日
http://www.nhk.or.jp/special/onair/110605.html 今まで見ることのなかった原発内部の様子、事故当時の映像、そして責任を負う関係者へのインタビュー。時系列で出来事と当事者のインタビューをまとめており、初めて事故の全容が見えたように思います。長くなりますが、記録しました。
【遅れた緊急事態宣言】
●2011年3月11日 午後2時46分 マグニチュード9.0の大地震が発生。原子炉は緊急停止。大きな揺れにより発電所そのものが停電になる。
●午後3時42分 高さ15mの津波が襲う。非常用の発電機・バッテリーが水没し使用不可になる。国も東京電力も全電源の喪失は、想定外だった。
※原発技術者のインタビュー:電気も消えて、非常灯も消えて、「ああ、これは終わりかなと思った」
電源を失うと、核燃料を冷やす水を供給するポンプが止まり、原子炉が空焚きになるため、危険な状態になる。
★緊急対応ガイドライン)緊急事態発生の場合:東京電力は15分以内に原子力安全保安院に通報→官邸に通報し、総理大臣が直ちに原子力緊急事態宣言をすることになっている。
●午後4時45分 東京電力本店で事故対応の指揮を取っていた小森常務、国に緊急事態通報。
※小森明生(東京電力常務)インタビュー:当初、非常用の電力はまだ機能していると思った。
●午後5時30分 保安院から官邸に通報
※寺坂信昭(保安院長)インタビュー:情報の確認などに一定の時間が必要だった。
●午後6時12分 海江田大臣と菅首相との緊急事態対応会議にはいる予定が、党首会議があったため中断をすることになる。
※海江田万里(経済産業大臣)インタビュー:菅首相に緊急対応の手続きの説明をしている間に、党首会議が入ってしまった。
●午後7時3分 原子力緊急事態宣言発令
【"唯一の対策” 電源車作戦】
官邸地下の危機管理センター内で限られた人員で迅速に意思決定をすることとなる。
(総理大臣・官房長官・官房副長官・経済産業大臣・総理大臣補佐官・原子力安全保安院・原子力安全委員会・東京電力)
東京電力の要求:電源車の確保
※寺田学(総理大臣補佐官)インタビュー:事業者である東京電力からの要求なので、最善を尽くして電源車の確保にあたった。
※菅首相:電源車の確保をすべてに優先させろ
●午後9時すぎ 電源車到着 その後50台以上の電源車が集められた
※免震棟にいた技術者のインタビュー:ケーブルをつなぐのにもたついていた。電源を持ってくれば済むと思ってたんだろうけど、なかなかうまくいかなかった。
ケーブルが届かない、コネクタが合わないなどのトラブルが続出。
●午後10時すぎ 一部の電源がようやくつながる。しかし原発の電気系統自体の故障で、冷却装置は動かないことが判明。
※小森常務:「これが一番ショックでした。危機的な状況に入ってしまったと…」
※福山哲郎(内閣官房副長官):総理も私も電源を確保し冷却機能を復活させればと考えていたので、電源確保しか頭になかった。
【致命的なベントの遅れ】
原子炉建屋内での放射線量が異常に高くなったため、所長命令で立ち入り禁止に。
※免震棟にいた技術者:これは被爆は免れないと思いました。そのあたりからだんだん怖くなった。思ってたより事態は深刻だなと思った。
※斑目春樹(原子力安全委員会委員長):メルトダウンを起こさないために、一刻も早くベントを行うことを提案
★ベント)気圧を抜いて圧力を下げる操作。格納容器からつながる弁を開けるため、外部に放射能物質を飛散させ、周辺住民を被爆させる恐れがある。
●3月12日 午前0時すぎ 東京電力 ベントを決断(世界でも実施したことのない事態)
※免震棟にいた技術者:ベントは最終手段なので、ただごとではないと思った。
●午前1時半 政府 東京電力にベントを指示
●午前3時5分 海江田大臣・東京電力の共同会見にて、ベントを行うことを宣言。
しかし操作指示書には電動弁でのベント方法しか示されておらず、電源のない状態ではどのように作業するかがわからない。
設計図を開き、一から検討するしかなかった。暗闇の中で手動で弁を開く方法しかなく、そのために多くの時間が費やされた。
また周辺住民の避難の確認にも手間どっていた。
●午前4時 大熊町役場にに送信されたファックスの内容:原発から4.29Kmの地点での放射線量は最大28ミリシーベルトの被ばくが予測される。
※海江田大臣:なぜ指示を出したのにベントが行われないのかと、東京電力になんども要求したところ、大気中に放射能が飛散するというので、それでは国の責任の元でベントをしてもらおうと決断した。
●午前6時50分 政府、法律に基づきベント命令
菅首相、現場に向かう
※機内での菅首相と斑目委員長との会話:菅首相「ベントが遅れたらどうなるんだ」斑目委員長「化学反応が起きて水素が発生します。それでも大丈夫です。水素は格納容器に逃げます」菅首相「その水素は格納容器で爆発しないのか」斑目委員長「大丈夫です。格納容器は窒素で満たされているので爆発はしません」
※斑目委員長:私としては格納容器だけは守るべくベントをぜひやるように指示してくださいとずっと申し上げました。
★しかし、この時水素は格納容器から漏れ出していた。
●午前9時4分 ベント作業開始
放射線量は異常に高く20分しか作業できない。6人が作業に入った。作業員は最大106ミリシーベルトを被爆。
●午後2時30分 排気筒からの白い煙により、ベント実施を確認
●午後3時30分ごろ 1号機水素爆発
※斑目委員長:建物が水素爆発するとは思いませんでした。私の実力不足だと思いますが、あの時点で水素爆発を予測できた人はそんなに多くはないと思います。
※海江田大臣:こちらの意思が現場に伝えることができなかったことがたいへん残念です。
【問われる国民への情報伝達】
●午後4時ごろ 官邸:政府高官「爆発は本当なのか?」東京電力「見間違いじゃないですか?確認します」
確認が取れたのは5時ごろ。保安院に対し、官邸を通してから発表するよう厳しいチェックが入る。
※避難した女性:断水していたので、水をもらいに外で並んでいたら、背中で爆発音がした。「原発が爆発したから逃げろ」と言われた。
渋滞のため、30分で移動できる距離に4時間半かかった。放射性物質の流れる予想図は公表されなかったため、防災無線の指示に従い、放射能の高い方向に逃げてしまった。
●午後8時32分 菅首相会見:爆発の発表と避難の指示
避難指示は3Km、10Km、20Kmと拡大したが、安全に必要な情報は十分に住民に伝えられなかった。
【危機管理 止まらぬ負の連鎖】
●午後9時すぎ 菅首相、情報が錯綜する中、連携に不信感を募らせ、大学時代の友人にアドバイスを求める。
※日比野靖(内閣官房参与に任命):東京電力も保安院も原子力安全委員会も、これからどうなるかということについて、何も言わないことが、総理としては一番不満だったと思う。
●3月13日 午前5時10分 3号機冷却機能喪失
●官邸)午前11時ごろ 外部専門家たちが官邸に招集される。
※菅首相「3号機はこれからどうなるんだ」原子力プラントメーカー社長「3号機の建屋も爆発すると思います」「なんとか水素は抜けないのか」「建屋に穴を開けようとしても火花が散って引火のおそれがあります。無理です」
※東電協力会社幹部:シュミレーションでは爆発までのわずかな時間しかないという予測は出ていました。
現場でも情報が錯綜し、情報共有ができなくなっていた。
●3月14日 午前7時ごろ 自衛隊へ3号機への注水作業要請 水素爆発の危険性は伝えられず。
●午前11時1分 3号機水素爆発
※自衛隊員:車を降りようとした瞬間、爆風が右側から来ました。次の瞬間、上から瓦礫が落ちてきました。(隊員4人が重軽傷を負う)
●午後4時すぎ 2号機で弁が開かないためベントができない。核燃料露出まで1時間という予測が出される。
その夜 吉田所長より「みなさんどうもありがとう。状況はよくない。みなさんがここから出るのは止めません」社員70名のみが残る。
※東京電力社長 清水正孝より「現場から撤退したい」と、官邸に5回に渡って電話がかかってきた。
●3月15日 午前5時35分 菅首相、東京電力に乗り込む。「お前らふざけるな。このまま放置したらどんな事態になるか わかっているはずだ。撤退は許されない。60歳以上の人間は現場に行って、自分たちでやる覚悟を持て」
官邸の指示により東京電力に統合対策本部を設置。情報共有を図る。
●午前6時10分 2号機爆発
●午前6時14分 4号機爆発・火災
●事故1か月後 政府は事故の評価を「レベル5」から「レベル7」へ上げる。
●事故2ヶ月後 1号機は”初日からメルトダウン”と発表。
●避難住民 8万8千人
※斑目春樹:「3月11日以降のことが全部取り消せるんだったら、私はなにを捨てても構いません。3月11日以降のことを全部無しにしていただきたい。それに尽きます」
※海江田万里:「結果についてはすべて政治が負わなければいけないことですから、これからしっかりした検証が行われる中で、責任は取らなければならないと思っています」
番組制作にあたった取材後記も併せて読んでいただきたい。
取材後記:NHKスペシャル「シリーズ 原発危機」 (山崎淑行記者)
http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/100/85037.html