1965年に公開された映画”サウンド・オブ・ミュージック”は、リチャード・ロジャース、オスカー・ハマーシュタインⅡ世の代表作であり、またジュリー・アンドリュースのはまり役として、人々の心を魅了しつづけている名作です。この映画ではトラップ一家が亡命をするところで終わっています。
ドキュメント”サウンド・オブ・ミュージック~マリアが語る一家の物語”は、トラップ一家の次女であるマリア(母のマリアと同じ名前)に、その真実とその後のトラップ一家をインタビューしたものです。撮影当時、マリア・フォン・トラップは92歳。笑いと音楽の絶えない、ちょっとお茶目な女性です。そのアコーディオンを弾いて歌う姿は年齢を感じさせません。ケラケラ笑う姿は18歳の少女のままです。しかし、彼女の歩んできた道は決してなだらかなものではありませんでした。
サウンド・オブ・ミュージックの原作者は、彼女の母、マリア・フォン・トラップです。ロバート・ワイズ監督作品は当初、マリアの意にそぐわないものでした。夫の描かれ方に異論を唱えたとあります。一説によると、夫は実に温和な性格で、むしろマリアの方が奔放だったと言います。
この映画では世界恐慌は描かれていませんが、彼女が夫ゲオルグと結婚して6年後に起きたこのできごとで、貴族だったトラップ一家は銀行の倒産によって一文無しになります。マリアは家の部屋を神学生に貸して生計をやりくりしました。その後、ナチス政権の台頭により、反ナチスのゲオルグは、ナチスのために働くことをよしとしませんでした。古くからの一家の執事はナチス党員として、彼らを監視する役目を負っていました。しかしこの執事の勧めもあり、一家は亡命することを決心します。難民として1か所にとどまる権利さえ得られなかった家族は、ヨーロッパ中を転々とします。彼らにできるのは歌うことだけでした。その歌声は評判を呼び、エージェントの目にとまります。各地で彼らの歌は受け入れられましたが、米国では讃美歌だけでは興行的に受けません。そこでフォークソングなどのレパートリーを増やしながら、毎年毎年巡業を続けました。1938年に亡命し、アメリカの市民権を得たのは1948年です。その間に、アメリカの参戦によって、男兄弟たちは米軍戦士として、母国と戦うことになりました。「違うの、兄たちはオーストリアと戦ったんじゃなくて、ナチスと戦ったのよ」とマリアは言います。
残った父母と女兄弟で祖国の景色に似たバーモントに土地を買い、自分たちで家を建て、自給自足の生活を始めます。ライフ誌がその様子を特集したことで、彼らは一躍有名になります。1956年、それぞれの生活を始めたトラップ・ファミリー・シンガーズは解散します。次女マリアは42歳で宣教師として、パプアニューギニアに渡り、引退するまで過ごします。82歳になって、教師になりたいという男性を養子にし、彼と一緒に静かに暮らしています。彼女が今、手掛けていることは、オーストラリアの歌を編纂して、誰でも歌えるイラスト付きの楽譜を出版することです。
ちなみに、トラップ一家の三男は、このバーモントでトラップ・ファミリー・ロッジの経営者として成功しています。兄弟は今も時々集まるそうです。
「辛いなんて一度も思わなかったわ。ひとりはみんなのために、みんなはひとりのためにって、やってたから…お金はツボに入ってるから、必要だったらそこから使うの。お小遣いなんてなかったわ。みんながそれぞれ得意なことを割り振るのよ。それが楽しかった」
豊かさはお金に比例するものではなく、心のやわらかさに比例するものかもしれませんね。
※トラップファミリーロッジ http://www.trappfamily.com/
(写真はトラップファミリーロッジ)