Pianist 池田みどり

ピアニスト池田みどりの四苦八苦をまるごとお見せします。
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だって鯛の目を親戚中でしゃぶってるんですから、私、熱出ちゃったんです。

2016-08-10 | Diary

私の実家は質素でした。何せ母は質素な人でしたから、父がいないときには外食なんてしたことありません。
父は仕事が面白くてたまらないらしく、休日以外は接待だのなんだのって美味しいものをたらふく食べているようでした。
子供たちにとっては、外食は月に1度くらい家族でデパートのレストランでお子様ランチをいただくくらいで、小学校になったときに、スパゲティを食べさせてもらったときは感激でした。
ラーメンを外で食べたのは、母がめずらしく大判振る舞いして近所のラーメン屋に連れて行ってくれたのが初めてです。なぁんて美味しいんだろうって腰を抜かしそうになったものです。
だってそれまではインスタントラーメンしか食べたことがなかったですから。

結婚して新居に戻り、今夜は遅くなるって電話をしなくていいって思うと、夢のような「自由」ってものを手にした気持ちでした。こんな開放感はなかったですよ。
新婚旅行はダンナさんの実家のある九州に決めました。計画の苦手な若いふたりは飛行機のチケットだけ握って宮崎に飛び立ちました。私にとっての初の飛行体験でした。 
宮崎についてレンタカーで車を借りて、さてどこ行こうかって地図を広げて、最終目的は福岡だから下のほうからずうっと回ってけばいいかってことで、阿蘇あたりを目指しました。
1月でしたからすぐに、どっぷりと日は落ちて真っ暗になった細い山道を走行するうちに、霧は視界をさえぎり自動車事故を目撃して、生命の危機を感じて、霧島温泉で一泊することにしました。
 
次の日はホテルが見つからない。田んぼ道ばかり続いたドライブでなぜかラブホテルが。今日はラブホテルにお泊りだぁ。鶏舎のように赤いランプのチカチカする部屋だった。
翌日は天草に渡ったところでドライバーは力尽き、たまたま通りかかった老舗旅館に駆け込み、「夕飯も食べてないんです」って泣き顔を見せたら、遅いのに夕飯を用意してくれたっけ?
すっかり元気になって翌朝、いい調子で田んぼ道をすっ飛ばしていたら、パトカーに止められちゃった。「いやに元気な車がいるなって思ったら、やっぱり東京から来たの?」「はい、新婚旅行で」「おお、それはそれは・・・しょうがないな、新婚さんじゃ、見逃してやるか」
なぁんていい人たちなんだろう、九州の人たちって!(九州にだって東京にだって、いい人もいれば悪い人もいるけど、こういうときにはこう思うのがしあわせってもんだ)

最終目的地の福岡のダンナの実家は早岐の坂の上にあり、お料理もお掃除もカンペキ主婦で体格もでかい太っ腹義母さんが待ってくれていた。お義父さんは目を細くして若い嫁を歓迎してくれた。
さて、今夜は親戚が集まって料亭で一席設けようという趣向。だいたい私は料亭なんぞは行ったことがない。
「私長崎ちゃんぽんでいいよ」「駄目だよ、もう予約しちゃってるんだから。親戚みんな集まるんだから」

立派な料亭の1室でたくさんの親戚に囲まれて、おいしいお膳が次々と出てきた。そして最後に出てきたのが鯛のうしお汁。
透明な汁の中から少し禿げかけた大きな目がこちらを見ている。ぜったいに恨めしそうな眼差しなんだ。
そんな私の動揺をよそに、親戚中が始めたのは、この目をくりぬいてチュッチュとしゃぶるという異様な動作。
まるでここは原始の国だ!私はこんな野蛮な人たちのところに嫁いでしまったんだ。今更後悔はできない・・・・
その夜、私は何度もトイレに駆け込み、戻してしまった後、熱を出してしまった。

翌日、ふとんで丸くなって寝込んでいる嫁をよそ目に、また親族たちは外食にと出かけた。
ひとりで留守番をしながら、家族の伝統の違いに、絶望的なカルチャーショックを感じたのだった。 
暗雲垂れ込める新婚生活の始まりだった。

今日の動画はElla Fitzgerald & Joe Pass の”You turned the tables on me"
このアルバム大好きで、ふたりでよく聞いてました。思い出のアルバムです。


キスしたら鐘が鳴ったんです。

2016-07-23 | 音楽

最近友人たちに逢うと、「ブログ読んでるよ」ってよく言われます。次のが読みたいとも言われます。
「面白い」とも言われて、うれしいんですが、本人にとっちゃ面白いだけじゃなくて、結構、私のジンセイ、タイヘンって思ったりもします。
みんな、そんなタイヘンなジンセイ、背負ってるんですよね。

さて、話は前後します。

一目惚れしたジャズ研の一年先輩は、みんなから慕われる親分肌の人でした。
私はそのころ、ベリーショートの男の子みたいな髪型でベレー帽なんてかぶっちゃって、「オイラ」って自分のことを呼んでる、変な女の子でした。
駒澤大学キャンパスのジャズ研の部員勧誘出店で、私の後姿を見つけた彼は「この人誰?」って言ったんですが、それで私には恋の雷が落ちた。 
確かな予感があったんです、「これはきっと運命よ」って。
翌日のジャズ研の部室で会ったとき、私はもうキンチョーしちゃって声もかけられなかったんです。
ところがあちらから気軽に声をかけてくれて、もう一人入部したピアノの女の子とともに、部員全員が私たちを大歓迎してくれたわけです。
その頃のジャズ研はビッグバンドだったんですが、終わってから有志が集まって、トリオなど練習をしていました。
ギターを弾く彼とは、よく歌の伴奏をしてもらって、急接近していったわけです。
部活動が終わるとみんなで一緒にジャズ喫茶に行って・・・と一日中一緒にいるような状態でした。 

お酒を飲んだこともほとんどなかったんですが、(喫茶店だってほとんど入ったことがなかった、不二家パーラー以外は)
新入生歓迎会ということで初めての居酒屋。そしてせきを切ったようにいろいろなお酒の出る店に先輩たちは連れて行ってくれました。
だって、二十歳になったら、お酒飲んでみたいわけですよ。どのくらい飲めるのか確かめてみたいわけですよ。
何せ加減がわからないから、ロック7杯!飲んでしまって、酩酊した状況で電車の座席に伸びて寝ては「みんな真面目な顔しちゃって~」と、くだを巻くような、ろくでもない女子大生となったわけです。
家にも帰れないので、先輩が家まで送り届けてくれたことがあり、(これは恋の相手ではなかった)彼は両親に歓迎され、実家に泊まったことがあります。
両親はこれはみどりの恋人ではないかと大きな勘違いをしていたようです。

さて、私自身は恋の気分はひとりで盛り上がっており、彼が視界のどこかに入ってしまったものなら、もうドキドキで、アドレナリンをコントロールすることさえできない状態だったのであります。
でもだんだんと打ち解けて、やっぱりこの人は運命の人って思うようになり、向こうも私を意識するようになりました。
初めて彼の代田橋のちいさなアパートの家に友達と行ったときは、まだお姉さんと暮らしていて、あたたかい生活の匂いがしました。
お姉さんは九州の実家に帰り、彼の家にひとりで行くことになりました。
オトコの人の部屋にひとりで入るのも初めてだったし、キンチョーもしたけど、それ以上に恋する女の子だったから、大胆な女子大生と変貌できたのでしょう。
彼はJohn Coltraneの名盤”Ballads"をよくかけてくれて、そんなロマンティックな雰囲気の中で、初キッスをしたのでした。
そしたら、鐘が鳴ったんです。キスしたら鐘が鳴ったんです。目が回ったんです。

彼には当時、高校の頃から付き合っていた彼女がいました。そんな話は先輩たちの間でも交わされていたので、私も気にしてはいました。
でもキスをした少し後、少し経ってから、「婚約は破棄したから」って言われました。
こうやってふたりは恋路を歩むようになるのでした。

だんだんと大学には行かず、部室と代田橋の往復になっていき、通い妻としての自覚を深めていったのであります。
アパートの隣の部屋にはジャズ研の同期のドラマーで坊主の息子が引っ越してきて、いつも3人で飲みに行ったり音楽の話しをしたりしていました。
ある日、その坊主の息子が「面白い飲み屋見つけた」って言うので、3人で行ってみることにしました。
木造りのDIY風でなんだかアンダーグラウンドなそのバーは、池ノ上にあって、一度見たら忘れそうにもない女の人と、背の高い男の人のふたりでやっていました。
また開店したばかりのそのお店の名前は、悪魔の「魔」に「人」って書いて、「魔人屋(まんとや)」と言いました。
そこから、今に至るまで、魔人屋さんとのご縁が続いています。

●毎週土曜日  魔人屋(まんとや)でライブやってます。
POCO(Vo),池田みどり(Pf),Tsukasa(Bs),他…
Live Time ; 21:00~23:40
TEL:090-8742-5851
http://mantoya-ikenoue.blogspot.com/


今日の動画は、キスしたときにかかっていたJohn Coltraneのアルバム "Ballads”から。


蕁麻疹の花嫁と揺れるウェディングケーキ

2016-07-08 | Diary

雷みたいに落ちてきた恋は、4年越しで実り、結婚の運びとなった。

ジャズ研の部長と部員の結婚である。

もちろんそれまで平穏無事だったわけじゃない。だいたい、彼には婚約者がいたし・・・

私を選んでなぁんて、一度も言ったことないけど、彼は私と結婚する運命を感じたみたい。で、私もそうだったから、結婚を決めた。

実家の親には反対されたり、いろいろあったけど、そこらへんはまた書くことにしましょう。

 

さて、双方の親同士が会ってみると、話はとんとん拍子で、親のほうが乗り気になってた。

私はまだ23歳で、他人の結婚式だって出たことがないから、わけのわからないまま事は運ばれてた。

実家の母は兄より先に嫁ぐ娘を出しに、婚礼道具の買い物に精を出していた。

もともと質素な母だから、こんな買い物したことがない。普段のストレスを発散するかのように買いあさっていた。

婚礼布団を買った布団屋で見つけたのが、スケスケオーガンジーのネグリジェ。まるで昔の映画にでてくるような・・・

なぜかそんなものまで買いこんで、結婚式を待った。

 

あちらのご両親が九州から出てきて、お食事しましょうというので、滅多に食べたことのないステーキをご馳走になった。

その夜、なんだかたまらなく痒い。医者に見せたら「蕁麻疹だね」・・・一生に一度の蕁麻疹になった。

 

結婚式は青山にあった青山会館で1978年1月14日に執り行われた。

あちらの参列者は親族がずらっと並び、こちらの参列者はミュージシャンや飲み屋の常連が並び、実に対照的だった。

神前式の挙式には打ちかけと豪華絢爛。カツラ合わせをしたはずなのに、カツラがめちゃめちゃきつくて痛い。

涙目になってたら、お世話をしてくださってる従業員から「感動してらっしゃるんですねぇ」。「いえ、カツラが痛いんです!」

お色直しのウェディングドレスは若いお嬢さんに似合うパフスリーブだった。そこからのぞく細い腕には赤くただれた蕁麻疹。

ウェデングケーキ入刀の時に、いきなり会場が大きく揺れて、みんながざわめいた。ケーキも波打っていた。

それは未来を予想するような「伊豆大島近海の地震」。マグネチュード7.0の直下型の地震だった。

エレクトーン奏者が入っていたけど、あまり上手じゃなくて、私の参列者から「あなた、弾きなさいよ」って言われる始末。

代わりに新郎新婦で歌ったのが、「かえるの歌」・・・なぜだろう?なぜ「ゲッゲッゲッゲッゲッ、ゲゲゲゲゲゲゲゲゲッゲッゲッ」って歌ったんだろう?

その夜、スケスケネグリジェを着た蕁麻疹の花嫁から、逃げ回る新郎がいた。

 

ハリー・ニールソンの「夜のシュミルソン」というアルバムが大好きでよく聞いていた。

その中でもお気に入りだった”Making' Whoopee"。辛らつな結婚の現実を歌った歌。


水商売は礼儀です。

2016-07-01 | Diary

初仕事は八重洲のバーだった。バー自体ほとんど入ったことがないが、清潔でおしゃれなカウンターに気のいいバーテンさんがいた。

ここでは弾き語りをさせてもらった。まだマイナーとかメジャーとか時々間違えて弾いていたけど、歌でカバーしていた。

そんなこんなで少しずつ弾き語りの仕事や、時には単発のボーカルの仕事など入ってきていた。

駒大のジャズ研には通っていたけど、だんだんと音楽の仕事が多くなってきて勉強と両立することが難しくなってきていた。

そこで、1年の秋には、大学中退を決めた。

 

そんなころ、ボーカル教室の関係者が初めてのボーカルの仕事を紹介してくれた。先生の関与するところではないので断っておく。

それは銀座・泰明小学校近くの小さなお店だった。ボーカル仲間何人かでその店に視察に行った。みんな初仕事ということでドキドキしながらもワクワクしていた。

金華山のソファーにしっかりしたテーブル、それにカウンターがあり、アップライトのピアノがあった。

オーナーは和装の麗人、そして店長はシャンソン歌手。美輪明宏さんに師事していたという。ピアニストは、当時シャンソン歌手の憧れの銀巴里のレギュラーピアニストだった。

店に入っていくと、すぐに控え室に通され着替えさせられた。それぞれのサイズのオーガンジーの清楚なワンピースが用意してあった。

「ええ?なんでこんな服着るの?」「わかんない・・・。ま、とにかく着替えよう」

みんなが着替え終わると、カウンターに並んで座らされた。

「これからバーテンさんがみなさんにお仕事の説明をします」

ひげの生えた人のよさそうなバーテンさんがみんなを見て最初に言った言葉がこれだった。

「水商売は礼儀です」

お客様が入った入らしたときのご挨拶から、座り方、マッチのすり方、お酒の作り方までを教えてもらった。

私たちはじっと聞きながら、「ええええええ????? だって、歌の仕事でしょ?」

はてなマークがいっぱい。

ずいぶん辞めた人も多かったけど、私は歌えればよかった。だから半年くらい続けた。おかげで人間観察ができた

そのころはバブルでわけもわからないのにチップをくれる人が時々いた。だいたいが一万円札だった。

 

歌のレッスンは続けていた。初めての発表会はまだ10代だったように思う。

Billy Holidayの”Fine and Mellow"を弾き語った。今思えばよくこんな艶っぽい歌を歌ったもんだ。

そして何回目かの発表会では”But Beautiful"を歌った。

このころはうわさが広まって、ジャズ評論家のイソノテルヲさんもスウィングジャーナルにこの発表会の寸評を書いていて、「センスはさすがだ」といううれしい言葉をいただいた。

その後、イソノさんからお電話をいただき、彼が経営する自由が丘の”ファイブスポット”というライブハウスの出演依頼だった。

一度そこにも行ったけれど、「こんなサラリーマンばっかりのところでは歌いたくありません」って断った。

今じゃそんな偉そうなこと、とても言えない。

 

今日の動画はTonny BennettとLady Gagaの”But Beautiful"。本当はTonny Bennett & Bill Evansのデュオにしたかったけど、レコードジャケットだけじゃ面白くないものねぇ。

<!-- Tonny Bennett, Lady Gaga "But Beautiful -->


恋人に喋るように歌いなさい。

2016-06-24 | Diary

青山のジャズライブハウス”ロブロイ”では、ママからの紹介で、中富雅之さんというピアニストに預けられることになった。

中富さんの父親は往年の名俳優、大友柳太郎さん。ご自宅に呼んでいただいて、大友さんにご挨拶をしたことがある。かくしゃくとして実にハンサムでオーラのある方だった。

息子である中富さんもハンサムでいつも音楽を熱っぽく語る人だった。ピアノを弾くときは踊るように背中が音楽を語っていた。

中富さんと初めて会ったのは青山骨董通り近くの喫茶店だった。楽譜を見せるとすぐにコードを片っ端から直してくれた。その後、何回かふたりでリハーサルをした。

それからは、私を毎日のようにいろいろなライブハウスに連れて行ってくれて、たくさんのミュージシャンに紹介してくれた。

時には当時もっとも人気のあった六本木ミスティで山本剛さんのピアノを歌わせてもらったり、まだ日本で活躍をしていた私が大好きな男性ジャズシンガー森山浩二さんにも会わせてくれた。

大学生の私にはめくるめくような日々だった。音楽だけを感じて、音楽だけに生きている日々だった。中富さんのおかげで、一生のうちでいちばん音楽に熱い時期だったかもしれない。

ある日、彼も尊敬するドラマーのDonald Bailyとも共演させてもらった。

Donald Bailyはコルトレーンとも共演しているが、一番有名なのはJimmy Smith Trioでの長い活躍で、サラ・ボーンやエラなど多くのレジェンドたちとも共演している。彼自身がレジェンドでもある。

ステージが終わると中富さんを真ん中にDonaldと話をすることになった。そしてそれまで寡黙だったDonaldが私に言った。

「恋人に喋るように歌いなさい」

いつも中富さんからもがんばって歌わないようにと言われていた。練習のしすぎとも言われていた。

そんな折、レジェンドから言われたその一言は心に突き刺さった。

今でもその言葉は忘れない。

 

今日、このブログを書くために、Donald Bailyと中富雅之をネットで調べた。

Donald Bailyがこれほど伝説的なドラマーということを当時は知らなかった。そして2013年に亡くなったことも知らなかった。

中富さんには長年お会いしていなかった。連絡を取ってみたが音信普通だった。今日、2011年に亡くなっていたことを知った。

たくさん面倒をみてもらって、たくさんご迷惑もおかけした。私にとっては師匠と弟子以上だった。

大事な言葉と思い出をもらった、おふたりに感謝したい。

合掌。

Donald Baily(ドラマー・ハーモニカ)  https://en.m.wikipedia.org/wiki/Donald_Bailey_(musician)

中富 雅之(作曲家・ピアニスト)      http://ameblo.jp/imagememo/entry-11067188252.html

 

<!-- Ann Burton ”Someone to watch over me" From Album "Blue Burton" -->

 

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池田みどり オフィシャルホームページ ”音楽があなたの心にできること”

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初ステージの共演は渡辺香津美だった。

2016-06-18 | 音楽

大学のジャズ研にだんだんと慣れてきて、毎日学校を通り越して、砧の部室に通い続けていた。

ボーカル教室も通い続けていたから、ビッグバンドの練習が終わると、ギターで伴奏してもらって、歌ったりしていた。

先輩からはとにかくいろいろ教えてもらった。だいたい、この頃の先輩って言うのは面倒見がよくって、教えたがりだった。

部活が終わると、三軒茶屋の「だんも」ってジャズ喫茶で200円の珈琲でレコードをたくさん聴いた。マイルスとかコルトレーンが多かった。そのころのジャズ喫茶はおしゃべりすると怒られたもんだ。

ジャズボーカルのアルバムコレクションをしている先輩がいて、ときどき訪れてはアニタ・オデイ、エラ・フィッツジェラルド、ジュリー・ロンドン、クリス・コナーなど女性シンガーをたくさん聞かせてもらった。

家ではピアノの練習もしてたから、だいたいの楽譜は弾けるようになっていた。弾き語りは楽しかった。際限なく片っ端から弾き語ってみてた。

 

さて、1年生の秋、初めてのジャズ研のコンサートを青山タワーホールで行うことになった。顔の広い先輩がゲストを呼んでくれた。

鈴木勲(Bs)のグループは当時、渡辺貞夫グループの登竜門として知られていた。

今回のゲストは鈴木勲カルテット。メンバーは、鈴木勲のチェロ、渡辺香津美のギター、川上修のベース、守新治のドラム。

1年生なのに、なぜか私が司会をやることになっていた。楽屋に行って、ゲストに挨拶をした。

鈴木勲さんが「誰か歌えるやついないか?」っていうから、「私、歌えます」って答えた。

「じゃ、今から歌え」  「はい」

いきなりゲストコーナーで、司会やってた女子大生が、鈴木勲グループをバックに歌ったものだから、お客さんは口をぽかんとしていたに違いない。

でも、わたしはめちゃくちゃ気持ちよかった。だってこんな気持ちのいいグルーブ感で歌える経験なかったから。

それが人前で歌った私の初ステージ。

コンサート後に楽屋にお礼に伺った。

「おまえ、面白いから、うちのバンドに来い」  「はい」

 

新宿のタローとか数箇所でこのバンドで歌わせてもらった。やっぱりお客さんはぽかんとしていた。

鈴木勲さんはわたしを青山にあった「ロブロイ」に預けてくれた。

ロブロイのママも私を聞いて、「面白い」って言って、レギュラーで出演させてもらうことになった。

 

今回の動画は、初ステージで歌った曲 "Willow weep for me"

 

 

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ライブ情報、アルバム視聴など。レッスンの情報もご覧ください。


コードっておもしろい!

2016-06-15 | 音楽

駒沢大学ジャズ研はビッグバンドで、カウント・ベイシーやデューク・エリントン、サド・メルなどのクラシカルなナンバーをやっていた。

別に指導者がいるわけじゃないから、少しわかる先輩は、みんなの尊敬を集めてた。

新人は知らないことばかりだから、知識欲やら上手くなりたいやらで、先輩にくっついて、なんだか必死な気分が伝わってきた。

仏教大学だから坊主のタマゴが何人かいた。きっと彼らの木魚はスウィングしてるに違いない。

 

ピアノは女性の先輩がひとりいた。私ら新人はとにかく横に座って手元をみてるしかない。

「わぁ、こんなアルファベットでよく弾けるなぁ・・・」

「これね、コードっていって、たとえばCってコードはド・ミ・ソなのよ」

「ええ?!、じゃ、これはなんですか?」

「これはDっていって、レ・ファ#・ラよ。音階の1度、3度、5度の和音なの。」

ゲゲ!オモロイ!!

 

当時、ジャズのスタンダードナンバーの楽譜はなくて、海賊版が出回っていた。要するに著作権取ってなくて、マニアの人がこつこつ作った楽譜集ね。

「1001」(せんいち/ 1001曲収録されてますって意味)「306」(さぶろく)「ジャズ8」(ジャズエイト/ これは8曲だけじゃない)

この楽譜を先輩に教わって、秘密の楽器店に買いに行った。

早速家で片っ端からコードを練習した。

最初はマイナーとか7thとかよく弾けなくて、特にフラットやらシャープが付いちゃうとお手上げだったけど、だんだんと慣れてきた。

だって、学校も行かず、一日中ご飯を食べるかお風呂に入るか以外はずっとピアノ弾いてたから。

歌は歌えたから、弾き語りもずっと練習してたよ。

 

半年後、弾き語りで仕事してた。二十歳になってすぐのころ。それがキャリアの始まりね。

まだちゃんとは弾けなかったけど、若くてピアノが弾けて歌も歌えるっていうので、結構仕事があった。

忙しくなったから、学校は1年半で退学した。

 

お気に入りの「さぶろく」の1曲目はErrol Garner作曲の”Misty”。 今日は本人による演奏の動画。

 

 


恋は雷みたいに落ちてくる

2016-06-13 | 音楽

駒沢大学の入学式は御三尊といわれる仏像のある講堂で行われた。ありゃ、私って仏教大学に入学しちゃったのねって思ったりして。

入学式が終わってから外に出るとたくさんの入部勧誘の出店が出てた。さまざまな勧誘を振り切って、一目散にジャズ研を探しに。

やっとみつけたジャズ研の入部勧誘デスクは、他の部と違ってただ机がふたつあって、まったりとしたおにいさんたちが日向ぼっこしてた。

「あのう、ジャズ研に入部したいんですけど」

いきなり目の色が変わったおにいさんたち、立ち上がり、「え、ほんと?!」

さっそく名前と連絡先を大学ノートに書いて、明日から行ってみることに。

さて、帰ろうと思って振り向いたとき、後ろから「あの人誰?」って声が聞こえた。

なぜかわからない。でもその声に雷に打たれたみたいなショックを感じたの。

あんまり自分でもびっくりしたから、振り返ることもできなかったの。

翌日、ジャズ研の部室に行き、メンバーたちに紹介してもらっているところに、その声の主があわられた。

そんなにハンサムじゃないかもしれないけど、「あ、この人だ」って運命を感じたの。

わけがわからないの。でもたしかに運命を感じたの。

恋は雷みたいに落ちてきたの。私にはそうだったの。

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家出先で聞いたデューク・エリントンのバースディ・コンサート

2016-06-11 | 音楽

悶々としてたんです、私の高校時代。今考えれば、それが青春ってものだったのかも・・・

フォークソングクラブに入ったり、社会研究部に入ったり、生徒会の書記やってみたり、支離滅裂ですよ。

だからジャズに出逢って、もうこれしかないって、のめり込んだんですね。

家族はいつも喧嘩ばかりだったから、家にいるのがつらかったのもある。だから家出しようって思った。

大学ノート2冊に自分の考えというか考察を書き綴って、それを残して、部屋のものはすべてきれいに捨てたのね。

質屋さんに服を持っていったら、「帰ってくるんでしょ。預かっとくよ」って受け取ってくれた。いい時代ね。

行き先がないから、なんと兄の女友達のお家に泊めさせてもらったの。ご家族も心配しながら何も責めたりはしなかった。

ドキドキのその夜、そのお宅で見たのが、デューク・エリントンのバースディ・コンサートだった。録画だったのかも。なんだか心に染み入って、やっぱりジャズっていいなって思った。

翌日、母から電話がその家にかかってきて、泣きながら「おばあちゃんが心配してる」って言うの。

3ヶ月も準備した家出だったけど、「おばあちゃん」には弱い私。そそくさと家に帰ったの。こういうところが意気地なし。

帰ってあげたんだから、ジャズボーカル教室に通わせてってわがまま言って、通ったのがマーサ・三宅ボーカル教室だった。

すぐに高校卒業になって、大学行ってあげるから、ジャズ研に入らせてって、そこでもわがまま言ってた。

次回は大学のお話ね。

 


私とジャズとの出逢い

2016-06-10 | 音楽

私は高校生のときに、兄の影響でジャズに目覚めました。兄が買ってきたビリー・ホリディの「奇妙な果実」を聞いてからです。

他の誰とも違う声でした。未だになぜ彼女の声に涙するようになったかわかりません。

でも心が突き動かされて、ジャズシンガーになりたいと思うようになりました。

よくわからないまま、レコードにあわせて歌うのが日課になりました。

私のその頃の心はガラスのように繊細だったので、歌に救われていたのです。

夜中には遅くまでステレオの大きなスピーカーに身を寄せて、ジャズのFM放送に聞き入っていました。

油井正一さんの「アスペクト・イン・ジャズ」は特に好きでした。ボーカル特集もよくやっていました。

当時、唯一のジャズボーカル教室はマーサ・三宅さんの教室でした。ジャズ月刊誌「スイング・ジャーナル」の広告を見て、オーディションに行きました。

高校の制服を着た若いの女の子が、マーサさんの前で「何か歌ってごらんなさい」と言われて歌ったのは、”Left Alone"でした。今じゃ、とても歌えません。

びっくりしたマーサさんは私を受け入れてくれました。

そのころはマーサさんはひとりで教室を切り盛りしていたので、終わってから珈琲を入れてくださったりと、本当によくしてくださいました。

そのころの私にはジャズしか頭になかったんです。

https://www.youtube.com/watch?v=wHGAMjwr_j8