北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

平城遷都1300年祭に、若狭高浜町の「御贄献上行列」が

2010-02-23 21:45:08 | 山・峠・街道


平城遷都1300年祭がこの4月24日から開催されます。詳しくは 「ここ」 を見て下さい。

御食国、若狭の高浜町は御贄の献上を通じて古くから都と関係が深かったそうです。その一つの証がチラシ裏面の真ん中にある木簡の写真です。そこには「若狭國遠敷郡青里御贄多比鮓壹かく」(わかさのくにおにゅうぐんあおのさとたいすしいっかく)と書かれているとのこと。基礎資料は、奈良文化財研究所 木簡データベース に出ています。興味のある方は 「この木簡のページ」 を覗いてみて下さい。

これについて、我が師匠、舘太正さんは;
<ここでいう「若狭の国青里」とは、高浜町の西、青葉山の麓「青郷(あおごう)」を指すもので、「多比鮓(たいすし)」とは、鯛(たい)の鮓(すし)のことであります。このことは、高浜町が、朝廷に食を献上していた御食国(みけつくに)の中心地であったことを証明するものであります。>
と書いておられます。

このテーマは掘り下げると面白いのですが、ここでは取り敢えず、塩を初め熟鮨その他の海産物が御食国から贄として都へと運ばれていたということを挙げるに止めます。

もう一つ大切な視点は、若狭は大陸文化の窓口であったということです。これは対馬海流の流れを見ると理解出来ると思います。その証拠に日本海沿岸には大陸との交流に関する史跡や謂れにも事欠きません。

こういった海の幸や文化は西の鯖街道を通って都へと運ばれました。歩いて行った人は歩いて帰る訳ですから都の文化や品物も逆に運ばれたことでしょう。こういった古い時代からの都との交流を平城遷都1300年祭を機会に御贄献上行列という形で再現して見直してみようということだと思います。

高浜を4月20日に出発して5日間かけて歩かれます。具体的には;
20日 高浜~美山
21日 美山~京北
22日 京北~京都市内
23日 京都~木津あたり
24日 木津あたり~平城京跡 式典参加
という日程になる様です。テスト歩行されたり、献上品たる鮓の仕込みも初められているそうです。(最後に書きましたリンクを見て下さい)

歩かれるルートは一部旧道から外れて現在の国道を歩かれますがこれは致し方ないでしょう。ゼミナールハウスでも美山~京北~京都というルートを一緒に歩きませんかという企画を練っています。私自身は高浜から一緒に歩きたい気持ちもあるのですが、これは勤務との調整も必要ですし実現するかどうか分かりません。何せ80歳をゆうに越された舘太さんが5日間歩かれるというのです。おじいちゃん大丈夫?って心配になりますが、まあお元気なことでございます。

西の鯖街道歩きは、ハイキングの楽しさは基本に置きつつ、そこを通った文化や産物、またそこを通った人に思いを馳せながらの歩きが楽しいものです。今回の献上行列で、大陸との交流まで思いを膨らませることが出来ます。

また今回この行列を歩かれる田中さんは、椿油を復活させて製造販売されています。過去を学び未来に活かすという活動を地でいっておられる良い例だと思い尊敬しています。

これに関する参考サイトを下に載せておきます;

高浜町御贄献上行列 旅ブログ
http://blog.livedoor.jp/miniegyoretu/
洛行ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/rakugyorakuchu/
高浜町の御贄献上行列についてのページ
http://www.town.takahama.fukui.jp/page/machi/miniegyoretu.html
高浜町の「若狭たかはま鮨」
http://www.town.takahama.fukui.jp/page/machi/takahamasusi.html

余談です;
今日はなんと、春、でしたね。もう冬は去ってしまったのでしょうか?この冬は雪が少なく、逆に気温が低い日が続いたので少々滅入っておりましたので暖かい日は嬉しいものです。ただこう暖かいと寒の戻りが怖いですね。

若狭と奈良や京の都との関連、現在の若狭の地政学的なことなどについて面白い指摘もブログや本で見ましたので、それについてもいつか書きたいと思っています。


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8 コメント

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イノチ賭けで行く旅 (硯水亭歳時記 Ⅱ)
2010-02-23 23:28:55
     Mfujinoさま

 現在に高速道路の長さに匹敵する長く広い国道があったのですが、平城京が出来た辺りでした。律令制度のもと、皆租税として都に運んだものですが、地方から集まる産物で溢れかえったようです。でも租税を税務者本人が運んでいましたから、ギリギリのところで旅費を作り、大変な旅だったようです。その彼らを都まで連れて行ったのは、あらゆる地方の国守の任務の一つでした。帰参者の帰り旅は食べるモノもなくなり、悲惨だったようです。多くの場合は餓死者が出たようです。白村江の戦い以降、諸国の大動脈が分断されました。新羅が襲って来るという想定で、攻め込まれにくくするためだったと考えられます。

 但し高浜や伊勢の志摩は別格で「御食国(みつけくに)」と呼ばれ、贄(にえ)、大贄(おおにえ)、御贄(みにえ)があったと木簡には書かれてあるようです。神饌にもなり、天皇の召し上がりものでもあり、膳氏が活躍されたようですが、やがて内膳氏となり、『延喜式』以降、内膳司(皇室、朝廷の食膳を管理した役所)の大本になったものでしょう。但し通常の租税が免除されたかどうかについては、まだそこまで研究が行っていないようです。

 ともかく面白い企画ですね。現代において大きくイベント化される背景が実によく理解出来ます。頑張って下さりまし。
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街道を通して古を語るロマン (mfujino)
2010-02-24 08:19:25
硯水亭さま、 以前NHKで昔の西国街道の番組を見ました。素晴らしい道路網を作った様ですね。白村江の戦いに象徴される様に当時の日本の政治に朝鮮半島の情勢は大きく影響していた、それは半島のバックにある中国の存在と言って良いかも知れませんが。

久保功さんという食物の歴史を研究されている方がいらっしゃいまして、木簡を丹念に調べられておられます。この野菜のルーツはアフリカの、、とか出雲から奈良へとか喋りだしたら止まらない。ここ京北からも米を奈良に運んだという木簡が出ています。運んだ人が秦氏なのかという事も議論されます。

こうして見ると古くから交易、交流が盛んであったということ、海部氏のこと、膳氏たる安曇氏に関連して長野の安曇野という地名などを結びつけて考えると、昔から全国を股にかけていたんだなあ、と古を思い、今の我々も負けちゃおれんぜよと頑張られるのは姿は尊いと思います。鯖街道は若狭の鯖が云々という次元で考えていたら本質を見誤ると再認識しました。
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生きた歴史への触発。 (道草)
2010-02-24 11:40:33
若狭の地名は小学生の頃から聞いてはおりましたが、干鰈・鯷・丸干鰯などの行商に来る小母さんくらいしか知りませでした。中学生になってからは臨海学習の海水浴で行ったくらいです。
最近は、mfujinoさんのブログで「西の鯖街道」の復活の話題で、興味を繋いでおります。今回はこうした大掛かりな企画が遂行されるとなると、いよいよ一帯に亘る本格的な歴史の発掘に、一層の興味が湧こうと言うものです。鯛鮨ですか。それにしても若狭で鯛がそれほど獲れるとは意外でした。認識を改めねばなりません。ブログを読ませて戴きましたが、高浜は鮨国とか。
寿司と言えば子供の頃は、遠足の巻寿司しか知りませんでしたが、ちらし寿司などは、さすがに海の国ならではの食べ物なのでしょう。それにしても、高浜と奈良との繋がりなど想像さえ出来ませんでした。
地元の中学や高校でも、関連する地域のこうした歴史を教える機会は、昔も今もまるで無いようです。しかし、本当は少しでも自分達の先祖に係わる勉強こそ大切なのだ、と痛感します。
余談ですが、例の納豆餅の文化圏について、同級生が教えてくれました。すでにご存知かも知れませんが、それによりますと、旧殿田(現日吉)駅から京北町一帯・旧世木村生畑地区・美山町から堀越峠を越えた福井県小浜に向かう名田地区・美山町から滋賀県朽木村に向かう久多地区・京都市岩倉地区の一部などが、それに該当すると聞いているとのことです。
話題が横道へ反れて申し訳ありません。こうした身近な歴史的事実さえ、我々(私だけかも知れませんが)は如何に無知であるか、と言う事実を知り謙虚に反省しております。mfujinoさんに触発され、少しずつ目が開かれております(もう遅いかも分かりませぬが)。
「興亡を誌しものが歴史にて争ひのなか民衆の生く」横山岩男。
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すばらしいです (徘徊堂)
2010-02-24 14:07:42
 若狭の国府があったであろう小浜については、決して嫌いな町ではないのですが、やっていることが、やれ「ちりとてちん」だの「オバマ応援」だの「アホかいな」ということばかりでしたので、高浜町のこの挑戦には拍手です。是非応援したいのですが、日程的に難しいです。
 行程はなかなかハードですね。「歩くために歩か」ないと到底辿り着けない感じです。南山城も一部昔の道が残っていますが、奈良坂越えあたりが一番うっとおしいかも知れません。終着地が京都から一挙に奈良に伸びて、「鯖街道」以外の別の言い方も必要かも知れませんね。
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ぜひ、見とうございます (ささ舟)
2010-02-24 16:55:03
こんにちは、なんていいお天気でしょう、もう春ですね♪
>平城遷都1300年 130kmの平城京までの5日間の旅です。  ゴロ合わせで「1300年 130km 」です。
 いいですね!高浜の献上行列、京北か京都でぜひ見物したいものです。装束も映像にあるものを着られるのでしょうか?
それもそうと、高浜に塩田があったのですか?塩と言えば播州赤穂か、敵の三河の吉良か、現在私が使っている伯方の塩くらいしか知りませんでした。鯖街道並びに塩の道だったのでしょうか?
ブログで色んなこと教わってありがたいことです。

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若狭の食や納豆餅のこと (mfujino)
2010-02-24 23:39:14
道草さま、 私も若狭といえば、へしこや海水浴しか思い出はありませんでした。若狭は鵜の瀬のお水送りなど古くから奈良と関係が深い様ですね。前にも書きましたが、美山の歴史に詳しい石川さんは「干物街道」というべきではと言っておられるそうです(間接的に聞いたのですが、、)。昔の鮓とはなれずしのことですが、上のチラシにもありますように奥村先生の指導などでその再現に挑んでおられ、献上行列用の仕込みもされている筈です。
もう一つ面白い話があります。河豚の卵巣の糠漬けは石川県の特産で美川町が有名らしいですが、輪島の朝市でも沢山売っています。その話をしたら高浜でも和田で作っておられるとの事です。

確かに地元の歴史のことを教えていただいた記憶はありませんね。典型例は周山中学校にあった周山廃寺ですが中学時代その話をきいたことないですね。校門の横にその礎石が残っているのに、、ただ山国では「山国読本」というのを作って子供に地元のことを理解して貰おうという努力がされていまして私はその復刻版をもっています。

納豆の事ですが道草さまご指摘の地域ですが神吉が抜けているのではないでしょうか(^_-)それと八瀬の辺りもその食文化があった様に聞いています。また中川・杉坂方面もそうだったのではと思うのですが、これは楳田さんによく聞いてみます。
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街道の名前など (mfujino)
2010-02-24 23:39:55
徘徊堂さま、 仰る様に我が気分も徘徊堂さまと似ております。よく言えば小浜は熱心だということなのでしょうけど。

今回の行列はは5日間かけて歩かれるますので1日30kmにもならない訳でそうハードな印象を持ちません。ただ、5日間連続して歩かれるのと、初日が峠越えが多く、まだ歩き慣れず疲れが出始める2日めか3日めあたりがしんどいのではと想像します。ちょうど美山~京北~京都と歩かれる頃ですので沿線の人が応援することで元気に歩いてもらいましょう。徘徊堂さまは日程的に歩くのは難しいでしょうから、京見峠~鷹峰、そして千本通を南下されるはずですのでそこでちょっと応援されるというのは如何でしょう?

街道の名前ですが、小畑先生は最近「若丹古道」というのを最近使われることが多くなりました。これは美山を中心とした考えで、たしかに若丹国境尾根は素晴らしいのですが。若狭と奈良を結ぶ街道の名前、そうですね、物の名前ではなくてもっと文化的な繋がりを象徴する良い名前はないものでしょうか。
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塩の道です (mfujino)
2010-02-24 23:40:38
ささ舟さま、衣裳はブログの写真のとおりだと思います。京都市内に入ってしまうと3人だけの行列は見つけにくいのではと心配しますが、、

若狭から丹後にかけては昔は塩の産地だったそうです。その遺跡はいっぱい出てるはずです。従って鯖街道のルートはまさに塩の道でもあった訳です。赤穂はむしろ新しい時代のものでその地勢を生かした新しい技術でシェアを伸ばしたのではないでしょうか?
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