蛇ケ池に行った12日、東慧さんが大福光寺にも行こうと提案していただいた。重文級のお宝が沢山あるよ、とのことで二つ返事で伺うことにした。
このお寺は京丹波町の蕨という集落にあります。山陰線の和知駅の少し南、下山駅の東側、川向にあるテクノパークの北端に位置します。地図上の位置は→<ここです>
東さんの知り合いの方がこのお寺の檀家さんで、ご住職に声を掛けていただいていた。霧の深い朝、桧皮葺の屋根の立派な本堂、色鮮やかな多宝塔、その傍には残念ながら鐘楼は無い茅葺きで素朴な感じを醸し出す鐘楼、という縦長の伽藍が我々を迎えてくれた。大きな鍵を手にされたご住職に本堂の扉を開けて宝物を準備して頂き、我々6人のために説明をしてもらった。
私の下手な説明より、当日用意していただいた「大福寺参観資料」をそのまま次に載せます。そして見せていただいた寺の内部や文化財の写真を載せ、皆さんにシェアします。
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大福光寺参観資料
大福光寺は、真言宗御室派の末寺である。延暦年中の創建で(鞍馬寺の中興法印、釋峰延が建立)毘沙門天守護のために建てられた寺である。その場所は、現在の地より北方の空山(深山ともいう)という山の中腹で、屋敷跡には今も礎石が残っている。その空山の麓を下山と名づけ、下の谷を鞍馬谷といって、現在も下山、鞍馬谷という名称がそのまま残っている。一時は密教流布の根本道場として栄えたようであるが、なにぶんにも山上のことであり次第に衰退したようである。その後、元亨年中に足利尊氏が丹波路にやってきて、この毘沙門天を信仰し、戦勝の暁には立派に修復建立せんと願をかけたのである。足利尊氏は幾多の戦いに勝利を得て、正中2年に始めて毘沙門堂、大福光寺を山下の下山の地に移すことを企て、嘉歴2年に現在の地に移し建てたのである。
本堂は、俗に毘沙門堂ともいい、鎌倉時代の建築であり方五間単層入母屋造桧皮葺で、明治37年特別保護建造物に指定され、その後昭和4年国宝となり、昭和25年より重要文化財となっている。棟木には、嘉歴2年10月23日上棟と記されていて、建築様式からみても鎌倉の建築の特徴を現しており、中でも菱欄間、格子戸は有名である。内陣と外陣にわかれ、内陣は土間になっており礎盤があり、天井には色彩が施された形跡が残っており、外陣の後方を廻れないのが大きな特徴で日本においても数少ないということである。
多宝塔は、方三間二層桧皮葺で、明治37年特別保護建造物、昭和4年国宝、昭和25年より重要文化財の指定を受けている。初建については明瞭ではないが、足利尊氏公により歴応2年建立と伝えられている。鎌倉から室町の様式を今に残している。外側には、かえる股12枚がはめ込まれていて、内4枚は江戸時代(貞享元年と記されている)に補足したものである。相輪は露盤名によれば宝歴8年に改造されたものである。天正年間の兵火にあった本堂、多宝塔を残してことごとく焼失した。元和5年園部藩主の入園によって修理、営繕など同藩主の支弁せれれるところとなる。その後、国などの援助により現在も当時の姿を見ることができる。
宝物一覧
国重文 本堂
国重文 多宝塔
国重文 方丈記 鴨長明(随筆) 日本最古のもの
国重文 玉編 中国の字書のはじまりといわれる
府指定 毘沙門天王像 本尊 鎌倉時代
府指定 禁制札 建武4年 禁止事項を箇条書きで示す
府指定 竹虎の図 狩野元信 室町時代
府登録・町指定 掛仏 15面
町指定 仁王像 鎌倉時代
その他 三十六歌仙 歌仙絵(小野小町他、作者不明)
金鼓(鰐口)
(方丈記、玉編、禁制札、竹虎の図、掛仏は京都国立博物館に、金鼓は奈良国立博物館に寄託中)
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次の写真が本堂の中に入った正面にある菱欄間と格子戸である。外陣と内陣を仕切っている。14日には高浜に仕事で生きちょっと中山寺へ道草したが、鎌倉時代の中山寺の本堂にもここと同じ菱欄間と格子戸があった。歴史を感じさせる立派な柱がこの本堂を支えてきたのであろう、見て、手で触ってその年輪を感じた。
ここから内陣を覗くと、比叡山延暦寺の根本中堂で見た様に外陣よりも低くなっているのが写真で分かっていただけるでしょうか。それ程多くのお寺を訪れたわけではないが、この姿は私には珍しい。
ここのご本尊、毘沙門天さまは見ることが出来ないが、ご住職がその写真を用意していただいていたので撮影させて貰った。
そして外陣の左右にある仁王像、その奥は行き止まりになっていて後方に廻れない。
30センチ程の板に描かれた三十六歌仙の一部が次の写真。歴史を感じる。
次が「方丈記」と「玉編」である。「ユク河ノナカレハタエズシテ、、」というのを読んでいただけるでしょうか。現物は国立博物館にあり、我々が目の前にしていたのは複製であるが、本物のように良くできている。
正面門の左にある色鮮やかな多宝塔。
その正面から見て右側の面真ん中のかえる股。
このお寺は真言宗のお寺で、現在の位置の北にある山の中腹に延暦年間に創建され現在の位置に移されたとのこと。広大な伽藍を擁していたが戦禍で今の規模になったそうであるが、延暦といえば782年から805年まで、奈良時代から平安初期である。美山町の河内谷にあったとされる聞法寺にしても山の中に立派なお寺が建てられていたが昔は寺院はなんといっても僧侶が修業する場であったのだろう。
観光客で一杯の観光寺でなく、田舎で訪れる人も少ない地にこの様な立派なお寺がひっそりと佇む姿には感銘を覚えた。何万人何十万人の観光客から多額のお賽銭収入があるわけでもなく、檀家の負担も大きなものがあろう。だが日本の各地に素晴らしいお寺がかくれている。
このお寺は京丹波町の蕨という集落にあります。山陰線の和知駅の少し南、下山駅の東側、川向にあるテクノパークの北端に位置します。地図上の位置は→<ここです>
東さんの知り合いの方がこのお寺の檀家さんで、ご住職に声を掛けていただいていた。霧の深い朝、桧皮葺の屋根の立派な本堂、色鮮やかな多宝塔、その傍には残念ながら鐘楼は無い茅葺きで素朴な感じを醸し出す鐘楼、という縦長の伽藍が我々を迎えてくれた。大きな鍵を手にされたご住職に本堂の扉を開けて宝物を準備して頂き、我々6人のために説明をしてもらった。
私の下手な説明より、当日用意していただいた「大福寺参観資料」をそのまま次に載せます。そして見せていただいた寺の内部や文化財の写真を載せ、皆さんにシェアします。
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大福光寺参観資料
大福光寺は、真言宗御室派の末寺である。延暦年中の創建で(鞍馬寺の中興法印、釋峰延が建立)毘沙門天守護のために建てられた寺である。その場所は、現在の地より北方の空山(深山ともいう)という山の中腹で、屋敷跡には今も礎石が残っている。その空山の麓を下山と名づけ、下の谷を鞍馬谷といって、現在も下山、鞍馬谷という名称がそのまま残っている。一時は密教流布の根本道場として栄えたようであるが、なにぶんにも山上のことであり次第に衰退したようである。その後、元亨年中に足利尊氏が丹波路にやってきて、この毘沙門天を信仰し、戦勝の暁には立派に修復建立せんと願をかけたのである。足利尊氏は幾多の戦いに勝利を得て、正中2年に始めて毘沙門堂、大福光寺を山下の下山の地に移すことを企て、嘉歴2年に現在の地に移し建てたのである。
本堂は、俗に毘沙門堂ともいい、鎌倉時代の建築であり方五間単層入母屋造桧皮葺で、明治37年特別保護建造物に指定され、その後昭和4年国宝となり、昭和25年より重要文化財となっている。棟木には、嘉歴2年10月23日上棟と記されていて、建築様式からみても鎌倉の建築の特徴を現しており、中でも菱欄間、格子戸は有名である。内陣と外陣にわかれ、内陣は土間になっており礎盤があり、天井には色彩が施された形跡が残っており、外陣の後方を廻れないのが大きな特徴で日本においても数少ないということである。
多宝塔は、方三間二層桧皮葺で、明治37年特別保護建造物、昭和4年国宝、昭和25年より重要文化財の指定を受けている。初建については明瞭ではないが、足利尊氏公により歴応2年建立と伝えられている。鎌倉から室町の様式を今に残している。外側には、かえる股12枚がはめ込まれていて、内4枚は江戸時代(貞享元年と記されている)に補足したものである。相輪は露盤名によれば宝歴8年に改造されたものである。天正年間の兵火にあった本堂、多宝塔を残してことごとく焼失した。元和5年園部藩主の入園によって修理、営繕など同藩主の支弁せれれるところとなる。その後、国などの援助により現在も当時の姿を見ることができる。
宝物一覧
国重文 本堂
国重文 多宝塔
国重文 方丈記 鴨長明(随筆) 日本最古のもの
国重文 玉編 中国の字書のはじまりといわれる
府指定 毘沙門天王像 本尊 鎌倉時代
府指定 禁制札 建武4年 禁止事項を箇条書きで示す
府指定 竹虎の図 狩野元信 室町時代
府登録・町指定 掛仏 15面
町指定 仁王像 鎌倉時代
その他 三十六歌仙 歌仙絵(小野小町他、作者不明)
金鼓(鰐口)
(方丈記、玉編、禁制札、竹虎の図、掛仏は京都国立博物館に、金鼓は奈良国立博物館に寄託中)
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次の写真が本堂の中に入った正面にある菱欄間と格子戸である。外陣と内陣を仕切っている。14日には高浜に仕事で生きちょっと中山寺へ道草したが、鎌倉時代の中山寺の本堂にもここと同じ菱欄間と格子戸があった。歴史を感じさせる立派な柱がこの本堂を支えてきたのであろう、見て、手で触ってその年輪を感じた。
ここから内陣を覗くと、比叡山延暦寺の根本中堂で見た様に外陣よりも低くなっているのが写真で分かっていただけるでしょうか。それ程多くのお寺を訪れたわけではないが、この姿は私には珍しい。
ここのご本尊、毘沙門天さまは見ることが出来ないが、ご住職がその写真を用意していただいていたので撮影させて貰った。
そして外陣の左右にある仁王像、その奥は行き止まりになっていて後方に廻れない。
30センチ程の板に描かれた三十六歌仙の一部が次の写真。歴史を感じる。
次が「方丈記」と「玉編」である。「ユク河ノナカレハタエズシテ、、」というのを読んでいただけるでしょうか。現物は国立博物館にあり、我々が目の前にしていたのは複製であるが、本物のように良くできている。
正面門の左にある色鮮やかな多宝塔。
その正面から見て右側の面真ん中のかえる股。
このお寺は真言宗のお寺で、現在の位置の北にある山の中腹に延暦年間に創建され現在の位置に移されたとのこと。広大な伽藍を擁していたが戦禍で今の規模になったそうであるが、延暦といえば782年から805年まで、奈良時代から平安初期である。美山町の河内谷にあったとされる聞法寺にしても山の中に立派なお寺が建てられていたが昔は寺院はなんといっても僧侶が修業する場であったのだろう。
観光客で一杯の観光寺でなく、田舎で訪れる人も少ない地にこの様な立派なお寺がひっそりと佇む姿には感銘を覚えた。何万人何十万人の観光客から多額のお賽銭収入があるわけでもなく、檀家の負担も大きなものがあろう。だが日本の各地に素晴らしいお寺がかくれている。
この日曜日には和知へ行く予定です。時間があればこの寺へ訪問したいのですが、何しろ牡丹鍋の会ですから・・・。地元の同級生に話してみます。
宇津村で我が家が居候していた八幡宮も、相当な歴史のある神社のようです。当時はそんなことはまるで知らずに、本殿や拝殿の上で遊び回っていました。こうした探訪記を読ませて戴きますと、日本もまだまだ捨てたものではない、との思いをいっそう強くします。
また、隠れた逸話など素晴らしい話を聴かせて下さい。
京北には周山廃寺や福徳寺、美山には聞法寺という奈良時代に建てられたお寺がありました。全て山辺か山の中に建てられました。京の町で一番古いと云われるのが北野廃寺だそうですね。平安京が出来るずっと前にこんな田舎には立派なお寺があったのですよ、と都会から来られる人達にせつめいする様にしています。聞法寺にあった仁王様は今は長谷寺の門を守っておられるとか。また今慈眼寺にある仏様も聞法寺にあったものだそうです。
本文で触れるのを忘れていましたが、大福光寺の門すぐ傍(左)に国指定重要文化財、立派な茅葺屋根の渡邉家住宅があります。