北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

「周山」と本能寺の変 ー 石井敏雄さん

2015-05-25 15:58:30 | 歴史・社寺・史跡など

京北の文化財を守る会が年1回発行されている機関広報誌「京北の文化財」の最新版たる64号 (2015.5.1発行)のpage7に、守る会会長の石井敏雄さんが、私見と称して、周山について一文を書いておられます。面白い話ですのでこのブログでも出来るだけ多くの人に読んでもらいたく思いました。誌の編集長さんと作者にお願いし、了解をいただき、ここに転載させていただきます。

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私見 「周山」と本能寺の変 石井敏雄(京北細野町)

 「周山」という地名は、明智光秀が周山に城を築いた折につけた名前といわれているが、それはその周辺が山また山の地理的な情景から考えられたものではなく、中国の古代国家、武王が興した「周」の故事にちなんでつけた名前といわれている。

 光秀は天正七年(一五七九)頃に周山城を築いた(完成、未完成かは不明)。そして、その三年後にはわが国歴史上の一大事件である本能寺の変を起こすことになるのである。しかしその動機や理由については諸説があって、未だ確定的なものはないのである。近年の主な説としては、怨恨説、野望説、黒幕説、そして四国説などがあるが、まだまだ絞りきれずナゾになっているのである。むろん、一つの動機や理由だけではなかったとも考えられるところでもある。

 戦国時代の諸々の事柄を記した「老人雑話」という当時の古文書があり、その中では光秀は信長にとってかわろうという意志を持って「周山」という名前をつけたのであるといっている。しかし、それは余りにもうがち過ぎた見方で、今日ではあり得ない説として眉唾物となっている。

しかしながら、そのことがすぐに行動につながるような急進的な考え方ではなかったにしても、光秀の心の底には理想の国家像や望ましい君主像についての基底的な思想がすでにその頃にはあったのではないかと、私は推測するのである。
 その時代の一級の知識人、教養人であった光秀なれば、当時すでに中国の古代史のみならず「論語」や「孟子」にも通じていたであろうことは充分考えられるところでもある。

 そうした中で、この程ある雑誌の中にこの事に関して考えさせられる一文を見つけた。それは歴史家の松本健一氏の「孟子の革命的思想」という論稿(月刊誌MOKU・2014年2月号)の一節である。これは光秀とはなんら関係のない論稿ではあるが、当時の光秀の胸の内を探るための参考となるものではないかと考えるものである。以下抜粋して紹介する。

(引用) 孔子は「論語」において、君子(あるいは天子)がもつべき徳として、「仁」を考えた。仁は民に対する優しさ、憐れみ、愛、惻隠の情である。しかし、君子すなわち国家統治者がこの「仁」という徳をもたなかったら、どうするか。そういった設問は「論語」の中にはない。(中略)
ところが「孟子」には、君子すなわち国家統治者が「仁」という徳をもたなかったらどうするか、という問いがある。孔子が一番理想とし、政治がみごとに行われていた国と考えていたのは「」である。(中略)「周」という古代国家は700年ほども続いたといわれる。しかし、その「周」という国を興したのは武王であるが武王はもともと「」の王朝につとめる官人であった。その武王が、殷の暴君であるを討って「周」を興したのである。そういった史実をふまえて、孔子の後継の儒者であった孟子に、かれが仕えている斉王が質問する。──「周」の建国者である武王は「殷」の国王であった紂王を討伐したわけですがじぶんの主君である王を弑したりしていいのですか」と。これに対する孟子の答えは──君子つまり国家統治者は「仁」という徳をもっているから君子なのであって、もし紂王のようにその徳をもっていないなら、それは君子とはいえない。匹夫にすぎない。その「一夫」を討ったという史実はあるが、それは臣下が君子を討伐したことを意味しない、と。(以下略)(引用終り)

 以上のような歴史の見方、考え方を光秀も学習もし、理解もしていたという事も充分考えられよう。そうした中で、主君である信長を見る目、光秀の心の内はどのようなものであったのか、興味がつきない。光秀は信長に仕えてより、信長が「仁」という徳をそなえた主君であるかどうかをたえず見ていたであろう。そして、「天下布武」のスローガンのもとに、その勢力を拡大し、権力を掴んでくると、魔王と呼ばれるような横暴、残虐性を帯びた行動が信長に目立ってくる。信長の人が変わってくる。そうなってくると信長が「仁」の徳をそなえた君子たるのかどうかの疑念が、光秀にはどんどんと大きくふくらんでくる。そして、ついには信長に殷の紂王、自分には周の武王の姿を重ね合わせてみることとなっていったのではなかったかと──。光秀のそのような思いの結果が本能寺の変へとつながっていく事になったのでは……と。そして愛宕山で連歌の会を催している頃には、信長を弑しても、臣下が君子を討伐する事にはならないという思いが光秀の胸の内にしっかりと固まっていたのであろうと推察するのである。

  ときは今、あめが下しる 五月かな

 このように、「周山」という地名には「周」という明智光秀が理想とした国家像や君主像、光秀が求めた「かたち」「思想」がそこに秘められていたのではないか…。そして更にはわが国歴史上の一大事件であった本能寺の変へとつながる下地が、そこにあったのではと考えると、「周山」は誠に意味深長。いろいろなことを考えさせる地名といえるのではないか。
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※太字、改行、引用については私が編集しました。

なお、「周山という地名」について、このブログで次の3つの記事を書いております。リンクを張っておきますので、興味のある方はぜひお読み下さい。

京北の地名:八津良神社の話からから派生して、2006-11-15
京北の地名:「周山」という地名について 2006-11-19
「周山」関連:訂正と江村専斎「老人雑話」からの引用など 2007-01-13
この3番目の記事でふれたのですが、江村専斎はその[老人雑話]で;
>明智亀山の北愛宕山のつゞきなる山に城郭を構ふ.この山を周山と號す.自らを周の武王に比し信長を殷紂に比す.これ謀叛宿志なり
と記しているのですが、松本健一さんの考察と点と重なる部分が無きにしもあらずと私は思うのですが、如何でしょう。専斎は謀反に焦点を当てていて、松本さんの様な純粋な心の分析ではないといえばそれはそうなのかも知れませんが。江村専斎も嘘ばっかし書いていたわけではないのかもしれません(^_')



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