散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

横浜散歩・ワシン坂

2010年12月19日 | ☆横浜じゃん
山手へのアクセスに、ちょっとこだわりを持ったら、どんなアプローチ方法になるのか?

ちどり坂(むじな坂)」、「牛坂」、の次は、「ワシン坂」にしてみた。

バスで「本牧宮原」「和田山口」を経由する路線に乗り、「小港(こみなと)」バス停で降りる。
山手警察署の脇の広く大きな道をイトーヨーカドーの方向に向かうと、青いクラシックカーの目立つ自動車整備屋さん(写真下)が見えてくると、大きな道と別れ、小港町2丁目の交差点を左手の道に入っていく。


すぐに道がY字となるから、右に進路をとると、、“ブラリ好き”には雰囲気がたまらなくうれしい、カメラ修理屋さん(写真下)があって、だんだんワクワクドキドキしてくると、迫り来る丘の右側を回り込むかのような道筋が見えてくる。


ふと、信号機のあるところの左手、崖に穿たれ、擁壁で囲まれたところに、水がジョボジョボと流れている。


知る人ぞ知る「ワシン坂の湧水」だ。
飲料水には適さないと書いてあるが、汲みに来る人をよく見かける。
この辺り一帯は、海抜も低く、本牧通りなどは水道が敷けるまで、川の氾濫に見舞われたりして水事情も悪く、その後も、震災・戦災で水の確保が難しい場合など、近隣住民の命を救った水源として、今も大切にされている。


ここから、ワシン坂になる。
大きな字で「スピード落とせ!」の看板がカーブに見える。
看板にウソ偽り無く、ビュンビュン車が走ってくるから気を付けて歩こう。
左手には、歴史を物語るかのように、ブラフ積みと呼ばれる石垣が続く。
梅雨の時期には、きれいにアジサイが咲くので、これもまた知る人ぞ知るところだ。
石垣の上には、カネボウ化粧品教育センターの大きな建物がある。
出来る限り、ブラフ積みを残し、まわりの樹木も景観を損なわないように手入れを心がけている様子が伝わってくる。
気づきそうもないことに心づかいする・・・化粧品会社らしい配慮がうれしい。


さて、よく、横浜を紹介するホームページやブログに「ワシン坂の景色・夜景が素晴らしい」と書き込みがある。
それを信じて、わざわざやってきたのに、「これのどこがよいのか判らない。ガッカリだ」というコメントをときどき見かける。
確かにこの景色(写真下)では、書かれてもしようがない。
徒歩で坂下から上がってきたのなら、なおさらのことだと思う。


ワシン坂病院の前を行くと早いが、あえて裏手の道に迂回すると、ワシン坂公園という小さな公園がある。
また、坂を上りきったところにも、ワシン坂上公園という遊具のある児童公園がある。


その昔、居留地に住む外国人の遊園施設として、横浜公園のほかに、山手に公園をつくる計画があり、ここワシン坂のある辺りが候補地になっていたという話があるので、その名残かなぁ、と考えるのは、穿ちすぎかもしれないけれど、楠やヒマラヤ杉などの大木が点在しているところを見ると、当時が偲ばれる。


ヒマラヤ杉は、インドから種を取り寄せて、1879年に播種されたのがはじまりだそうで、育った苗木は山手公園と遊歩道沿いに植えられ、ワシン坂にも数本、今だに残っている。


ところで、ワシン坂の名前の由来として、市民グラフヨコハマNO.95「横浜橋めぐり坂あるき」に、次のように書いてある。
ワシン坂の語源に諸説がある。(1)和親条約のワシンからきたとするもの。(2)鷲見坂がなまってワシン坂とするもの。(3)ワシン(ウシン)という外国人がこの付近に居住していたからだとするもの。(4)坂下に清水がわき出る所から「ワキシミズザカ」が外国人たちの口によって「ワシン坂」となったとするものなど。いずれにしろ、一帯は慶応2年(1866)に外国人居留地に指定されているので、このころからの呼称と考えられている。

ハマっち!SNS」という、横浜開港150周年で開設されたブログにも、(2)鷲見坂説を支持する意見があり、私もそれを支持したい。
地名は、古文書の記述が手がかりとなるが、明治17年に山手一帯に付けられた町名の中に「ワシン坂」はなく、明治25年に刊行された横浜沿革誌の附図(写真下)に町名の「ヤトサカ通」が表記されている。
「ヤトサカ」は、元町から港の見える丘公園に至る「谷戸坂」のことだ。
土地宝典では、この辺りは「泉」という字名となっている。




何を手がかりに・・・というと、“ハマっち”にあるとおり、電信柱がいい。
横浜では、明治16年、神奈川県庁と知事官邸、堺町警察署と監獄署の間に電話が敷設され、明治23年には、前年に設立された横浜共同電燈会社が電気の供給を開始、電灯に点火、横浜・東京間の電話交換業務も開始された。
その時の電話加入者は、横浜45、東京155だったという。
この「鷲見坂支」線がいつごろ敷かれたのかはわからないが、一番説得力がある。


先の公園のほかに、手がかりとして、学校、バス・市電停車場、石碑などがあるが、なぜ「ワシン」とカタカナ書きなのか、今後の課題だ。
さて、登り詰めると、木々の間からベイブリッジが見える(写真下)。


山手ヘレン記念教会(写真下)。


大きな屋敷やマンションが続く道を進むと、やがて緩やかにカーブする、その右手に180度視界が広がる場所(写真下)がある。
ここが、よく書かれる「ワシン坂の展望地(写真をクリック)」だ。また、夜景が素晴らしい。


やがて、韓国領事館の前に出、その脇道を入ると県立神奈川近代文学館に至る。
館内に「芸亭(うんてい)」という喫茶室があるので、ティータイムにでもしよう。



ちなみに、「芸亭」を調べてみると、平城京にあった日本最初の公開図書館の名だという。
本館東側、渡橋の下に枝ぶりの見事な桜の木があり、「芸亭の桜」と名付けられている。


話は変わって、山手を歩きながら、いつも考えることなのだけれど、外国人居留地から震災や戦災により外国人が去ったあと、今一度、貿易商を呼び戻すべく、山手の町を整備していったと聞いている。
そして、外国人と共存しながら落ち着いた街並みを形成してきたが、バブル期に地上げがはじまり、高級住宅街とされて、様々な人が出入りし、多くあった昔からの西洋館が壊され、西洋館まがいのものや、金にあかせて贅を尽くした建物に変わり、一方では、空き家も点在しているともいう。
時代がそうさせた・・・といえば、そうかもしれない。

横浜の近未来型都市として整備した「みなとみらい」はどうだろう?
計画当初は、みなとみらい地区だけで、就業人口16万人、居住人口1万人を目論んでいる。
現在、新港地区も含めて、就業人口は6万7千人、居住人口7千人ほどだ。
40年後のみなとみらいの姿を想像したとき、山手のようなステータスを持ち続けられるのだろうか?

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