散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

崖の上のポニョ

2008年09月15日 | ☆たまに娯楽
「股の下のポニョ」~北野たけし監督といえば聞こえはいいが、多才な分だけにシャイだと、こういう発言が飛び出す。自作のタイトルが「アキレスと亀」だけに「ポニョより亀の方がデカイ!」と訳のわからないコメントで舞台挨拶をしていた。ヴェネチア国際映画祭へは「崖の上のポニョ」のほかに「スカイ・クロラ」が出品されたが、惜しくも受賞を逃したという。前評判や見た人の話では、子ども向けのアニメの傾向が強いといわれていた「ポニョ」を見た。
確かに線の単純なアニメで、色鉛筆で描いたような色合いだから、第一印象は子ども受けするもののような感じはするが、フジモトと称する得体の知れない人間が出てきて、人面金魚ともいうべきポニョとやりとりしていると、大人の固い頭では理解しがたい展開でストーリーが進んでいく。やっと宗介少年が出てきて、母リサと保育所へ向かうところで、何故か安堵感がするのはそのせいだろう。本来は荒唐無稽さがアニメの良さなのに、何の前触れもなく海底の中に放り込まれて動揺しつつも何か意味を探してしまう。結果それは後半部分の、宗介の住む町全体が海底に沈んでしまうことと関連づけられている。海中にいる生物たちが、その全盛期で地球全体が海に覆われていた古代デボン期に戻りたいと願っているんではないかという仮定の下に、人間が出現することにより汚され続けられてきた海が、人間になりたいと願うポニョを取り返そうと行動を起こす。宮崎駿監督は、海に意思があったなら、こんなことも起こりうるんだと表現したかったに違いない。
宗介が人間となったポニョを愛し守り続けることを誓うことで、町と人々は元の姿に戻る。宗介が裏切ればポニョは泡と消えてしまうということを知らされないままエンディングになる。劇場をあとにする大人たちは、満足顔の子どもたちとともに、判ったような割り切れないような顔をしている。それは、人を裏切らない人などこの世にはいないことを知っているし、まして魚から人になったポニョを、一生かけて守ることなんてできっこないと思っているからだろう。
ある意味、監督は純粋な子どもの心を無くしてしまう今の世の中にメッセージを残しておきたい。一連の作品に共通していることはこの一点に尽きる。とにかく、ポニョは公式サイトをご覧になってから見るべきだと思う。そうすれば「なぜそうなっちゃうの?」という疑問だけはなくなる。

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