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気分は南米?~多文化&SDGs日記

四国を経て、浜松に三度漂着したかっぱの近況

水俣ツアー1日目~生暖かい雨

2008-12-25 23:01:59 | 水俣
12月21日~24日は3月に引き続き、ESDの水俣フィールドツアーへ。現地集合なので、松山~下関~18切符で来た学生と私は昼過ぎに相思社へ。
スタッフの川部さんと、御所浦島でいただいた島モズクを洗いながら、飛行機組を待った。16時に合流して考証館の見学。今回は産廃処分場の計画撤退の展示が新たに増えていた。
天気は雨が降ったり止んだり。生暖かい風は12月とは思えない天気だった。

夜は水俣の野菜と魚としし肉を買い込んで鍋大会。水俣ツアーは毎回食が豪華で楽しみ♪
土本監督の「水俣その20年」を見た後、NHKのETV特集で土本監督の軌跡を90分見る。夜は相思社泊。

水俣に行ってきます

2008-12-19 19:29:24 | 水俣
3月に引き続き、またフィールドツアーの引率に行ってきます!
今度はどんな水俣が見られるのだろうか?

21日 現地集合、考証館見学、DVD大会、温泉?
22日 御所浦島アイランドツアー、民泊
23日 御所浦島めぐり、ほっとはうす訪問、吉田浩司さんの話
24日 埋立地or漁村めぐり、ふりかえり

今回の参加者は学生3名、教職員2名、NPO2名の7名。
往復は。うふふ~。今回は船にいっぱい乗れて幸せ♪
水俣をしっかり堪能してきます。

水俣・千葉展も開催中。
こちらもよろしく!!

水俣を見た7人の写真家たち

2008-07-09 14:57:17 | 水俣
先週末は浜松で開かれた「水俣を見た7人の写真家たち」を見に行ってきた。この写真展は「水俣を子供たちに伝えるネットワーク浜松」主催で、伝えるネットと1999年に「水俣・浜松展」を開催した時の実行委員が中心になっていた。

99年は私も協力隊の研修を受けながら東京と浜松を往復して実行委員をやっていたが、苦難も収穫も多くて忘れ難いイベントだった。
その時のメンバーだった全盲のみのりさんは、今回も実行委員として「写真を見る」ことにこだわって準備を進めてきた。メール上でも、写真の解説をつけるつけないでいろいろ議論が飛び交っていて、一体どんな写真展なのか興味津々だった。

展示の横にはケースの中に点字と撮影者と実行委員3人の説明がそれぞれ書かれた紙が入っていて、盲人の方は点字を読んだり、説明を読んでもらったりして鑑賞していた。書かれたものを読むと、書き手によって主観や関連する情報も入っているし、これまで気づかなかった足元に転がっている鍋だとか、背景にぼんやり写っている船の姿だとかに気づかされ、何度も見た写真を改めて隅々まで眺めることになった。

今回の写真展のために、写真家が撮りためた写真の中から発掘して初公開されたものが何枚かあったが、塩田武史さんの、たった1点だけカラー写真の小児性患者さんのかわいらしい笑顔の写真と、写真家のコメントがとても印象的だった。
展示は離れていたけれど、池谷さんに「これとあれが親子だよ」とか家族のつながりを教えてもらって、これまで別々に見ていた写真が私の中でつながっていくのも驚きだった。

前日の講演で来られていた芥川仁さんが、みのりさんや他の視覚障害者のために自ら写真の解説をしてくださった。凪の不知火海にうかぶ打瀬船の舳先から海を眺める漁師の背中。しぶきを上げるボラ籠漁。どしゃぶりの中の茂道の船着場。漁を終えて疲れた表情で縁側に腰掛ける夫婦と無邪気にトウモロコシをかじる子どもの姿。
芥川さんは、たくさん撮った写真の中から、どんな思いをこめてこの一枚を選び出したのか、どんな水俣の姿を伝えたかったのかを熱心に語ってくださり、一枚の写真から様々なドラマが目に浮かんできた。
そして「これまで写真をたくさん撮ってきたけれど、目の見えない人のことは考えたこともなかった。でも、こういう形で関心を寄せてもらえたのはとても嬉しい」と挨拶していかれた。

水俣の写真は、今も多くのことを私たちに伝えている。でも、患者さんにとっては、その貧しさや酷い姿やを不特定多数に晒すことは勇気のいることだったろうし、それを撮った写真家の人たちもいろんな葛藤があったのでないかと思う。
そんな思いの一端に触れることができたのはとても貴重だった。

最後は撤収片付け。アクリル板はとても傷つきやすいので(アースデイの時は大失敗…)、白手袋をして大事に額をはずして木箱に収納。豊橋展に続いて、浜松も5日間で600人を越す入場者があり、大成功だったのではないだろうか。
熱を出したり、入院していたりで会えなかった人たちもいたけれど、池谷さん母娘や安達さんをはじめ、水俣つながりの方々にお会いできたのは嬉しかった。日帰り強行軍だったけれど、行ってよかった!ありがとうございました。>関係者の皆様

写真展の合間に、4年ぶりに公開されたミューラルも見てきた。構造上の都合で凸型展示だけれど、2003年の苦労と製作に関わった高校生たちを思い出した。その一人が今もN-Pocketのスタッフとして関わっているけれど、他のメンバーも元気にしているのかな。

最後はセルビツでアレックスとN-Pocketの新しいスタッフのMさんとブラジル飯。久々のフェイジョアーダうま~。やっぱり浜松はこれがなくっちゃね♪

水俣ツアー番外編:18禁?! ゴカイのランデブー観察会

2008-03-29 22:37:01 | 水俣
水俣を発って、初めての九州新幹線「つばめ」に乗って鹿児島へ。2年半ぶりの帰省!!
水族館に勤めるフィールドワークの達人Cと合流し、重富海岸へ。くすの木自然館主催の「ゴカイのランデブー観察会」に参加した。

このヤマトカワゴカイ(山と川誤解ではない…)は、普段は砂泥の中で生活しているが、春の大潮の夜に一斉に遊泳して放精産卵するという習性がある。まだ詳しい生態はわかっていないが、この夜は年に数回しかない「ランデブー」のチャンス。わくわくしながら見に行った。
参加者は愛媛から5人、地元から5人ぐらい。私に友人Cに田んぼのスペシャリストのH先生に生物屋が多くてマニアックな突っ込みを入れまくる。

が、夕方まで降っていた雨のせいか「昨日の10分の1」しかゴカイが出ない それでも、赤っぽいオスと鮮やかな緑のメスがぴろぴろぴろ~~~んと波型を描きながら視界を横切っていく。(動画を載せたいけれど、MP4のup方法がわからん…)
前回の大潮では、水の中がゴカイだらけの青椒肉絲状態で、NHKにその映像を持ち込んだら「これはお茶の間に流しかねる…」とお蔵入りになったとか。
案内してくれた研究員のB君は「残念でしたー。また来年」とニヤリ。ええーい!また見に来るわいっ。

今回は数は少なかったけれど、ライトに照らされて泳ぐゴカイの姿はユーモラスできれいだった。精子と卵を放出し終わったら死んでしまう、ゴカイ人生最後の花火なんだけれども。
帖佐の干潟は、学生時代に何度も鳥見に来た場所だけれど、夜にあんな光景が見られるとは知らなかった。普段は見えない所にいる底生生物に文字通りスポットライトを当てる観察会も、「重富海岸小さな博物館」の展示も充実していて興味深かった。

B君、Cさん、いろいろお世話になりました。後輩に負けず、私もがんばるぞっと!

水俣フィールドツアー4日目

2008-03-28 21:41:44 | 水俣
最終日の23日は、ふりかえり。意見交換して、感想記入。印象に残ったところはそれぞれ違っているが、来る前の期待より、はるかに現地のインパクトが強かったことは各人共通していた。

てんこ盛りのプログラムで未消化な部分も多かったけれど、そこら中に学びの素材がちりばめられていて、非常に濃いツアーだった。海も山も実に豊かな水俣の自然と、時折ぱっくり口を開けて見せる水俣病の傷の深さとの落差、それを乗り越えていこうとしている人達の強さに私自身がとても励まされた。
わずかな時間の訪問にもかかわらず、心づくしのもてなしをしてくださった方々と、全体のコーディネートに尽力してくださった相思社の川部さん、スタッフのみなさんには本当に感謝しています。
それに応えるためにも、今回の経験を自分の活動・仕事・生活やESDに還元していきたい。それは参加者に課された宿題だと思う。

そして考証館で展示を再び鑑賞。東京の私立高校の修学旅行生であふれていた。
昼食は前日、別の団体が打瀬舟で捕った太刀魚をもらってムニエルと焼き魚に。これまたウマかった!
宿泊した相思社は自炊なので、学生たちに「なるべく地産地消の食材を選んでね」というテーマで食材の買出しを頼んだのだが、最終日に出てきた牛乳が常温保存可能(LLミルク)でKさんに「あー!」とダメ出しされ、「阿蘇産で地元だと思って買ってきたのに、なんで??」と学生はびっくり。常温で腐らない牛乳の話でちょっと盛り上がった。

今回のツアーのもう一つのテーマは思いがけず「食から見る水俣」だったようだ。食を通じてもたらされた水銀、海と山がもたらす食卓の豊かさ、農業と漁業、生産と消費を考えさせられたツアーで、農学部の先生方が中心となって進めているESDとしても、たくさんのヒントが得られたのでないかと思う。

現地解散後、残った数名と市立資料館に行ったら、退職1週間前で超忙しいはずの吉本さんが「解説の押し売り」と称して自ら館内を案内してくださり、杉本家の展示の説明をしてくださったのには感激でした。

そして、旅はまだ続く…。

水俣フィールドツアー3日目

2008-03-27 00:48:56 | 水俣
3日目は「水俣の現在に学ぶ」。プログラムは「水俣・山編」で、所々皆伐でバリカン刈り状態の山を見ながら久木野へ向かう。愛林館で館長の沢畑亨さんの話をきいて、日本一(自称)の棚田を歩く。
棚田は菜の花の鮮やかな黄色に彩られ、農家の庭先には白菜の花が豪快に咲いていて、白菜の花の色を初めて知りました。
「集落の人口は減っている。でもそれは日本の人口動態から見ても当たり前のことで、減ることイコール悪いことではない」の言葉に、それもそうだ!と。問題は人口の維持ではなくて生活の質の維持であり、人口減と高齢化に見合った社会の作り直しが必要なのかと。
愛林館のレストランの身土不二のカレー各種も美味しかった。

久木野は「大学山」といわれる照葉樹林があり、国際生物学事業計画(IBP)で約40年前に伐採された林の遷移を、日本で最も長期間継続調査しているプロットがある。私も大学時代にその調査に参加したけれど、とても楽しい調査だった。
その近くの沢畑さんが伐採して広葉樹林に変えつつある林に行ったが、九州南部の照葉樹林は四国のそれと構成種が微妙に異なって、なじみの深い植物たちが次々出てきて、久々に旧友に再会した気分になった。ああ~やっぱりよかねー。

午後は水俣市立水俣病資料館で地元学の吉本哲郎さんの話をきく。「地元学?北大では1週間講義するけどに、1時間で何を話せと?」と凄まれ、「いや、あの…さわりだけでもお願いします」と食い下がり、私とNPOスタッフのKさんは珠玉の言葉を逃すまいとノートにガシガシ書きまくる。
「役所に陳情するな」という言葉は、水俣病で悪口、愚痴、誹謗、中傷が吹き荒れたことの教訓だという。もう愚痴はたくさん!自分たちでやれることはやれ!と。
「愚痴から自治へ」「ないものねだりからあるものさがし」「人を育てるのは逆境と冗談・笑い」「未来に飛ぶには楽天性がいる」「“限界集落”と勝手に決め付けるな。辺地辺境にこそ日本が残っている」「金をかけずに手間隙かける」等々。

吉本さんは言葉の端々でこちらを挑発してくるが、質問を振られても学生は緊張のせいか、理解できなかったのかノーリアクション。うをぉ~。冷汗かきながら、Kさんと私で切り返すが、まるで村正に鉈で挑んでいるのごとし。
今メモを見返すと、これは町おこしやまちづくりなどに関わったことのある人には「ああ~なるほど!!!」の内容だけれど、全く経験がない学生にとってはその意味がわかりにくかったのかも…。

「学者はたくさん来る。でも住民は詳しくならない。依存心ばかりが高まる」「地域は研究・調査の素材ではない」は大学関係者として耳の痛い言葉。「地域、人の力を引き出す。決して教えてない」「自由に発想し、慎重に計画して、大胆に活用する」「問題を大きく、一般化しない。大事なことは足元にある」「先入観が邪魔をする。冗談でやれ」そしてトドメは「俺の言うことも信用するな」。
彼がキーワードで挙げていた「環境・産業・生活文化」はESDの3本柱であり、地元学はESDに限りなく近いことを感じた。密度の濃い1時間だった。

その後、再び山へ向かう。吉本さんの住む薄原を経て、さらに県境の石飛へ行き、無農薬茶農家をしている天野さんと里歩き。県境の峠から海を眺め、アオモジの淡黄色の花を愛でる。
畑の水路にはアカガエルの卵塊。学生に「ブラックタピオカだよ」と言ったら「食べられるんですか?!」と本気にしかけて、天野さんや教員に大ウケ。その学生にガマの穂を見せて「カマキリの卵で割ると子どもがわらわら出てくるよ」と言ったら、これまた本気でビビッてました。

畑の周りで菜の花、ヨモギやノビル、クレソンなどの春の野草を摘んで、囲炉裏小屋で調理。囲炉裏を囲んで山の幸の夕食をいただきました。これまた旬の野草の美味しかったこと!!この時期ならではの贅沢でした。
天野さんの無農薬茶のこだわりは「慣行栽培では目立たない。違うことをやりたい。先を見越してやっている」と28年も取り組んでいるとのこと。今、天の紅茶を飲んでいるけれど、もっとたくさん買ってくればよかったと後悔。
写真は小屋の前の、四季風交通の猫バス「天の川」バス停の時刻表。私も乗ってみたい!

夜は水俣関連ビデオの上映大会。石川さゆり、関西訴訟、その20年と3本ハシゴ。石川さゆりは彼女の若さ(20歳!!)もびっくりしたけど、前日ほっとはうすで会った患者さんたち当人が懸命に働きかけている姿に心揺さぶられた。彼らと同世代の先生方も食い入るように眺めていた。

水俣フィールドツアー2日目

2008-03-26 00:08:29 | 水俣
2日目のテーマは「水俣の過去に学ぶ」で、その内容は「水俣・海編」。
相思社の川部さんの案内で排水口跡(百間口)、埋立地、茂道漁港を巡る。風は少し冷たいけれど、ヒバリの声と日差しは春そのもの。茂道には杉本家のボートも泊っていて、心の中で合掌。

相思社に戻って患者のIさんのお話を聞く。震える手でコップの水をこぼしてしまう姿にドキッとする。
戦後、防空壕に住んで幼年時代を過ごしたこと、中学の時に発病して熊本の病院に連れていかれたこと。両親が亡くなり、大阪の紡績関連工場へ出稼ぎ(集団就職?)に行ったこと。どうしても結婚したくて「これがダメなら死のうと思った」と決死の覚悟で相談、そしてお見合い。
その時の、本人の気持ち、相手の方とその親の気持ちを思うと「さあ、あなたならどうする?」と選択を突きつけられた気分で、固唾を呑む。

「…結婚が決まった時は本当に嬉しかった」という言葉とその表情にホッとした。が、残念ながらそこで時間切れ。その後、水俣に戻ってきて漁業を営む話や、考証館に展示してある彼自作の網や漁具についての話が聞けなくて残念でした。

午後は胎児性患者の小規模通所施設「ほっとはうす」で理事の加藤さんの説明をきいて、通所者と学生たちと互いに自己紹介。喫茶コーナーでお茶をいただいた後、1週間前に完成したばかりの新施設を見せていただく。地元産の杉と檜で作られた建物は、心地よく安らげる空間で、木材が専門の先生も大喜び!(写真は入口の2本柱)

その後、芦北漁港に向かい、患者であるMさんの案内で水揚げされた魚を眺めたり、海辺を散策。穏やかな春の不知火海に、帆をあげて走る打瀬舟のなんと美しいこと!そしてMさん宅で夕食。海の幸がずらりと並ぶ豊かな食卓に思わず歓声。
グチ(イシモチ)のフライ、シラグチのすり身、シラグチ・コノシロの刺身、タイの焼魚、太刀魚の南蛮漬け、イカと野蒜のぬた和え、干し筍やツワの煮付け盛り合わせ、白身のお吸い物に鯛めし、巻き寿司…。一体何しに水俣に行ったのか忘れそうになるほどの絢爛豪華な皿。うをぉー!

しかし、約40年前に芥川仁さんが撮影した家族の写真を見せながら、Mさんは「なぜ水俣病という名前だったのか?これが『水銀病』という名前だったら違っていたかもしれない…」と静かに語る。昭和33年に漁民暴動を起こしたが、風評で漁業ができなくなり、新幹線建設の出稼ぎ労働に行ったこと。
長きわたる裁判で補償を求め続け、最後に残った関西訴訟では裁判官の現地検証にMさんが説明をした甲斐もあって、2004年に最高裁で勝訴できたこと。患者の申請は実質門前払いだったこと、新しい保険手帳の問題点や「罪を犯した人は、きちんと謝って解決すべき」という言葉に、公式発見から50年以上たっても未だ解決していない問題の根深さを思う。

帰り際、Mさんに「今後、芦北地域の漁業はどうなりますかね?」と質問したところ、首を振って「将来性はない。日本人の魚の消費は減っているし、3人の子どもたちにも漁業は継がせなかった」と言われたのが寂しかった。これだけ豊かな海の幸に恵まれた国にいて、それを活かせない消費者って…。

夜は相思社で関西NGO大学の人たちと同宿。彼らの企画の柏木さんミニライブに同席させてもらう。しのぶさんも来る予定が、体調を崩して来られなかったのは残念。しのぶさん作詞、柏木さん作曲の歌に胎児性患者の思いを知る。

水俣フィールドツアー1日目

2008-03-25 17:31:22 | 水俣
ここ2ヶ月、毎週末どこかに出かけたり、友人が来訪したりでネタは山ほどあったのですが、書く余裕がなくて…。元気に生きています。また遡って書くかもしれません。

さて、3月20日~23日はESDの番外編として、水俣フィールドツアーに行ってきました。参加者は私と教員3名、NPOスタッフ1名、学生7名(1年6名、2年1名)。希望者はこの倍いたのですが、都合が合わなかったりで12名に。事前勉強会3回を経て、いざ現地へ!私以外は全員初の水俣行きでした。
今回は水俣病センター相思社にコーディネートをお願いし、宿泊でもお世話になりました。

初日は現地集合(!)で、18切符やママチャリや新幹線、飛行機など思い思いの手段で相思社へ。考証館は余計な説明は入れず、各自のペースで見学。みんな食い入るように展示を眺めていて、なかなか見終わらない。私は95年以降の和解からもやいなおしの今日の部分を丁寧に見ました。

夜は、みんなで鍋を作って食べながら、水俣に移住して無農薬ミカン栽培をしている若手農家、吉田浩司さんの話を聞きました。彼は大学の後輩で、10年前にエコリーグで一緒に代表、副代表をやったこともあるのですが、今は何と言っても彼の甘夏に一族郎党知人友人がお世話になっており、実家周辺で毎年200kgは消費している関係で
2002年に水俣でおじゃました時は農業2年目で試行錯誤中だったけれど、その後年1度の「みかん山通信」や「8・6ニュース」の月連載で生産の苦労や喜びが描かれているのが気になって、ぜひ一度話を聴きたい!と思って今回のゲストで招きました。

水俣は食べ物で被害を受けた町だけど、作っているミカンはほとんどが農薬を使う慣行栽培で、無農薬農家はごく少数であること。水俣市のゴミ分別は全国の先進例だけれど、廃棄物だけでなく食の安全にももっと取り組めばいいのに、という話に始まりました。

水俣のミカン農家は昔は温州ミカンが主で、大暴落を機に甘夏へ転換、50年代はブームで1反あたり100本植えて儲けも高かった時代があったけれど、輸入自由化で大暴落。GATの補助事業で借金してハウスに切り替えたけれど、ミカンの値は上がらず、石油高騰も追い討ちをかけ、さらに超高齢化や後継者不足もあって、ミカン農家は非常に厳しい状況にあるそうです。

彼はこのままでは10年先はない、と5ヵ年計画でみかん山を改造。ミカンの種類を18種に増やし、労働力、収入、リスクを分散させて、甘夏からデコポン、河内晩柑、グレープフルーツの3本柱に切り替え中とのこと。苗を植えてから収穫するまでに4~5年はかかるので、短期・中期の計画を立てて栽培方法や品質、出荷を考えているそうです。
卸先は、らでぃっしゅぼうや、大地など首都圏の販路に4割、産直4割、中間業者に2割売っているけれど、近場で消費してくれる人をもっと増やしたいとのこと。

「みかん山の経営を確立して『農家でやれている』モデルをつくりたいし、モデルが必要! 農業はきついだけでなく、やりようによっては面白さもいっぱいある。ただ植えるだけでなく、どうやって売っていくのかも考えなくてはいけない。IT化は必要だけれど、顧客サービスとして、顔の見えない相手に売るのはちょっとどうかな…」とも。

彼のポリシーは「固定観念を捨てる。変われる人間であろうとしている」。学生へ「自分は大学に入って4月で5月病になった(笑)。でも4年のゼミで法律を勉強しだしてから面白くなって、もっと早くから勉強しておけばよかったと後悔した。何のために勉強するのか?それは生きていくため、自由に生きるため、変わるためではないのか?」「アンテナを張っておくこと、いろんなことに敏感になっておくことが大切」といったメッセージを投げかけてくれました。

厳しい環境の中、生き生きと農業の戦略や将来ビジョンを語ってくれて、私が食べている甘夏の向こう側にはこんな世界があったのか思うと目からうろこでした。これまで何となく知ってはいたけれど、作る人の思いが見えると甘夏も2倍楽しめるし、買うことの意味も増す気がする。実家に帰ったらみんなに伝えたい!と思ったのでした。

そして「剥くのが面倒くさいという理由で甘夏の売り上げが落ちているんだけど、こういう対面販売をやって、みんなに食べてもらいたいんだよね~」と言いながら次々剥いて、甘夏・土佐文旦・デコポン+みかん蜂蜜の3種混合ヨーグルトを作ってくれたのですが、この酸味と食感のハーモニーが絶品の美味さでした!!今も思い出してヨダレが~~。あれ製品化したら絶対売れると思うんだけどなぁ。