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気分は南米?~多文化&SDGs日記

四国を経て、浜松に三度漂着したかっぱの近況

中学校で水俣出前授業

2009-11-12 23:16:22 | 水俣
昨日は「水俣」を子どもたちに伝えるネットワークの出前授業で市内のN中学校へ。

前半は体育館で田嶋いづみさんの講演。
屋根を叩く大雨に声がききとれるか心配だったけれど、3年生の生徒たちは静かに聴いていた。田嶋さんは「水俣病の4つの学び」を語りかける。50年以上前に発見されたけれど、国の責任が裁判で認められたのはごく最近であること、今年7月に「水俣病救済法」ができたけれど、患者は誰も喜ばなかったこと…。
胎児性患者の上村智子さんを“宝子”と呼んだエピソードで「親は子どもの病気を代わりたいと願っても、親の病気を子どもに代わってほしいと思う親はいない!それなのに水俣病では…」という言葉が妙に響いた。

後半は4クラスに分かれて、私は患者で「水俣病・東海の会」の原武さんと1組へ。
原武さんは水俣病に対する差別に苦しみ、恐れ、名古屋に移り住んでからも、水俣出身であることを隠し、九州出身の人がいると近づかないようにしていたという。
お母さんの認定をめぐって表に立つ決心をしたが、心配した子どもたちも理解してくれたし、新聞に名前や顔が出たことで知らない人から励まされることも多かったそうだ。水俣病になったことで「家族の繋がりはむしろ深まった」ときっぱり。100歳になるお母さんへの思いが印象的だった。

でも、原武さんのように患者であることをカミングアウトしている人はとても少なく、今でも取材が入ると写真を拒む人がいるそうだ。水銀による健康被害だけでなく、周囲からの偏見や差別による心の傷の深さはいかばかりかと思う。
震える手を握ったり開いたりしながら、言葉をつむぐ原武さんに、生徒たちは質問こそ少なかったけれど、みんな真剣に前を見つめて聞いていて、寝たりよそ見したりする子はいなかった。

私は、水俣にとってのチッソは、浜松にとってのスズキ・ヤマハ・ホンダを合わせたぐらいの影響力があるんだよ、とか、もし自分がチッソ側の人間だったらどうするだろうかと思うことを話した。
水俣は写真では白黒の重たい雰囲気だけれど、現地は海と山に囲まれて、カラフルで豊かで美味しい所で、今は環境自治体として日本でも有数のゴミ分類やエコツーリズムなどに取り組んでいること。
水俣病の問題の重さにため息をつく以上に、患者さんの勇気や優しさ、敢えて移り住んだ人たちの挑戦など、水俣の人たちのパワーにいつも励まされていること。
水俣に学ぶことがいっぱいある。それを伝えたくて99年の浜松・水俣展をやったし、昨年は愛媛から学生と一緒に訪問した、と話した。

15歳の多感な彼らが水俣に何を思うのか、もっとやりとりしたかったが、私の進行がまずくて引き出せず。原武さんというスペシャルゲストを生かしきれなかったし、自分の言いたいことも事前にきちんと言葉を選んで整理すべきだったし、とりとめなく話しすぎ~。
今週は「反省」が多い…つくづく自分の「しゃべくり」は下手だと自覚せざるを得ない。

田嶋さんには「出前活動は「上手く」あってはいけないのではないか。被害者の痛みを「上手く」伝えられるわけがないし、自分自身が途上の人間として「上手く」生きているわけがない。だからこそ、誠実に子どもたちに対面したい」という言葉をいただいて、ちょっぴりホッとしたけれど、次はもう少し「対話」できるようになりたい。

写真は廊下に掲げられていたスローガン(笑)。
池谷夫妻には大変お世話になりました!

今日、参議院の環境委員会

2009-07-07 09:13:20 | 水俣
今日、衆議院の環境委員会で水俣特措法が審議されます。

今日もリンク。水俣から40名あまりが上京しているそうです。
「今、まさに、水俣病史の歴史の一ページが、つづられつつあります。」
http://yummyseaweed.seesaa.net/article/122901580.html

参議院インターネット中継もある。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php

場末のブログでごまめの歯ぎしりだけど、手をこまねいて見ているのは悔しいので。


田んぼの話はまた後で。
今日はこれからエヌポケに出勤。
明日はカトリック教会で不就学の子たちの検診会。

衆議院で可決、やりきれん・・・

2009-07-03 17:25:10 | 水俣
水俣を子どもたちに伝えるネットワーク代表の田嶋さんのメールの転載です。(本人に了承を得ました)
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本日午後1:20~の衆議院議員面会所にて行われた緊急集会に行ってきました。
環境委員会では、議長の提案のあと一切の質疑もなく全会一致で可決。
本会議においても、同様に、提案の朗読の後、そのまま議決、可決。
傍聴した不知火患者会の大石原告団長の一声は、
「こんなに大切なことが、こうも簡単に議決されて済むのか、怒りでいっぱいだ」でした。
共産党と社民党からそれぞれ2名の議員を迎えて、今後の取り組み、
また、公害被害者の会ほか4名から応援メッセージがありました。
最後のしめくくりに不知火患者会原告団の副団長が、
くやしさと怒りで嗚咽をもらす姿にもらい泣きしてきました。

来週7日には、参議院にて採決になるらしいです。
この特別法がゆくゆくの地域指定解除を狙っているだろうこと、
裁判という基本的人権を引き換えにして救済を求めても、
チッソがゴネたら、どうしようもない法律であること…などが訴えられました。
水俣病の闘いは、常に人間としての声を挙げていった闘いであったと自覚し、
国民のいのちと健康を守ろうとしない法律が可決してしまったけれど、
私たちは決して負けてはいない…と励ましあった集会でありました。

つまりは、政権交替を前に環境省の役人が大活躍で、
政治的状況のみから生まれた法律だということでしょう。
この法律をタテにして、現地の一度も行われていない一斉健康調査を求めたり、
参議院の環境委員会では共産党が議席を持っているので、
議論なしの可決はさせない…など、アリの一穴の智恵をさぐりしぶとく対応していくことになるでしょうか。

私は、子どもたちにどう伝えられるか、という視点で、いつも考えます。
子どもたちに、この「政治状況の都合優先」で可決した、ということをどう伝えられるのだろう、と考えます。
それにしても環境省の役人の画策があったらしいことを耳にして、「教育」のことを考えました。

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とりいそぎ、速報。
うー、悔しい・・・。

水俣病は終わってないし、終わらせてはいけない

2009-07-03 11:00:32 | 水俣
今日も国会から奥田みのりさんのレポートがアップされています。
民主党が与党案に合意 でも あきらめない!

今朝のNHKでは相思社の弘津さんが出てました。
昨年、水俣12月ツアー最終日に聞いた、潜在的な患者がまだまだいること、齢のせいだと思い込んでいたり、根深い差別があって言い出せない人がいる、という話が衝撃的だった。若い頃は何ともなかったが加齢と共に症状が現れてくる人も多く、発見から50年以上たった今も水俣病は終わっていない。(詳しくは12月のレポ参照)

裁判では企業の責任はもちろんのこと、熊本県や国の責任も明らかになっているのに、「救済法」では加害者の企業を分社化して、責任の所在をあいまいにしようとしている。
顕在化しているだけで4万人もの人が水俣病を申請しているのに、これだけ大規模な公害に幕引きをしてしまうことは許されない。


与党案に反対していた民主党が合意してしまったことは、本当に残念。がっかりだ。

しかし! まだ法案は成立していない。修正の可能性が残されている!
法案はおかしい、と思ったら、身近な議員に反対投票をするよう呼びかけてください。何か行動をして示さないと、世論が動いてることに、国会議員は気がつきません。(多分)

最後はみのりちゃんのblogからパクってみました。
ここ読んでる人、FAXでもメールでもいいから「注目しているぞ!」のアピールお願いします~~。


チッソ分社化~続報

2009-07-01 09:24:02 | 水俣

昨日に続いて、奥田みのりさんの記事へGO!
FAX送ってくれた同志たちに感謝。

命を大切にしない政治はいらん!
http://yummyseaweed.seesaa.net/article/122567469.html 

水俣病特措法に反対する記者会見
ほっとはうすのメンバーが会見しました。
http://yummyseaweed.seesaa.net/article/122502424.html

与党の水俣病特別措置法案についての意見は、以下にFAX送ってください。
03-3502-5295 鳩山由紀夫代表
03-3502-8855 山岡賢次国会対策委員長
03-3503-2669 直嶋正行政策調査会長

いったい誰の救済なんだ???
チッソの分社化は実質的な責任逃れだし、これじゃ加害者救済でしかない。

これから外国人学校の検診なので、続きはまた後で。

水俣チッソの分社化~どこが救済法なの??

2009-06-30 00:37:39 | 水俣
同志のフリーライター、奥田みのりさんのブログより。
水俣病の特別措置法案(救済法)が、与野党会議にかけられてます。民主党は、ちょっと前まで与党案に反対すると言っていたのに、 先週あたりから鳩山さんが与党と協議すると言いだし、水俣病に詳しい松野議員を協議のテーブルメンバーから外しました。(続きはリンク先参照)

水俣病センター相思社のメールより。
ごんずい111号「与党の水俣病特別措置法案を読む」
松田健児さんの論点は、国会で特措法が成立するということは、水俣病被害者救済の一切合切を政府に丸投げすることになる。いまだ声を上げていない水俣病発症者たちを、環境庁設置以前の混沌に追いやることになる。これで国会の責任を果たしたと言えるのか! です。
特措法案全文と松田さんの文章とじっくりと読み合わせてみてください。

松田さんは、少なくとも国の責任と賠償が明記されたC型肝炎の薬害肝炎救済法
と同等の策を模索すべきと言われています。
2008年1月に成立した薬害肝炎の特措法は、「福田康夫首相は、被害拡大を防止できなかった『国の責任』を認め、被害者と遺族に『心からおわびする』とした談話を発表した。また『再発防止に最善、最大の努力を重ねることを約束する』と強調している。同法は前文で、被害を拡大させた国の責任について『政府は被害者に甚大な被害が生じ、拡大を防止できなかった責任を認め、心からおわびすべきだ』と明記した。その上で、国と企業が約200億円を拠出して基金を設置」と報道されている。

水俣病の特措法とは大違いだ。「水俣病特別措置法」は国の謝罪がないどころか、加害者救済(チッソばかりでなく国・県も含めて)を急ぐあまり「地域指定」解除までちらつかせ、かつ水俣病発症者たちをこの特措法に追い込む手法ばかりが目立つ稀代の悪法といえよう。こんな法案が国会を通るかもしれない国、日本とはいったい!!(2009/06/17)

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とりいそぎ、急を要するので転載記事のみ。ぜひリンク先も読んでください!!

水俣4日目~漁村めぐり、ふりかえり

2009-01-02 14:06:19 | 水俣
最終日は、相思社スタッフとの挨拶・自己紹介の後、E大出身の弘津さんのガイドで茂道方面の散策。
患者が最初に発生した漁村は、水俣市のはずれの県境にあり、元々天草など外からの移住者が多く、水俣市民のヒエラルキーとしては最底辺にあったこと、今でも市役所に就職する人でさえほとんどが行ったことがない、市街地住民にとって縁の薄い地区であること、「元々あった構造的な差別と偏見が水俣病を生んだ」ことを、写真の甘夏畑を見ながら解説。

1950~60年頃に水俣市や不知火海沿岸に住んでいた人は皆、何らかの形で影響を被っているはずだが、水俣市内では隠している、がまんしている、制度を知らないといった理由でなかなか顕在化しないという。
しかし、高齢化と共に身体に現れる症状と医療費負担が酷くなり、がまんできなくなって、やっとの思いで申請を決意する人が増えてきているそうだ。以前、15000人だった水俣病の申請者は、2004年の関西訴訟の勝訴後に新たに25000人も発掘されている。それでも、配偶者にすら内緒で申請する人がいたり、家族の反対にあって泣く泣く申請を取り下げる人もいるという話には驚いた。

チッソや水俣市役所に勤める人は、水俣市におけるステイタスが高く、差別する側にいるがゆえに、患者や手帳の申請をすることはタブーという不文律もあるという。「市役所の職員が変われば大きく変わるはずなのに、その牙城は厚い…」と弘津さんはつぶやく。
また山間地では、自分の症状は老化によるもので、水俣病だと思っていない人もいて、他所から嫁に来た人には症状がないことで、初めて水銀の影響だと気づいたケースもあるという。

1956年の公式発見から50年余が経っても、水俣病は終わるどころか、今なおその実態が掴めきれていない。症状が年々酷く現れてくること、想像以上に根深い差別があることに愕然とする。
「もやいなおし」によって「少しは」改善されてきたけれど、水俣市民の大多数にとって水俣病はまだまだ隠すべき忌むべきものであるという。「でも、申請が通った人は水俣病の悪口は言わなくなる」というのが皮肉だ。
水俣病の補償や認定のしくみは非常に複雑で、そのしくみが新たな差別やねたみを生んでいる。公害の「解決」「補償」とは一体どうあるべきなのか、どうしたらよかったのか。


茂道では杉本水産の船を見て、相思社に戻り、みんなでふりかえり。それぞれの感想や学んだことについて意見交換。
学生は3名は異口同音に「授業をサボって行ってよかった!濃い4日間だった」「教科書では数行だけだったけれど、現地に来てたくさんのことを学んだ」。K田先生は「ゼミ旅行でまた来たい」と言っていたし、竹内さんもESDのたくさんのヒントが得られたそうで、各々収穫の多い旅になった。
私も来る度に新たな驚き、出会い、発見があり、丁寧な案内やもてなしは本当に嬉しかったし、仕事でこんな充実の旅ができて幸せだった。2回のツアーについては報告書を作り、他の大学にも宣伝できるようにしたいし、3月組と合わせて報告会も開いて、水俣について伝え、考える機会をつくって、ぜひみんなで共有していきたい。

ふりかえりの途中から相思社の最古参職員の遠藤さんに一緒に参加していだいたが、水俣市の環境政策が進んだのは、ゴミ処理でボンベ爆発事件があったことに端を発するという裏話にびっくり!有名なゴミの22分別もそんなきっかけとはーー。
吉井市長時代に環境政策が大きく前進したが、相思社内部では「対企業・行政」の対立構造から「もやいなおし」への転換に対する葛藤がかなりあったという。
1993年が転換期で「対話ができるようになったのが財産」だと言うが、今もハードな人たちからは「なぜ戦わないのか?」と言われるし、スタンスの取り方が難しいという。

私も大学時代は自然保護やダム・ゴルフ場・原発反対など「反対運動」で企業を訴えたり、行政を相手にデモやら座り込みやらしてきたけれど、21世紀になってNPOと行政・企業との「協働」を推進する立場になり、時代の移り変わりを感じてきた。
しかし、水俣はチッソと行政の犯罪があまりにも重すぎて、「告発する側にいた人間にとって「一緒に考えろ」と言われても、なぜ「共に」やらなければならないのかと初めは反発した」という正直な心情もわかる気がした。
最近、チッソが患者補償の部門と収益部門を分社化したがっているという話に、企業の体質もそう簡単に変わらないのかとガックリしたし、チッソ・市役所をトップとする根深いヒエラルキー、差別が残る中で「もやいなおし」を進めることの難しさをしみじみ感じた。

最近は、環境学習で水俣を訪れる修学旅行や大学のゼミ旅行なども増えているという。水俣には公害からグリーンツーリズムまで学びの素材が本当にたくさんある。
水俣市のゴミ分別では外からの視察が増え、初めて「褒められた」ことが環境政策が進む一因にもなったそうだが、「水俣に学ぶ」人が増えることでも、何か影響を及ぼせないだろうか。今回のツアーもそのモデルになるようにしたい。

また、遠藤さんは「“コミュニティの再生”というけれど、理想のコミュニティとは一体どういうものなのか?吉本哲郎さんは農村共同体をモデルにしているが、旧来の農村のしがらみがイヤで出してきた人も少なくないし、男女差別などの問題もあってモデルにはしたくない。かといってヨーロッパ型というのは日本は経験がない。目指すべきコミュニティのモデルを持てない中で模索している」と問題提起。これはESDでももっと深めていきたい議論である。


飛行機組はそこでお別れ。学生と私は考証館を再度見学。そこでまた遠藤さんが案内してくださった。「年末の寒い時期に、派遣切りで家を追い出されるなんて~」という世間話から、「世界の変革」を目指していた彼が水俣に着いた経緯やら、脱線気味の解説が実に面白かった!!
水俣の話だけでなく、水俣に寄せられた人の生き様も見たい、見せたいと思っていたので、居残り組は思わぬプレゼントでした。

帰途で学生が「弘津さんの学生時代の話や、遠藤さんが水俣に来た話をもっとききたかった~」と話していて、三里塚って何?と聞かれて成田紛争の説明はしたけれど「その時代の学生って、なんでそんな熱かったの?」という問いには答えきれず(汗)。ぜひまた機会をつくって話を聞いておいで!

最後に、こちらの要望に120%応えるすばらしいツアーをコーディネートしてくださった川部さんには、参加者一同感謝!ありがとうございました!!


ふ~。長文になってしもた。ふりかえりメモを松山においてきたので、まだ書き足りないのだが、とりあえずアップ。

そして、旅はまだつづく…。

水俣3日目~埋立地、みかん農家

2008-12-31 22:51:07 | 水俣
ほっとはうすを後にして行ったのは、チッソの百間排水口と埋立地。現在の「エコロジカル健康パーク」である。そして、水銀汚染魚を詰めたドラム缶が埋められた部分や、埋立地の先端の親水護岸ボードウォークで野仏や恋路島の向こうに沈む夕日を眺めた。

夜は、水俣の若き農家、吉田浩司一家と一緒に夕食。3人の子どもたちが大きくなって、一番下の子はポニョそっくり♪でかわええ~。
夕食後は、3月に引き続いて無農薬みかん農家になるまで、なってから、これからの展望についていろいろ語ってもらった。引き継いだ甘夏のみかん山も、5ヵ年改造計画で今はデコポン、河内晩柑、ライム、レモン、グレープフルーツ、黄金柑、土佐文旦(パール柑)など8種類でリスクや労働力の分散を図っているという。

水俣も田畑の約20%が耕作放棄地で、農業人口の70%が高齢者という厳しい状況の中にある。慣行栽培の場合の農薬の問題や、費用のコストなど、農業経営の話は非常に面白かった。
3年、5年、10年先を見越して持続可能な企業経営でまわして行きたい、農家ももっと勉強して経営をシビアに考えるべき、農業経営コンサルは儲からないけれどニーズはすごくある、など。
簿記3級の知識は高校でも全員必修にすべき!の提案は、NGO代表の竹内さんも賛同していて、会計に疎い私も勉強しなくては、という気になった。
「各家庭で畑を持とう!」という提案は、やっぱりそこに行き着くのか~と考えさせられた。学生も「食との距離間を縮めたい」と言っていたが、持続可能な社会を追い求めていくと、どうしてもそこに行き着いてしまう。

現場で実践している人の話はやっぱり説得力がある。農学部の学生2人も興味津々だった。今回はミカンの時期には早かったけれど、ダイダイをもらって鍋や焼酎に入れたら美味しかった。ごちそうさま~!また甘夏の時期になったら一族郎党でお世話になります。

その後は、石川さゆり、杉本家ほか水俣関連ビデオ鑑賞大会。学生は「石川さゆりって誰~?」と言うので(しくしく…)紅白見てねと言っておいたけど、今、紅白で見たら30年前とは大違いだー(同じだったら化け物ですがな)。30年前は清純なアイドルだったんですよう。

水俣3日目~ほっとはうす訪問

2008-12-31 18:10:51 | 水俣
水俣港に着いて、胎児性水俣病患者などの共同作業所、ほっとはうすへ。前回はわずか30分で、学生たちの「ゆっくり過ごしてみたかった」という要望が強かったので、今回は昼食から半日を過ごすスケジュールに。

3月に訪れた時は、新しい建物へ引っ越す直前で、今度はその桧の香りが初々しい建物を訪問した。本来は休日のところ、私たちのためにわざわざ出勤してくださった。明るい食堂でみんなで昼膳をいただき、それから施設長の加藤タケ子さんによる建物の紹介。

3部屋の宿泊部屋は「障害者は制度や手当の中で“大人しく品行方正に”暮らすべきだというのでなく、障害者だって飲みに行ったり、家族に気兼ねなく生活を楽しむ自由がほしい」という考えから、経営的には厳しいけれど敢えて作ったという。
お風呂は、安心して入れるように工夫を凝らしたバリアフリー仕様。50歳前後になる胎児性患者の、歳と共に落ちていく身体機能や繊細な心情に寄り添った作りになっている。
「いかにも障害者の施設というような機能優先の無機質なつくりにはしたくない」というコンセプトが生かされた桧と漆喰の建物は「ずっといたくなる」心地よい空間だった。

そして、3本の柱の物語。80年ものの桧の大黒柱(写真)には、100年後も水俣を語り継いでほしいという思いが込められている。
部屋の一角には、完成を目前に亡くなられた理事長の杉本栄子さんと建築家の白木力さん、もう一人障害者の方の写真。壁には「きぼう・未来・水俣」の大きな絵が飾られていた。
「30年間みんなが待ち望んでいたことがかなうと同時に、最も大切な人を亡くした一年だった…」と加藤さんは言葉を詰まらせた。

加藤さんと患者さんたちによる「水俣を伝えるプログラム」は、彼らの子ども時代、青年時代の写真を見せながら、自らの姿、経験、思いを曝け出して水俣病のことを伝えてくる。
親と離れて病院に入れられて寂しかったこと、病院に学校ができて嬉しかったこと、チッソ近くの小学校の校歌には工場の風景が歌われていたこと、生まれた時にはお父さんは劇症で亡くなっていたこと、症状が悪化して歩けなくなったことが悔しいこと、もしまた歩けるのならば明水園(水俣病患者の施設)の友人の車椅子を押してあげたいこと…。

当事者の言葉の重み、その存在感に、もう圧倒されっぱなしだった。
本や映像や伝聞で知ってきたことが吹っ飛ぶぐらい、生身の彼らと向かい合うことは、何よりもインパクトがあった。
まだ自分の中でも消化しきれていないが、患者同士の絆、「水俣病は宝」という加藤さんの言葉、地域の中で歩むということ、多くのことを考えさせられた。

患者さんの中には父親がチッソの社員だった人もいるし、裁判で身内が先頭に立って戦っていた人もいる。「石川さゆり」のビデオに出てきた彼らを見ると、想像もつかないような差別や困難の中でもなお「社会に出て仕事をしたい!」という強い思いが伝わってくる。それから30年経ち、体の自由が効かなくなりつつも、諦めることなく「伝える」仕事をしている彼らの「強さ」に励まされた。

3時すぎには、ほっとはうすが出前授業で訪問した先の小学生が、クリスマスローソクつくりに次々と集まり、明るく広々とした施設は子どもたちの声で賑わっていた。保護者もたくさん来ており、ごく自然な学びの場となっていた。

不知火海沿岸で胎児性患者は66名確認されているそうだが、亡くなった方が13名。ほっとはうすに通う人や、写真や映像でよく出てくるのは10数名にすぎない。
多くの患者は社会との接点もなく、ひっそりと暮らしているのだろうか…。

結局、半日でも足りず「もっといたい~」という学生を急かして埋立地へ。(つづく)

水俣2日目~御所浦島アイランドツアー

2008-12-26 17:44:57 | 水俣
2日目~3日目は相思社の川部さんのお薦めで、水俣の対岸にある御所浦島でアイランドツーリズム。瀬戸内海との共通点、相違点を探しにいく。

朝、新水俣駅で後発の学生を拾うと、水俣港から貸切船で出発。風があって、14人定員の小さなボートはうねる波に乗ったり降りたり、前日のTVで「鏡のような不知火海」と言われていたのが嘘のような変貌ぶり。
不規則に跳ね上がって波間にドーン!と落ちては「わーーっ!!」と悲鳴があがる。船窓は潮で何度も洗われ、しぶきの間に見える景色は空と海が交互に現れ、写真撮影もままならない。

時化の航海は何度も経験したけれど、小さな船は初めてで、この状態が40分も続くの?…と思ったが、運転している漁師さんも川部さんも涼しい顔。興居島に住むK田先生も「瀬戸内とは違うなぁ~」とニコニコしているし、T内さんも「ジェットコースターみたい!」と楽しんでいた。
船が進むにつれて波が落ち着いてきて、島に着く頃にはすっかり平面を滑るように。学生はちょっと酔っていたけれど、無事到着~。

初めに、アイランドツーリズム推進協議会の事務所で三宅啓雅さんに話を伺う。三宅さんは御所浦町がH18年に本渡市などと合併して天草市になったことを契機に、勤めていた町役場を退職して、観光推進課で始めた修学旅行の受け入れを引き継いだそうだ。
中学・高校の修学旅行で広島や兵庫などから年間500~600人の客があり、28軒の民泊で受け入れている。家が大きい大家族で、元々外の人を受け入れる風土もあったという。簡易宿泊所の許可をとって、熊本県でも先進的な民泊に、漁業体験と化石発掘などと組み合わせたアイランドツーリズムに取り組んでいる。
現在の課題は、ガイドが少ないので地元の人を育てる必要性があると話していた。

島の文化として、入江が多くて28人の船大工がいたという「伝馬船」の復元にも取り組んでおり、天草の桧で作った木造船を漕がせてもらった。一本の櫓を立って操るのは見た目より難しいが、その姿は舟歌を歌いたくなるような優雅さがあって、もっと漕いでみたかった。

昼からは、食堂「松苑」の豪快なアラ煮や海鮮ちゃんぽんを食べながら、水俣病患者連合の副会長の松村守芳さんのお話を伺う。
昔の御所浦島は、山の方まで畑があって芋や裸麦を作っていて、海では鰯や太刀魚を中型巻き網漁で獲って暮らしていたが、S27年あたりから大阪や名古屋へ出稼ぎに出るようになり、S33年頃からだんだん魚が獲れなくなってきたという。

当時、御所浦島で「水俣病」は知られておらず、調子が悪くてもアル中や痛風で、豚が死ぬのも豚コレラだと思われていた。水俣病のことが知られるようになっても、魚が売れなくなると困ると隠れて申請しており、認定患者2200名のうち島の患者はわずか55名だという。
2004年以降の保険手帳の申請では、松村さんが申請を呼びかけた結果、18000名のうち600名が御所浦の人と大幅に患者が発掘された。前日のTVでも島の患者を掘り起こすシーンがあったが、島の被害の様子は水俣市とはまた異なることを知る。

その後、民宿「エンジョイもりえだ」へ。森枝夫妻とレモン刈りと化石拾いのお散歩へ。化石は発掘現場の石が積み上げられている場所があり、砂岩を割ると小さな貝の化石が出てきて、みんなでしゃがみこんで石拾いに熱中。
途中、ふざけながら帰ってくる小学生を見つけて「こんにちはー」と声をかける。三宅さんは「同級生は80人」と言っていたが、今は何人ぐらいなのだろうか。

民宿に戻って、夕食の鯛やメジナ、10年ものの30cmもある鯵をみんなで捌く。初めて魚を捌く学生もいたが、ぴちぴち動く魚に果敢に挑んだ。煮つけ、焼き魚、刺身と並ぶ皿に「わーーっ♪」。特にメジナの刺身は歯応えがあって、美味しかった!

森枝夫妻と皿を囲んで、御所浦島に来る客がきっかけで民宿を始めた話で「化石博物館の学芸員はみんなうちの“出身者”だもん」、「天草市」に合併されたことで、生活の面では天草より水俣の方が近いのに、昨年フェリーが廃止されてしまったことや、3人の子どもたちの話などで盛り上がった。
この民宿は、子どもたちの部屋がそのまま宿泊部屋になっていて「まるでおばあちゃんの家に来たみたい」な雰囲気でくつろげるのが嬉しかった。


翌日は、天草土人形や貝細工の絵付け。人形は不思議と描く人に似るそうだ。みんなでわーわー言い合いながら色を付ける。
乾かす間に白亜紀資料館を見学。この島は九州でも有数の化石発掘現場であるらしい。
そんなこんなで、あっと言う間に時間が過ぎ、島を去る時間に。
名残惜しいけれど、森枝夫妻に見送られ、貸切船で水俣へ戻った。
帰りは穏やかな海に打瀬船(木造の帆船)がたくさん漁に出ていて、いつの時代かと思わせるような光景が印象的だった。


有名な観光名所があるわけではないけれど、何気ない風景や植物や人が「あったかい」雰囲気だった。島が小さくて、人とのつながりが感じられる(川部さんという優れたコーディネータが媒介していることも大きい)のが大きいのではないか。
もっと長期で滞在すると違うものが見えてくるのかもしれない。アイランドツーリズム、グリーンツーリズムのヒントがいろいろあるように思う。