secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

パプリカ

2009-08-16 10:05:28 | 映画(は)
評価点:91点/2006年/日本

監督:今敏

原作:筒井康隆

この映画のために、アニメ映画というジャンルが存在するのだ!

千葉敦子博士(声:林原めぐみ)は、開発中のDCミニというマシンが盗まれたことを聞かされる。
DCミニとは、患者が夢を見ているところをモニタリングしたり、その夢に入っていったりすることができるという、精神病・総合失調症の患者への夢の治療方法だった。
そのDCミニが盗まれたことによって、それまでの患者の夢のデータがDCミニを通じて逆流し、正常な者までも「白昼夢」を見ることになってしまった。
千葉と時田(声:古谷徹)は、DCミニ盗難の前後で連絡が取れなくなってしまった、もう一人の研究員・氷室が、主犯ではないかと捜査し始める。

僕の大好きなアニメ監督の今敏の最新作である。
今回はなんと僕の大好きな作家である筒井康隆の原作を、アニメに描き下ろすと聞いて、観に行かずにはいられなかった。
年末に、しかも初めて独りで映画を見に行ったわけだが、今年(2006年)で一番良い映画に出会うことができて、感無量である。

この勢いで、「パーフェクト・ブルー」も借りたのだが、それについては、また次の機会に書こう。
 
▼以下はネタバレあり▼

原作は1993年に書かれた作品である。
つまり今(2006年)から13年ほど前の作品ということになる。
実際、原作の方は読み始めたばかりだが、劇中にもフロイトだとかユングだとか、無意識・意識という話が出てくるところから考えても、心理学としては多少古い理論を元に描かれている。
現在の心理学はどのあたりを走っているのか全然知らないけれど、この十年でもっと複雑化、深化しているだろう。

それが原因なのか知らないが、やはりストーリー自体は非常に単純で、悪く言えば、「古典的」で「陳腐」なものだと言える。
二つの矛盾する自我が、互いを認め合い一つとなる物語、と言えば良いだろう。
つまり、千葉敦子という社会的にも年齢的にも成熟した一個の人間と、パプリカという夢や空想などを愛でる子どもような自我との融合である。

敦子は自分が科学者であることを誇りに思いながら、仕事をしている。
任された責任は絶対に遂行しきるし、ミスはきちんと処理しようとする。
その一方で、パプリカという夢探偵として働くという顔を持つ。
二人は容姿が全く違うことに象徴されているように、考え方も、求めるものも、全く違う。
だが、やはり一人の人間なのだ。
それは、意識・無意識、潜在・顕在という単純な割り振りでは切りきれない、二面性をもった一個の人間なのだ。
夢と現実という役割の違いを担いつつも、それでも完全に別れているわけではない。
ただ、敦子の方が、きっちりと分けておきたいのだ。
それは敦子が本当の「自分」でありたいと願っているからだろう。

だが、物語は大きな事件から始まる。
敦子の研究だったDCミニというマシンが盗まれてしまうのだ。
DCミニがどういうものかは、劇中に説明されている以上に説明しようがない。
相手の夢をのぞいたり、夢に介入したりするマシンである。
ではなぜそれほど夢が重要なのか。

それは、フロイトなどの心理学者が言うことが真実ならば、夢は自分が意識できない意識下の思いや考えが、普段なら制御しているはずのリミッターなしで展開されてしまう物語だからだ。
だから例えば、オネショをする子どもが水に関係する夢を見たときに、お漏らししてしまうといった現象が起こるのだ。
自分が普段抑圧しているはずの欲望や願望を叶えようとするため、自分の夢の質によって、ある程度それがわかるということになる。
だから、夢をコントロールすると言うことは、逆に無意識を解放できる唯一の場を奪われ制御されると言うことになる。
当然、それはマインドコントロールであったり、人を狂わせる力を得たりすることができるということなのだ。

研究所所長の島博士が、いきなりおかしくなったのは、DCミニのせいだと言っていたのはそのことである。
逆流した患者の夢によって、白昼夢を見るようになったのである。
フロイトらは、夢判断によってある程度神経症の治療ができると考えていた。
だからこれらの設定は、その理論に乗っかった話なのだろう。

ともあれ、これによって敦子たちはDCミニの回収とその犯人を突き止めることを余儀なくされるのである。
ここで面白いのは、DCミニ盗難の捜査をしている中で、もう一人の自分「パプリカ」がどんどん前に現れるということだ。
敦子の性格上、パプリカと自分に明確な線引きを求めている。
それが、敦子のアイデンティティの保障であり、よりどころだからだ。
だが、物語が進むに当たって、どんどん目の前に現れ、ついには対話までしてしまう。
DCミニ盗難の捜査という名目であるが、これは明らかにもう一人の自分との対話であり、融合である。
つまり、乖離していた二人の人格が事件を通して一つになると言うことだ。

終盤、DCミニの捜査よりも、時田という研究員を助けることを優先した。
これは今までの敦子には起こりえない行動だったはずだ。
しかし、パプリカとの交渉により、衝動的に時田を救出しようとするのだ。

首謀者の一人だった小山内(「おさない」という彼の名前ももちろん「幼い」=「精神的未熟」のメタファーが込められている)がパプリカの体を引き裂き、中から敦子が登場することは、その通過儀礼のようなものだ。
それまでわかっていながらも絶対に認めようとしない二人だったのに、無理矢理とはいえ「同一人物」であることを認めさせられるのだ。
そうなれば、粉川刑事と同じである。
トラウマから解放され、矛盾する二人の自我が一つになり、敦子 = パプリカ は安定を得ることになる。

粉川はそれが映画であっただけである。
それも意識されることによって、克服可能なものだったわけである。
彼は、捜査が行き詰まる = 映画が完成しない という過去の出来事を結びつき、神経症を引き起こしていたのだろう。

このように解体すれば、それほど難しい映画ではない。
だが、ここで注意しておきたいことは、どこまでが現実でどこからが夢なのかという線引きを明確にすべきでないということだ。

どこかで読んだ覚えがある。
「人は眼前のその「物」を見ているのではなく、その物の「歴史」を見ているのだ」
人は物事を見るとき、必ず自分の過去と照らし合わせながら見ている。
全く新しい物でも、それまでの自分の経験や見聞きしたことから、似たような体験や物事を引っ張り出し、それに当てはめて、新たなものを受け止める。
つまり、現実は人それぞれで、個人のフィルターによりゆがんでいるのである。
だから、人が見た物でも自分には違った印象があるのだ。

だから、パプリカが体験したものは全て夢であるし、現実であるとも言える。
少なくともそれはパプリカ(敦子)が経験した「真実」なのである。
物語の中盤までは現実と夢との区別はそう難しくない。
しかし、終盤行こうになると、どこまでも夢であり、どこまでも現実となる。
そこに線を引くことが難しくなっていく。
それはそれでいいのだ。
夢で戦っていることも、現実で戦っている事も結局は人の心のフィルターにかけられている。
そこに線引きする必要さえない。

それは、パプリカと敦子が融合するという、物語の主題と関連しているのは言うまでもない。
夢と現実、二人の自分、意識と無意識の融合。
これがこの映画の最大のメッセージであり、テーマなのだ。
もう少し説教臭く言うなら、「夢を大事にせよ」というメッセージだ。

……だが、今までの話はこの映画の魅力の半分も伝えていないだろう。
この映画はストーリーやテーマに魅力があるのではない。
この映画のコンセプトは「画のための映画」と今敏自身が言うように、この映画の最大の魅力は、画面からあふれる画の力である。

夏目漱石は「草枕」の中で、筋を読む小説は面白くない、本当に面白い本は、どこから読んでも面白い本だ、というような事を言っていた。

この映画はまさにそれである。
夢に登場するパレードは、まさに夢のパレードである。
それに平沢進の音楽が融合し、得も言われぬ最高の映像美を見せている。
これは本当にすごい体験だ。
映像に浸るという感覚を楽しむ為に映画がある。

昔、僕が村上春樹を読んだとき、文体の中に全てをうずめたように、この映画も映像の中に全てをうずめることができる。
アニメが担うべきジャンルはこれだったのだと思わされる。
これほど力強くハッピーになれる映画はそうはない。
文句なしに、今年(2006年)最高の映画である。

それに加え、林原めぐみに、古谷徹、そして山寺宏一……最高じゃん。

(2007/1/9執筆)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホステージ(V) | トップ | 硫黄島からの手紙 »

コメントを投稿

映画(は)」カテゴリの最新記事