secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ダヴィンチ・コード

2009-06-07 22:54:31 | 映画(た)

評価点:49点/2006年/アメリカ

監督:ロン・ハワード(「ビューティフル・マインド」ほか)

コード混線。

ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は、自身の講演後いきなり警察に呼び出される。
連れて行かれたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品が展示されている、ルーブル美術館の一室だった。
そこで横たわっていたのは、今日会う約束をしていたはずの美術館のソニエール館長だった。
かれはダ・ヴィンチの有名なウィトルウィウス的人体像の格好をして死んでいた。
しかも、彼は自分でその格好をしたというのである。
不審に思いながらも、彼の残した暗号を解こうとしているときに、ソフィー・ヌヴー(オードレイ・トトゥ)という暗号解読専門の捜査官が現れる。
彼女の伝言を聞いたラングドンは、自分が重要参考人として呼ばれ、しかも被疑者であることを知る。
ソフィーのはたらきかけで何とか脱出したラングドンは、ソニエール館長の遺志を明らかにしょうと奔走する。

超話題作の一本。
ダ・ヴィンチが誰だかわからない人はいないだろうというくらい、最近は特番が組まれて、「番宣」を行っている。
原作が全世界でも話題になったためで、それが映画化するということで、ますますブームが大きくなっている。

僕は映画化されるということを知ってから読み始め、あっという間に読み終わり、なぜそんなに話題になったのか不思議なほどだった。
前評判はどうあれ、原作を読んでいる限り、そんなに大した小説でもないし(というかキリスト教云々がなければ三流小説)、
これを映画化しても、大して面白い作品になるとは思えないと感じていた。

まあ、原作を読んでしまった人にとっては、観に行くべき作品だろう。
ただし、原作を読むのが面倒くさい、あるいは、特番で見たからいけるだろう、などと思っている人に関しては、映画として楽しむことは、まず出来ないと思っていただこう。
正直、これを見るくらいなら、他の作品を見に行った方が賢い。
興味があるなら、止めはしないが……。
 
▼以下はネタバレあり▼

原作の魅力は、いままで当たり前だと思っていた「常識」を丁寧に論証することで、ひっくり返す、というものだった。
もちろん、かなり無理がある部分もあるし、かなり説得力のある部分もある。

しかし、それが読んで理解できるのは、その「常識」を丁寧に説明してくれるのと、その説明を何度も読み直しがきく文字という表現媒体によるものだからだ。
つまり、小説としてはじめて成り立つ物語、と言っても良い。
それを映画化すること自体が、そもそもすこし無理がある。
さらに、この映画の最大の失敗は、映画化と映像化を間違えてしまったことだ。

僕は原作を読んでしまっているので、どうしても原作で「補完」しながら観てしまったことを最初に断っておく。

この映画が全く理解されないだろうという理由は、謎の解決しか説明されない点だ。
謎とは、そもそも、疑問が提出されたことから発生し、それが解決されることによってカタルシスを得ることで完結する。
しかし、この映画の謎はすべて、解決しか見せてくれない。

例えば、ダ・ヴィンチの有名な作品「最後の晩餐」。
これは、キリストが密告されてしまう前に、弟子達とととも過ごす最後の食事の風景を描いたものである。
ここで有名なユダが裏切ることをキリストが予言するのだが、キリスト教圏の国ならともかく、キリスト教にそれほど詳しくないだろう、日本人にとって、これらの基本的といえる事実を説明せずに、隠されていた謎の解明のほうを行ってしまうため、なぜそれが衝撃的なのか、全く理解できない。

これは別にキリスト教徒でも同じ事だろう。
当たり前の事象でも、あえてそれを説明することによって、――「制作者が立っている前提」を明らかにすることによって――はじめて「ひっくり返し」が有効になるのである。
そこではじめて、今まで何気なく観ていた超有名な作品に隠された謎に迫ることができるのだ。
だからこそ、そこで膝を打つようなカタルシスを得ることが出来るのだ。

しかし、この映画にはその前提の説明がほとんどない。
本来の聖杯の意味もわからなければ、それがどんな意味を持つのかという説明もない。
だから、原作の魅力の一つだった常識を覆す真相の究明が、まったく魅力のない話になってしまっている。

「世界ふしぎ発見!」的な再現VTRでは、まったく観客は理解できない。
それどころか、黒柳徹子がいつ出てくるのかと不安にさえなる。
興味さえもボッシュートである。

それだけではない。
キャラクターの前提もあまりに見せ方が悪い。
ラングドンが呼ばれた理由が最後までよくわからない。
もちろん、最初の講演を聴く限り、かれがそう言うことに対する専門家なのだということはわかる。
しかし、それだけでは不十分である。
彼でなければならない理由が必然性を持って感じられないのだ。
だから、そもそも彼に感情移入することさえできない。

ヌヴーについても同じだ。
キリストの血を引き継ぐという衝撃のラストに持って行くには、あまりに内面が軽薄だ。
それが彼女のアイデンティティにかかわる重要なものでないため、感動や衝撃を呼ぶことがない。
過去の回想が入るが、拙い再現VTRだけで感情移入することは不可能だ。
もちろん、それにまつわる前提となる「事実」を先に明示しないため、ますます衝撃度が薄らいでしまう。

試写会で失笑を買ったという理由もうなずける。
大きい話にしているのに、全くその大きさを感じることが出来ないのだ。
歴史をひっくり返しているという感覚を味わうことが出来ないのだ。
だから、話のスケールは大きいものの、全く衝撃はないし、カタルシスもないし、感動も呼ばない。
これでは物語として破綻してしまうのは必然である。

キャラクター、史実双方の見せ方が圧倒的に悪いのだ。

この映画の構成は、ほとんど原作の構成と同じである。
これが最大の失敗だったと思われる。
例えば、冒頭。
ソフィーの夢から始めていれば、その夢で、両親が死んでしまう、祖父と絶縁になる、などのシーンを挿入しておけば、
ある程度キャラクター性を見せつつ、設定の説明もできた。
しかし、そういうことをしないで、再現VTRばかりで見せようとするから、薄っぺらい印象しか受けないのだ。
重要な過去の回想が真相と近づけば、どうしても観客の感情移入できる部分は、狭まってしまう。
共有できない個人の過去に真相を求めてしまうと、観客が一緒に謎を解くという余地がなくなってしまうからだ。
映画的な記号で、映画的な謎解きを見せるべきだったのだ。

あるいは、ラングドンのキャラクター性を見せるのに好都合だったのは、最初の講演の内容だ。
ここで冷ややかかにも思える衝撃の説を唱えさせることによって、ラングドンが選ばれた理由がわかるし、ダ・ヴィンチやキリストの予備知識を植え付けることができる。
記号だけのあの講演内容は非常にもったいない。

いずれにしても、原作を意識しすぎて、原作通りの見せ方、展開の仕方をしてしまったから、単なる映像化しかできなかったのだ。
それでは「映画」として成り立たない。
「映画」としての見せ物にならない。
大人の観客の求めているのは、「ハリー・ポッター」のような映像化ではない。
「映画」として楽しむこと、映画化を大人は望んでいるのである。

根本的に、この映画は何を目指しているのかわからない映画となっている。
歴史ドラマやアドヴェンチャーとしては、先にも書いたように失敗している。

では、犯人捜しのサスペンスとしてはどうだろう。
これも、後半の演出の拙さを観てもらえば自ずと答えは出る。
リー・ティービングが犯人であることが明かされる直前、執事を見つめる犯人の主観映像になる。
しかし、次のシークエンスではすぐに犯人が明かされる。
なぜそんな下手な主観映像で撮ろうとしたのか、全く理解できない。
すぐに犯人が明かされるなら、そこで意味ありげに、隠す必要はなかっただろう。
さらに言えば、全然隠れていない。
執事の反応から言えば、リーしかあり得ないのだ。
だったら、なぜあのような幼稚な演出を選択したのだろうか。
犯人の明かし方も、衝撃の「し」の字もない淡泊な演出。
これではあれだけ無意味に引っ張ってきた時間が完全に宙に浮いてしまう。

アクションとしての「ダ・ヴィンチ・コード」は言うまでもない却下だ。
最初の逃走シーンはあまりにテキトーで、何が何だかわからないカーチェイスになっていた。
見せ場として見せる気は全くなさそうである。

結局何がやりたいのか、誰にもわからない映画になってしまった。
映画的な記号 = コードを混線させてしまったのだ。
だから、僕たち観客にできることは、ただでさえ面白くなかった原作を、映画化でさらに面白くなくさせてしまったと、言い切ることによって、混線したコードを断線することしかない。
 

(2006/6/4執筆)

「天使と悪魔」が絶賛公開中です。
僕は観に行きませんけどね。

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