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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

パッチギ!(V)

2009-06-14 11:49:09 | 映画(は)
評価点:40点/2004年/日本

監督:井筒和幸

戦争は「戦争」で終わらせることはできない。

1968年、日本は戦争から復興し、生活も向上しつつあった。
そんな京都で九州の修学旅行生が朝鮮高級の生徒に対し嫌がらせをしてしまう。
それを聞いた朝鮮高級の生徒はその修学旅行生が、乗ってきたバスを横倒しするという事件が起こる。
そこにたまたま乗り合わせてしまった松山康介(塩谷瞬)は、朝鮮高級のキョンジャ(沢尻エリカ)に恋してしまう。
今から40年ほど前の、在日朝鮮人と日本人との恋を描く。

井筒監督の作品。
ワイドショーばかりに出ているので,そちらのほうが有名だろう。
日朝間の民族意識の違いや,差別などの社会的な視点が加わっているため、好き嫌いが出やすい作品である。
そんなことを抜きにしても、青春ドラマとして純粋に楽しめば良いだろう。

観ないままにしておくのは、もったいないくらい非常に良い出来の映画だ。
観てから、あーだ、こーだと言うのは仕方ないにしても、日本映画も、これくらいのクオリティの映画はいくらでも撮れるのだと、勇気づけられる映画である。
 
▼以下はネタバレあり▼

はじめに断っておきたいことは、僕が日本人であるということ。
そして、そのことを抜きにして何かを語ることは、偽りであるということ。
以下の批評は、朝鮮半島に住む人たちにとって、穏やかでない表現もあるかもしれない。
僕のスタンスとしては、日本は他の国々と手をつなぐべきだと思っている。
歴史や戦争観について、議論があるところだとは分かっているが、その「議題」としてこの文章を提出するのではないことを了承いただきたい。
あくまでこの映画についての批評であることを前提として読んでいただきたい。

あるいは、この文章に対して嫌悪感を持たれる方もいらっしゃるかもしれない。
しかし、これはあくまで映画に対する批評の範疇を越えるようなことを狙って書いたものではない。
まず、その点をご理解していただきたいと思う。

結論から言って、この映画は非常に良くできている。
邦画とは思えないくらい足下がしっかりしている映画である。
これほどの完成度の邦画は、そうそうないだろう。
このごろはワイドショーばかりに出ているイメージの井筒監督として、監督業が自分の本業なのだという絶好のアピールになったことだろう。

まずテンポが素晴らしい。
青春ムービーにおいて、実は非常に重要なファクターがテンポである。
理解しやすく、感情移入しやすく、なおかつメリハリが聞いている。
痛烈な社会的視座を持ちながらも、そのテイストを和らげ、上辺だけ観ても、掘り下げても深い映画となっている。

実際、「あのころ」を体験したことがない人にとって、全共闘や、在日の問題などは、新鮮に感じたのではないだろうか。
怒濤のように流れる中に、時代を感じさせる番組名であったり、アイテムが登場するたびに、時代に引き込まれると共に、
その時代を知っている人間にとって、「ああ、あったあった!」という懐かしい感動も覚える。
それが軽快な演出のリズムと共にやってくるので、驚きながらも笑い、そして泣いてしまうという竜巻のようなパワフルな映画である。

また、役者も上手い。
明らかに高校生じゃないだろう的なつっこみを入れたくなるものの、全体的に「あ、こんなやつおる、おる」と思わず思ってしまうキャラばかりだ。
しかも彼ら全体が個性的なので、登場人物が多くても十分展開についていける。
それは、監督の手腕でありながら、役者たちの巧者ぶりのためであろう。
つい最近みた「疾走」とは雲泥の差である。

実際に韓国人かと思わせるくらい、違和感のないハングルだし、ハングルと日本語が混じったような表現も、在日朝鮮人であるという設定に実に見事に説得力を与えている。

テーマもしっかりしている。
「テムジン川」という一曲の歌を中心にして、故郷を引き裂かれた想いを、日本と朝鮮半島、朝鮮半島の南北という対立と、さらに在日朝鮮人と日本人という対立とをダブらせることによって、終始一貫したテーマを見せている。
ラストのテムジン川を熱唱しながら、不良たち(ここでは「不良」という言葉が似合うだろう)がケンカをしているシーンを重ねるのは、卑怯なくらい上手い。
同じ朝鮮人なのに、そして同じ人間なのに、という悲壮な願いと強い哀しみを感じさせるに十分だ。

間違いなく完成度は高い。
それは断言できる。

しかし、僕は映画の早い段階から感情移入することが難しくなった。

映画の完成度は、僕がみた邦画の中でもトップクラスだと断言できる。
だが、残念ながら、「時代錯誤」だとしか言いようがないのだ。

僕が感情移入できなくなったシーンは、バスを横倒しされたことに腹を立てた日本人高校生が、朝鮮高級の生徒に復讐する、ボウリングのシーンである。
僕が即座に思ったのは、「なんでそんなに日本人は弱いのだ」ということだった。
あくまで、このシーンは喧嘩。
どちらが勝かは、普通に考えて五分五分。
さらに卑怯にも奇襲をかけた日本人高校生は、かなり有利なはずである。
しかし、あっけなく負けてしまうのだ。

そのとき、「ん? なんかおかしくないか?」と思ってしまった。

もう一度コンテクストをおさらいする。
日本人高校生と朝鮮高級の生徒は日頃からいがみ合っていた。
修学旅行生が、朝鮮高級の生徒に対していたずらしたことをきっかけに、アンソンをはじめとした朝鮮高級の生徒が修学旅行生のバスを横転させてしまう。
それに復讐しようとした日本人高校生(空手部)は、鉄下駄で奇襲し、返り討ちにあってしまうのだ。

そうだ。
このパターンは、「正義」と「悪」との戦いのパターンではないか。
すなわち、「正義」= 朝鮮高級の不良、「悪」= 日本人高校生 という構図なのである。
観ているときは、なぜ違和感を覚えて、感情移入できなかったのかわからなかったが、よくよく考えてみると、この映画はすべてこの構図の上に成り立っている。

例えば、道ですれ違った時、武器で奇襲してきた日本人高校生は、チェドキたちに小便やセメントをかける。
このときも、仲間のチェドキは「トラック一杯もってこいや」と虚勢を張る。
いかにも自分の志を突き通す、かっこいいシーンだ。

対して、奇襲を返り討ちにあった日本人の空手部は、口にビー玉を込められて、殴られると、弱々しく謝るのだ。
なんと情けない。

なんだ、この差は。
なぜ日本人はそんなに卑怯で、弱く、そして根性がないのだ。

挙げ句の果てには、大阪から連れてきた連合軍で、朝鮮高級の生徒たちをたたきのめそうとする。
典型的な「卑怯な敵」ではないか。
しかも、結果は「引き分け」だと言う。

なぜなのだ。

もちろん、その構図は不良間の対立だけではない。
全共闘に参加する大学生に対して、在日朝鮮人がだましたり、ヒッピー族になるオタギリジョーは、バカ代表のような日本人だ。
日本人高校の教師にしても、盲目的に共産党かぶれで、最終的にサンドイッチマンになってしまう。

それに対して朝鮮人はどうだ。
必死に生きていることをことさら強調するようなシーンが多い。
顕著なのは、葬式に参加しようとした主人公に怒りをぶつけるシーン。
「お前ら日本人が何をしてきたのか、知っているのか」
ここには、
 日本 = 悪 加害者
 朝鮮 = 善 被害者
という構図が確固として存在している。

僕はこの構図に、素直に嫌悪感を抱いてしまう。
あまり政治的なこと、国民感情的なことに触れたくはない。
しかし、この構図はあまりに安易で、あまりに短絡的で、あまりに時代錯誤ではないか。

反論したいと思う人の意見は、こうだろう。
「あのころは確かにそういう時代だったんだよ。今よりももっと迫害がひどい時代だったんだ。だから間違っていない」

僕が問題にしたい、問題だと思う、嫌悪を感じる理由はそこにはない。
その時代がどうだったのか、僕には分からない。
じゃあ、なぜ今、この映画を作る必要があったのか、ということだ。
そんな構図はすでに時代遅れだ。
それは「戦後」の思想だ。
その思想ではやっていけないことは、すでに60年間で学んだはずだ。
自虐的な発想では、手を結ぶことは、対等につき合うことはできない、と。

沢尻エリカの台詞にも、カチンとくる。
「僕とつき合って下さい」
「もしつき合って、結婚する時、朝鮮人になれる?」

僕に言わせれば、なぜ塩谷瞬の方が朝鮮人にならなければならないのか。
なぜ、お前が日本人になろうと考えないのか。
その問いははたして、沢尻のなかにあったのか。
誰かを好きになるということは、結婚するということは、何かを共有することだ。
だのに、なぜその問いは日本人である塩谷瞬だけに向けられるのか。
同等の問いをなぜ朝鮮人たちにも向けないのか。

僕は何も、日本が朝鮮半島にしたことが正義だったと言いたいのではない。
一方的な勧善懲悪では、何も解決しないだろうと言いたいのだ。
これは、朝鮮半島に住む人々に対する嫌悪ではなく、日本映画としてこれを撮った人間に対する嫌悪である。

なるほど、この映画は良くできている。
一見すれば世界平和にも通ずるテーマ性を持ってる。
だが、その視点は、日本を悪に仕立て上げるという一方的なものだ。
これではあまりに卑怯ではないか。
しかも、なぜこの時期に、なぜこのような前時代的な視点の映画を撮ろうとしたのか、理解に苦しむ。

この映画を観て、在日朝鮮人、韓国人に対する差別について考えるだろう。
だが、僕はむしろ彼らに対する嫌悪感が増長する可能性さえあるような気がする。

国民感情は様々だ。
だとすれば、その両者ともをあぶり出す視点に立たなければ、双方が納得した形での「解答」は得られないだろう。
劇中で毛沢東思想にかぶれた教師が言うことを、コミカルにアイロニカルに描いていたが,
彼が言うことと同じ事を井筒はやってしまったのだ。
どちらかを一方的に描くことでは,差別は解決しない。
戦争を「戦争」で終わらせることができないように。

良くできている。
確かに良くできている。
だが、僕は感情移入できない。

(2006/6/9執筆)

続編も撮られている。
同じような哲学が流れているらしい。
井筒監督、あなたは天才かもしれないが、クソだ。

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