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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

SHE SAID/シー・セッド その名を暴け

2023-01-21 20:29:20 | 映画(さ)
評価点:78点/2022年/アメリカ/135分

監督:マリア・シュラーダー

2016年トランプ大統領の当選にわくアメリカで、大物映画プロデューサー・ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ、性的暴力の疑惑が上がった。
ニューヨークタイムスは彼の悪事を暴くために証言してくれる被害者を捜すが、誰もが証言を拒否した。
何件もの示談を発見するが、すべてその示談の契約には口外を一切しないことという条項があった。
幼い娘を産んだところのミーガン(キャリー・マリガン)とジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は関係者に片っ端から取材に挑む……。

ハリウッドの一大スキャンダルであり、世界的にも大きなムーブメントになった「#ME TOO」のワインスタイン事件を扱ったドラマだ。
誰もが記憶に新しいし、日本でも度々問題にされる芸能界やショウビジネスのセクハラ問題の、その発端だ。

主演は「プロミシング・ヤング・ウーマン」のキャリー・マリガン。
トレーラーを見た段階ではあまり見に行くつもりがなかったのだが、彼女が主演だと聞いて見に行くことにした。
どうせ映画館でみなければ、家で鑑賞するというのもおそらく難しいだろうし。

あまり派手な映画ではないし、見るべきはずの男に興味を持ってもらえないかもしれない。
その男たちも、相当な覚悟をもって映画館に行くべきだと思うし、だから鑑賞のハードルは高めだろう。
それでも見るべき映画だ。

日本では女性差別に対しての意識がまだまだ低く、職場でもどこでも日常的にセクハラが続いている。
問題はそれを可視化できていないことだ。
アメリカってひどい話ね、という他人事ではなく、むしろ日本のほうがもっとひどい。
当たり前のように性的な話が面白いと思って発言している人は多いし、問題視しようという社会的感度は非常に低い。

SNSなどでは、すぐに「フェミニストだ」と批判する人たちもいる。
そんなことはすべて括弧にいれて、とにかくすべての人間が当事者として見るべき映画だ。

▼以下はネタバレあり▼

よい映画監督とはどのような監督か。
誰もが筋を知っているのにそれでも面白くさせるのは、やはりその条件のような気がする。
ワインスタインの話はだれもが知っている。
結論はわかっているのだ。
けれどもその事件を一本の映画として見せるのは、やはり希有な制作陣によるものだろう。
二時間超の作品を見事に緊張感をもって描いたのは、私が途中で尿意と戦っていたからだけではないはずだ。

悪者を見つけ出してこき下ろすのはそれほど難しくない。
しかし、多くの現実的な問題はそんなに単純なものではない。
この映画がワインスタイン個人を批判するための映画なら、おそらく誰からも評価されなかっただろう。
私たちはこの事件を一人の出来事という特殊性で見つめるのではなく、構造的な問題であり、普遍的な意味をもつことを自分に投げかける必要がある。
この映画にはそのパワフルさがある。

どこまで事実に基づいているかどうかはこの際どうでもよいだろう。
この映画のテーマは、題材が事実であったとしても、ワインスタインその人だけを問題にしようとしたものではないからだ。
むしろ、守秘義務や示談制度、示談金による弁護士の搾取など、社会的な問題を描くことが、そしてそれが長い間問題でありながら誰もその問題に切り込まなかったということがテーマである。

二人の記者はともに子どもがおり、その子ども達がこの一連の被害者になったとき、どのように説明するのか、という点が常に問いかけとしてある。
あなたの子どもに、同じことが起こったらどのように対応するのか?
示談で済ますのか、お金を得たいから訴えるのか。
仕事は? 生きがいは? 尊厳は? 愛する人と出会ったときその人にその事件をどのように説明する?

このような問いかけは、直接的にそして間接的に、繰り返しこの映画で訴えられる。
ワインスタイン自身が声以外で登場しないことも、この映画が「当事者は周辺にいる人たちそのものだ」ということを示している。

そして、劇中でも指摘されているように、このセクハラをしても許されるのは構造的でシステムの問題だ。
法的なシステムは、立件するほうも弁護するほうも示談に持ち込んで金をせしめるという利益を生み出すものになっている。
加害者が守られ、守ることでお金が生まれ、利益を得る。
そういう構造になってしまっている。
アメリカは訴訟の社会だが、あれだけたくさんの弁護士が「食っていける」ということは、それだけ握りつぶされた「事件」が存在するということでもあるだろう。

しかし、その根本は、結局のところ、女性の尊厳を蔑ろにしてもかまわないという社会的な「無意識」や通念がある。
誰もがわかっているが、誰もが問題にしない。
それはそこに当然あるべきものとして存在し、倫理よりも利潤を優先させる構造が存在する。
それによって潤う人間がいれば、それを「NO」と拒否することが難しい。
プロミシング・ヤング・ウーマン」でもあったが、驚くことにこれに関わっているのは男性だけではなく、女性もなのだ。

だから繰り返し問われるのだ。
もし自分が被害者だったら声を上げることができる?
この問いは重すぎる。
映画を見ていれば、「証言してくれよ! そのほうが正しいよ!」と観客側からは思えてくる。
けれども、20年前のことを、改めて口にできるだろうか。
今の家族もいる。
昔「そういうことがあった」と軽々しく証言できるだろうか。

この映画がこの映画だけで完結せずに、観客側や現在にも地続きで迫ってくるのはそうした「私たちの今」の問題だからだ。
公開されると聞いて、「いくらなんでも映画化は早すぎるだろう」と私は感じた。
しかし、むしろ映画業界に起こった出来事だからこそ、映画として今、描く必要があったのだろう。

もちろん映画はすべて商業主義である。
売れる題材だから映画化されたのだ。
しかしそうであったとしても、業界自体に自浄作用がなければ映画化は難しかっただろう。

この映画によって、あるいはこの事件によって解決するほど問題の本質は単純ではない。
けれども問題が解決困難で、あるいは解決不可能だからといって、「仕方がない」とはできない。
問題を考え続けなければ、自分に問い続けなければならない。
こういう態度が、おそらく日本でもっとも欠乏しているものだろう。

こういう映画が日本では作れないのは、その土壌にあるだろう。
(邦題のセンスのなさが、それを象徴的に示している)

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