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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

茶の味(V)

2009-04-29 09:57:48 | 映画(た)
評価点:87点/2004年/日本

監督・原作:石井克人

日常における極上の幸せとは。

季節は春。中学校一年生になる春野一(佐藤貴広)は、転校していく女の子に告白できずに別れてしまったことを後悔していた。
一方、その妹幸子(坂野真弥)は、もう一人の大きな自分が見えることに、悩んでいた。
幸子は、アヤノおじさんが昔幽霊を見たときに、逆上がりができるようになったときにその幽霊も消えたという話を思い出し、独り、逆上がりができるように奮闘しはじめる。
時を同じくして、一のクラスに転校生が来た。
一はまた恋に落ちてしまう。

「鮫肌男と桃尻女」の石井克人監督の作品で、カンヌ映画祭のオープニング上映作品でもある。
日本ではあまり話題にならなかったようだが、国際的には話題をさらったようだ。
某映画サイトで、満足度が高かったこともあり、気になっていた作品だった。
「鮫肌」のほうは、まだ見ていないこともあって、石井作品を今回初めて見たことになる。

これぞ邦画の真骨頂ともいうべき作品で、のほほんとなれる一本だ。
ちなみに、僕の大好きな庵野秀明監督が映画俳優デビューの作品でもある。
 
▼以下はネタバレあり▼

まったく予備知識なしで見た映画。
最近は僕が見る作品の中で、話題作があまりにおもしろくないという傾向にあるので、全く知らない作品を見てみたのだ。

この映画を見終わったとき、思ったのは、これをどのように批評という形にしようか、ということだった。
映画批評という存在価値さえ否定してしまうような、そんな映画だ。
そんな肩肘張って見る必要なんかないだろう、という問いかけのような映画だ。

実際、あまり文章にすべきではないだろう。
言葉に置き換えてしまうと、とたんに色あせてしまう、それほど映画として完結されている、完成度の高い映画だ。

時間設定はおそらく現代だろう。
というのは、現代ではもう見つけることが難しいほど、絵に描いたような田舎が舞台となっているからだ。
その小さな村で起こった些細な出来事。
時間の流れ方さえ違うのではないか、と思えるほど、ゆっくりとしたペースで進む村を舞台に、縁側で何も考えずに茶をすする一家を中心に描いている。

あまりにゆったりとしたペースで進むため、一見するとストーリーなんてないのだ、と思えてしまう。
だが、そうではない。
アンチ・スタイリッシュとも言える手法にこだわった監督は、計算されたプロットとストーリーによって撮っている。
これだけテンポの遅い映画で、それらがしっかりしていなければおそらく二時間二十分を観客に集中させることは難しかっただろう。

僕は、この映画の隠れた魅力は、その計算されたストーリーにあるのではないかと思う。

家族それぞれに抱えているものがあるが、共通しているのは、達成したいと思っている目標だ。
長男の一は、恋することに積極的になりたいと思っている。
長女の幸子は、大きな自分を消すために逆上がり。
浅野忠信のおじさんは、かつて告白した女性に「別れ」と「祝福」の言葉を言うこと。
母親は、一度離れてしまったアニメの世界に再び挑戦すること。
漫画家轟木一騎は、ひらめいた音楽を形にすること。
そして、祖父の轟木アキラは、家族の幸福な姿を発見すること。

そう考えると、家族の物語であると同時に、中でも中心は祖父の物語だったことに気づく。
ものすごくユーモアあふれる人物だが、家族のことを想い、ちゃんと観察していたのがアキラおじいちゃんだったのだ。

ラストで祖父は死んでしまう。
だが、その祖父は、満足そうに、仕事をやり終えたというように、静かな死に顔をしている。
彼は最期に息子の嫁の幸福な姿を発見し、描き終えたところで死ぬのだ。

この映画は家族のひとりひとりに別々の物語があり、群衆劇のように展開する。
だが、おじいちゃんという一本の線が通っているため、軸がぶれない。
ひとりひとり、別々の「幸福」「日常にある目標の達成」といったことが話題になり、テーマとなっている。
それがきちんと集約されて、一つの映画、一つの物語として惹きつける理由は、この明示されないおじいちゃんという軸があるためだ。
はっきりと明示されているわけではないが、映画として支えているのは、彼の存在だろう。

それによって映画そのものが安定した。
唐突ともいえる「山よ」やテレビの中のショートコント、不自然なくらい大きいもうひとりの幸子など、笑えるネタは多い。
だが、それが安定して「ユーモア」や「笑い」に受け取るためには、この隠れた軸があるからなのだ。

幸子の虚像については、もう少し深く言及できるだろう。
幸子は、六歳という年齢もあって、「なんとなく」生きている。
教頭先生の話も、授業も、特に幸子の興味を引く物などない。
彼女は根本的に退屈しているのだ。
その心理が、自分より大きい姿となって現れる。
自分より大きいのは、自身の存在よりも大きく深刻な心理だからだ。

だが、逆上がりができるようになれば、その存在は消えるかもしれない、と考えた幸子は、必死にそのことに打ち込む。
逆上がりをしている最中に、大きい幸子が出てこないのはそのためだ。
そして達成したとき、大きい幸子とは比べものにならないほどの大きなひまわりが彼女を取り巻く世界全体に広がる。
文字にしてしまうと味気ないが、それが幸子の感じた幸福感、達成感の大きさを示している。

逆上がりができるようになる、ということ自体は、世界を席巻するような大きな出来事ではないだろう。
だが、幸子にとっては、これ以上ない至福の時だったのだ。
それがあのひまわりの大きさに表れているのだ。

それ以外にも、唐突なシーンは多い。
たとえば、アヤノ(浅野忠信)とアキラ(中嶋朋子)とのやりとり。
この映画の中でも一、二を争うほどの名シーンだ。
アヤノは何でもない、さらりとした物腰で生きているように、姪や甥からは映っている。
だが、彼が帰ってきた理由はアキラとの決別という決着をつけるためだったのだ。
それが、二人のやりとりだけで見せてしまうのだ。
昔男の方が女に告白したが、女は振ってしまった。
女はやがて結婚したが、やはり男のことが気になっている。
それは好きだったとか、そういうドラマチックなものでもないだろう。
そこにどうしても違和感を覚えてしまう、そういうものなのだろう。

二人のぎこちないやりとりは、二人の歩んできた感情が交錯している。
浅野も中嶋も抜群の演技を見せている。
このシーンを見るだけでもこの映画を見る価値はあるだろう、そう思わせるほどのうまさに満ちている。
アヤノは再会と決別を果たさなければきっと前には進めなかったのだ。
だからあのシーンは重く観客に響くのだ。

このようにこの映画のテーマは、極めて明確だ。
日常にあふれる、奇妙だが魅力あふれる人間たち。
その人間たちがいかに生きているかを、個々人の幸福という観点から描いた作品なのだ。
だが、その描き方は極めて曖昧で、極めて暗示的だ。
説教くさくなく、さらりと見せてしまう。
そのあたりにこの映画の魅力があるのだろう。

ヨーロッパの芸術的な手法、ハリウッドのエンターテイメントを追求した態度、韓国映画の急成長など、映画界はめまぐるしく変化し、それぞれの国・監督で、独自の発展を遂げてきた。
だが、邦画がそのなかでアイデンティティを見出すとすれば、このような映画ではないだろうか。
実際、公式サイトの掲示板には世界各国からの書き込みも目立つ。
彼らの「日常」は、きっと世界の壁を壊す普遍性をもっているのだ。

(2005/9/1執筆)

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